第5話「君を、愛してる」
春の王都は、日ごとに華やかさを増していた。
だが、王城の奥深くにある第三王子の私室では、重苦しい沈黙が空間を満たしていた。
ルシアン・ヴァルトハイムは、カーテンも開けず、机に肘をつき、頭を抱えていた。
(……また兄らの会議には呼ばれなかったか)
王位継承権がありながら、“次の王”の座からは外れている
——それがルシアン・ヴァルトハイムの王宮での立ち位置だった。
第一王子では長兄である ハンセン・ヴァルトハイムは誰もが納得する帝王の器を持ちながらも、健康不安により継承は困難とされている。
二番手である第二王子 グラハムは軍務に長け、国内外に睨みの利く実力派として知られており、順当に考えれば次期王で間違いないのだが——
その合理主義で冷酷な人間性への不安が王宮内で高まっており、絶対的な支持を集められてはいなかった。
このままでは相続権を争い、王宮が二分する。
だからこそ第三王子であるルシアンは、あえて自分に”無能””放蕩”のレッテルを貼ることにした。
“政治的に適度なお飾り”という居場所が与えることで、平穏な王宮暮らしを得たかったのだ。
(おかげで……王宮会議にも出席せず、平民の買い出しルートを分析している暇があるってわけだが)
誰もが「問題児」と見なす中、ただ一人——アリサ・クリスティ。
彼女だけが、自分にまっすぐな視線を向けてくれた。
(まったく……何やってるんだ私は)
目の前には山のように積まれた資料。
書類の中身はすべて、“王都南部の市街地商店の買い出しルート”および“平民の生活動線”に関する報告だった。
言うまでもなく、それらは彼女——アリサ・クリスティの動向を追うために、彼が情報部に依頼して集めさせたものである。
「まさしく職権濫用だな……放蕩王子ここに極めり……か」
書類の間から顔を覗かせた小さな手帳には、“中央市場・アラハン商店にての遭遇確率/8回中4回(50%)”と、律儀に記されたメモ。
「もしこれで会ったとて偶然じゃない。なんとも……戦略的、そう、戦略的アプローチってことだな」
苦し紛れの言い訳を呟きつつ、椅子の上で項垂れる王子。
そしてその日の午後、王城の外へ“たまたま”出向き、“偶然”アリサの買い出しルートに現れ、
“たまたま”会話を交わす——それをなん度も返すのは、もはや狙撃より正確な偶然操作であった。
アリサの優しさもあり、その場で軽く会話が弾む程度の関係にはなっていたが、彼女はまだ、自分が誰なのか知らない。
(まさか、王子なんて名乗ったら、彼女の性格からして、絶対距離置かれるに決まってる。どうしたものか)
「かといって……このまま名前も言わず、ただの通りすがりの出会いを装うのも……流石に無理がある」
(そもそも——それでいいのか?ルシアン・ヴァルトハイム)
誰にも答えられない問いが、彼の部屋の空気に溶けていった。
* * *
その日の午後も、ルシアンはフードを被り、城を抜け出していた。
王都南部。小さな市場の一角。
新鮮な野菜を並べた屋台の前で、見慣れた黒髪が揺れた。
「いた……アリサだ」
息を呑む。
今日はやけに眩しく見える。昼下がりの陽射しが彼女の白いエプロンを柔らかく照らし、あのガラスのように澄んだ瞳が、今日もきっと誰かを救うように優しく笑うのだろう。
距離を詰める。声をかけようか、肩を叩こうか、何度繰り返した“偶然”の再会なのに、言葉だけが出てこない。
(だめだ、これではまるで中途半端な演劇役者じゃないか)
だがその瞬間。
アリサが手にしたかごから、布包みに包まれた瓶がころんと転がり落ちた。
「……っ!」
反射的に足を伸ばし、キャッチ。
「っと、危ない」
「あ……!」
アリサがこちらを向く。その視線が合った瞬間、何かが静かに繋がる。
「あら……またお会いしましたね!」
ふわりと笑う彼女に、ルシアンの胸が詰まる。
「ま、また偶然だな。君は今日も買い出しかい?」
「はい、お嬢様のために。……相変わらず、同じ場所でお会いしますね。もう傷は大丈夫なのですかか?」
「ああ、君の処置が良かったおかげで、すっかり元通りさ。王宮医ですら関心していたくらい……(しまった)」
「王宮医?……それは流石に大袈裟ですよ。でも悪化しなくて何よりでした」
アリサはそう言って、笑顔を向けた。
ルシアンの脈が跳ねる。自覚している。それはもう完全に——恋だった。
(やっぱり、このまま名乗らずに彼女に近づくのは、不誠実なんじゃないか?)
「アリサ……あの、俺のこと、まだ何も話してないよな」
「はい?あ、たしかに……まだお名前も伺ってないですね!失礼しました!」
言いかけた名前が喉元で止まる。
言ってしまえば、きっとこの関係は壊れる。
でも、黙っていても、それはやっぱり——
「俺の名前は……」
覚悟を決め、自分の名を言いかけた時、突如として、空気の色が変わった。
市場の外れで、複数の兵士たちが馬車を取り囲んでいる。
市民のざわめき。目を凝らすと、馬車の上で何か布に包まれた木箱が運ばれていた。
「王家の紋章……?」
瞬間、ルシアンの背筋に冷たいものが走った。
(これは……軍機だ。こんなところで動くなんて、何が——)
「あぶない、伏せて!」
アリサの声と同時に、背後から矢が飛んだ。
すぐ横の壁に突き刺さる。誰かが狙っていた。彼を。
「こっちです、早く!」
アリサは迷わず、手を引いた。
人波をすり抜け、裏通りへ。狭い路地を走り抜けながら、ルシアンは確信した。
これは単なる通り魔ではない。何者かが、意図を持って——
(王子である俺を狙っていた……?)
やがて、安全な路地裏に身を隠し、息を整えながら、ルシアンはアリサに向き直った。
「アリサ……どうして、矢が来るのが分かった……?」
「私、セレーナ様の従者として、色んな“見る目”を育てられてきましたから。でも……それだけじゃない」
アリサの瞳が揺れる。
「貴方が“名乗らない”理由も、何となく分かってた気がするんです」
「そう……俺は、ずるい男だ。身分を隠して、偶然を装って何度も近づいて……君の気持ちに甘えて」
「でも、私も嬉したったんですその……身分がどうこうじゃなくて、あなたを私の目で見て、誠実な人だなって思ったから」
その一言が、ルシアンの胸を突き抜けた。
「こんな、嘘だらけの俺を、そんな風に」
「でも、その優しさは、本物なのでしょう?」
この時、ルシアンは確信した。
自分の人生は、この人に捧げるためにあるのだと。
——だが。
「俺は、俺の名はルシアン・ヴァルトハイム……このまま進めば、きっと、君を巻き込むことになる」
「でも——まだここは安全では」
アリサの言葉を遮るように、ルシアンが一歩退いた。
「まだ……今は、その時じゃない。でも約束する、後日必ず迎えに来るから、君は自分の屋敷に帰ってくれ」
その瞬間、背後の影に気づいた。
王国直属の諜報部——“黒鴉”の一人が、静かに現れる。
「ルシアン殿下。今の襲撃、我々の管轄です。どうか、お戻りを」
ルシアンはしばし沈黙し、やがてうなずいた。
「……わかった」
アリサにもう一度視線を向ける。
「アリサ、俺は……私は、君を愛している」
それだけを告げて、彼はその場を後にした。
* * *
その夜、アリサはセレーナ・フォレスターの屋敷で自分に与えられた専用室で思いにふけっていた。
「君を、愛している……か」
ルシアン・ヴェルトハイム……その名前は流石にアリサも知ってた。
「高貴な人だとは思ってたけど……まさか王子様だったなんて」
(それにしても、あの時の矢は、本当にルシアン様を狙ったもの——?)
アリサは矢が放たれる瞬間……自分の背中に、何か異様な気配を感じた気がした。
だからこそ、直前に危険を察知することが出来た。
セレーナから教わった、状況把握と危険察知の観察術。
それが役にたった瞬間だった。
——もし、あの矢の狙いが、自分に向けられたものだったとしたら。
そう考えながら、自分の部屋を見渡す。
そしてメイドにしては、随分と良い環境を与えられていると改めて感じた。
(セレーナ様は、私をメイドではなく、まるで妹のように扱ってくださる。
あの方の為なら、私は何度でも、この命を投げ出す覚悟ができている)
もしこのまま自分がこの屋敷にいれば、ルシアン王子を取り巻く何かの陰謀に、
セレーナを巻き込んでしまうかもしれない。
アリサにとってそれは、絶対に避けたい可能性だった。
(セレーナ様には、静かな暮らしを取り戻してほしい。
あの方の笑顔には、戦や陰謀は似合わない。
私がここを離れることで、それが守られるなら本望だ)
アリサはその夜、静かに荷物をまとめセレーナ・フォレスターの元を去った。
「個人的なトラブル、一身上の都合につき、しばらくお暇をお与えください」
とだけ、置き手紙に記して。
そして彼女は、荷物を抱え屋敷から街へと続く街路樹をゆっくりとした歩き出す。
——これが、今の私にできる誠意。
セレーナ様の平穏は、絶対に私が護るんだ。