第6話「真実を見抜く瞳」
春の陽光が差し込む小さな応接間。
その静寂を打ち払うように、セレーナは力強く扉を開け放ち、かつての「相談室」へと足を踏み入れた。
埃を被った机、使い込まれた椅子、そして壁一面に貼られた、かつての顧客たちからの感謝の手紙。
ここは、彼女が「真実を見抜く異能」を駆使し、数多の「愛の嘘」と「本音」を紐解いてきた場所だった。
「まずは、アリサの本心が何を望んでいるか——それを探る必要があるわね」
セレーナは懐から、いつも持ち歩いているアリサの置き手紙を取り出し、そっと指先を滑らせた。
──「個人的なトラブル、一身上の都合につき、しばらくお暇をお与えください」
簡潔な言葉。しかし、その背後に隠されたアリサの“真意”が、セレーナの心を強く揺さぶっていた。
「心情を悟られないよう、あえて簡潔に書いた手紙。おそらく何かから私を守ろうとしたのね……不器用なアリサらしいわ」
ふと懐かしさが胸をよぎり、セレーナは微笑んだ。だが同時に、バイオレットが持ち込んだアリサの手紙に感じた“違和感”は、すでに確信へと変わっていた。
アリサは自らの意思で、セレーナの元を去ったのではない。
去らざるを得ない状況に追い込まれ、そして何よりも、セレーナをこの厄介な事態に巻き込まぬよう、自ら身を引いたのだ。
その健気さに、セレーナの胸が締めつけられる。
同時に、抗いがたい怒りが、静かに胸の奥で燃え始めていた。
(もしアリサに何かあったら——たとえ相手が誰であろうと、必ず私が“破滅”させてあげるわ)
この激しい感情は、悪役令嬢セレーナ・フォレスターの残滓なのか、それとも転生者・佐藤真奈美としての“人間らしさ”なのか。
セレーナはかつて「婚活の魔術師」と称され、貴族社会の婚姻を裏で操った、知略と異能の持ち主である。
そして彼女には、転生時に得た『真実を見抜く瞳』があった。
復讐のためにその才覚を用いたことを悔い、表舞台から姿を消していた彼女の心に、再び熱い炎が灯る。
ふと、第二王子グラハムに仕える執事、ロベルト・アルファードの顔が脳裏に浮かぶ。
王宮ではセバスチャンに次ぐ知略の持ち主と囁かれる男——今回の件に深く関わっている可能性を、セレーナは感じ取っていた。
「王家外戚会議にて討議が必要」……と、わざわざ貴族院の文書に記載し、私を同席させようとする意図。
そして、アリサとルシアン王子を狙う“何者か”の影。
これらは全て、誰かが仕組んだ“駒の動き”に過ぎない。
「この私に挑戦するつもりなら——すべてを失う覚悟は出来ているのでしょうね」
セレーナは冷たい微笑を浮かべると、バイオレットの屋敷を後にし、迷いなく自分の屋敷へと馬車を走らせた。
帰宅したセレーナは、かつてのアリサの部屋へと向かう。
使用人部屋の最も奥に位置する、清潔に保たれた角部屋。
そこには、アリサの誠実な人柄が、そのまま映し出されているようだった。
セレーナは、何も動かされていないように見える部屋の隅々まで、静かに視線を走らせる。
彼女の青い瞳が、わずかに光を宿す。
——空気の微細な揺らぎ。わずかに残る土の匂い。家具に残された、ごく微細な指紋の痕跡。
普段なら誰も気付かぬ、些細な情報。しかしセレーナの“異能”は、それらを有機的に結びつけ、ひとつの明確な「流れ」として脳裏に描き出していく。
(荷物は必要最低限。制服とエプロンをあえて置いていったのは、誰かの目を欺くため。そして玄関からではなく裏庭から——人目を避けて、早朝に出発した痕跡。
この土の匂いは……王都南部の小川沿いのものに近い)
床に落ちた、小さな干からびた花びらに目が留まる。
それはアリサが庭で摘んできたものだろう。その歪みと付着した異なる土の微粒子——おそらく踏みつけた痕跡。
(アリサが去った後、誰かがこの部屋に入った。形跡は巧みに消されているが、完璧ではない。わずかに残る“粘着質の匂い”——これは、王宮直属の諜報部『黒鴉』の隠密部隊が使う特殊な足跡消し材のもの)
彼らはアリサを追ったが、途中で追跡を諦めている。王家の命令なら、なぜ諦める?
目的はアリサの“確保”ではなく、“動向の確認”……だとすれば、アリサに接触し、情報を引き出そうとする“別の勢力”がいる。
アリサが身を隠すために向かったのは、追跡をかわしやすい場所、そして——
彼女がもっとも信頼できる「私以外の誰か」の元……。
そこまで考えたとき、アリサの手紙の「本当の意味」——
「いつまでも真実を見抜く」という、妙に婉曲な表現が脳裏をよぎる。
(あの言葉は……きっとアリサが、私に何かを伝えたくて仕込んだ“隠されたメッセージ”。
私の『真実を見抜く異能』を信じて、私にしか分からないよう、本当の状況を託した——だとしたら)
セレーナは、アリサの深い信頼と、それを裏切ることのできない自らの“使命”を痛感した。
同時に、この事件が、単なる身分差恋愛のもつれではなく、王宮を揺るがす“陰謀”の序章であると確信する。
「これから王宮に向かいます。早馬を飛ばして」
その声は冷たく、澄み切っていた。
屋敷の者たちは、その響きに込められた久方ぶりの「魔術師」の気配に、思わず背筋を伸ばす。
時を同じくして——
王宮、第二王子グラハム・ヴァルトハイムの執務室。
ロベルト・アルファードは、窓から差し込む夕日を背に、静かに報告書を読んでいた。整った顔立ちに、いつもの知的な微笑み。
「アルファード様、ご報告です。例の『婚活の魔術師』が、本件に関して王宮を訪れるとの一報が」
部下の報告に、ロベルトはゆっくりと顔を上げる。その視線は、報告書から離れ、窓の外——遠く霞む王都の街並みに注がれていた。
「ほう……ついに動きましたか。あのセレーナ・フォレスターが」
口元に、不敵な笑みが浮かぶ。それは、長年待ち望んだ獲物が、ようやく罠にかかったかのような満足げな笑み。
(かつて“魔女”とまで囁かれた天才……あなたの“魔法”が、この王宮の“現実”に、どこまで通用するか。見せてもらいましょう。そして……)
ロベルトの瞳の奥で、何やら含みのある光が揺らめいた。
(これより、盤上はさらに面白くなる。セバスチャン・クロイツネル……君が動くのも、楽しみだ)
* * *
セレーナを乗せた馬車が、王都の石畳を駆け抜け、王宮の門前で静かに停まる。
馬車を降りた彼女の前に、見慣れた顔が立っていた。
「お待ちしておりました!敬愛なるセレーナ様……」
出迎えたのは、かつての盟友、キリコ・バレンティノ。
今やセバスチャンの部下という肩書きを離れ、王宮付き尋問官チーフとしてその才能を発揮している。
青い髪をきっちりまとめ、軍服のような制服に身を包む姿は、かつてより一層美しく毅然とした雰囲気をまとっていた。
(なにその衣装……まるでベル○のオ○カルみたい!キリコったら……ああ、だめだ顔の火照りがおさまらない。しっかりするのよセレーナ!)
——前世で舞台と少女漫画に憧れていたセレーナ(真奈美)にとって、男装の麗人・キリコはまさに“推し”キャラそのものだった。
「キリコ……久しぶりね」
一瞬正気を失いかけたセレーナだったが、すぐに静かな笑みを浮かべて答える。
キリコは駆け寄ると、目の前で膝をつき、セレーナの手をしっかりと握った。
「ええ、本当に!またこうしてお会いできるなんて。私はいつまでも、セレーナ様の騎士としてお力になれることを願っていました。私の忠誠は、あの頃と寸分違わず……いえ、それ以上に強くなっております」
熱のこもった、偽りのない言葉。その忠誠は、かつてと変わらぬ本物だった。
思わず卒倒しそうになるセレーナだったが、持ち前の精神力で、なんとか平静を保った。
だが同時に、「真実を見抜く異能」が、キリコの目の奥に、かすかな「不安」の影を捉えていた。
それは忠誠とは異なる、もっと深い何かを憂えている色——あるいは恐ろしい秘密を抱えているような、そんな色だった。
「……キリコ。では、場所を変えましょうか」
静かな問いに、キリコの表情がわずかに強ばる。
「……さすがです、セレーナ様。お見通しですね。どうぞ、こちらへ」
キリコはそう言って、セレーナを王宮の奥、人目の少ない別室へと案内した。
重厚な扉が、二人の背後で静かに閉まる。
人払いを済ませ、立ち聞きされていないことを確かめてから、キリコはセレーナの目をじっと見つめ、ゆっくりと語りはじめた。
「これからお話しすることは、王国を揺るがしかねない事情です。そして──アリサの命にも影響するかもしれません」
その瞬間、王宮の華やかな喧騒から最も遠い部屋に、ただならぬ緊張感が満ちていった。