第2話「迷いの扉」
アッサムの香りが、すっかり冷めていた。
バイオレットが置いたままのカップは、紅茶の表面にわずかな膜を張っている。
セレーナは、それを見つめながら、わずかに眉を寄せた。
「……王族。しかも、第三王子」
「ええ。ルシアン・ヴァルトハイム。現王の弟の子、つまりは王家の正統血統ね……第一王子は健康不安を抱えていて王位継承が困難とされているから、第二王子に続いての継承権を有しているわ」
バイオレットの声には、どこか躊躇いがあった。
「状況によって王座もありうる人物ってことよね……なおさら成婚なんて、ありえないわ。アリサは平民。しかも……私の従者だった子よ」
「だからこそ、あなたに相談に来たんでしょうね、成婚率100%の天才婚活カウンセラーに。」
セレーナは目を閉じ、そっと息を吐く。
「元、でしょ。今はもう違う……」
机の上の封筒には、未だ手をつけていない。触れただけで、なにかが壊れてしまいそうだった。
「愛があれば何でも乗り越えられる、なんて少女漫画、いえ……おとぎ話だけよ。王位継承権を捨て平民と結婚?
当人が望んでも、貴族院が絶対に許すはずないわよ」
「そうね……政治的には不可能よね。それは貴族院議長になってから良くわかった。
しかもルシアン殿下には人望があって、王宮でも一部の根強い支持がある。
だからこそ貴族院は絶対に反対するでしょうね……」
そういって天井を見つめるバイオレットの美しく長い金髪を、窓の陽光が照らしている。
王国の至宝と謳われた彼女の白く美しい見た目も相まって、まるで宗教画に描かれる聖女のような神秘さがそこにあった。
あの世間知らずで純粋無垢な公爵令嬢だったバイオレットが、国状を的確に把握しつつ現実的な評価をするなんて、やはり地位や責任が人を育てるということなのだろうか。
セレーナはそんなことを思いながら、美しき親友の意見に同調するように答えた。
「ええ、確実に反対するでしょうね。王族の血を継ぐ者が、平民と?その婚姻が前例となれば、貴族制度そのものが揺らぐ」
セレーナの言葉は冷たく、硬かった。
それは理知に裏打ちされた正論であり、同時に、彼女自身の中にある“何か”を遮断するための防壁だった。
「でも……アリサが本気で困ってる、迷っているのは事実で、あなたにとっての現実よ」
その言葉に、セレーナははっとした。
——私の前では、あの子、そんな顔一つ見せなかったのに。
ほんの少しだけ、心が揺れた。それでも、表には出さない。
静かな沈黙が、部屋を満たした。
やがて、バイオレットは席を立ち、封筒に指を添えた。
「これは、置いていくわ。読むかどうかは、あなた次第」
「……無理強いはしないのね」
「あなたに、そんなことはできないわ。……ただ、アリサが“あなたにしか頼めない”と思った気持ちが、本物だってだけは、伝えたかった」
そして彼女は、扉の前で振り返った。
「セレーナ。あなたは、まだ“閉じたまま”でいるの?」
その言葉だけを残して、静かに去っていった。
残されたセレーナは、手元のティーカップに視線を落とす。
冷えきった紅茶の中に、もう自分の姿は映らなかった。
「……まだ、私は……」
誰にともなく呟いたその声は、弱く、かすかだった。
だが、その奥には、消えかけた火のような、何かが微かに残っていた。
──バイオレットが去ったあと、応接間には再び沈黙が満ちていた。
春の光が差し込む窓辺。
街路樹の葉が風に揺れ、外の世界が動いていることを知らせている。
ここだけが、自分だけが止まっているように感じた。
セレーナは、封筒を前にしたまま微動だにせず座っていた。
目の前のそれは、もはやただの紙ではなかった。
彼女の過去と、誇りと、逃げたかった全てが詰まった──扉の鍵。
そしてついに、そっと手を伸ばす。
封を切る音が、空気を裂いた。
中にあったのは、手紙が一通と、もう一枚。
色褪せた書類のような文書だった。
一通目の便箋に、見慣れた筆跡が躍っていた。
「セレーナ様。お元気でお過ごしでしょうか。
突然の文をお許しください。私は今、とても困難な決断を迫られています。
人を好きになることが、こんなにも恐ろしいものだとは知りませんでした。
でも、それ以上に……。
私は、あの人と向き合いたいのです──”本当の意味”で。
だから、お願いがあります。
どうか、私たちの“結び”に、力を貸していただけませんか。
切にお願い、します。
いつもでも真実を見抜く、敬愛するセレーナ様へ
アリサ・クリスティ」
切に──お願い、します。
最後の文字が、胸の奥に刺さった。
だけど。
セレーナの目が細められる。
この文には、かすかに“違和感”があった。
「本当の意味」
「いつもでも真実を見抜く——」
あのアリサがこんなに婉曲で、意味深な書き方をするだろうか?
──あの子なら、もっとはっきり、まっすぐな文章を書くはず。
筆跡は確かにアリサのものだ。
だが、文体には他人の手が混じっているような、生硬な“整え”がある。
(誰かに、書かされた?
あるいは……何かを伏せて伝える意図が?)
視線を下に移す。
もう一枚の文書には、貴族院の印が押されていた。
日付は半月前。内容はこうだ。
「このたび、平民籍の女性アリサ・クリスティと王族ルシアン殿下との交際について、王家外戚会議にて討議が必要との旨を受領した。
本件に際し、アリサ・クリスティの元雇用主であり過去の“成婚仲介実績者”であるセレーナ・フォレスター殿が同席した場合、参考意見を伺う予定である」
なるほど──これはもう、“個人の恋”ではない。
セレーナは目を伏せ、机に額をつけたくなる衝動を堪えた。
「私がアリサに関わったせいで、彼女の人生が政治の犠牲になる……」
思考が過去へ滑っていく。
あの時もそうだった。政略、対立、誤算。
ベルトラムとのあの一件が、すべてを変えた。
──いや。
違う。
私は変わったのではなく、“変えた”のだ。
そのとき、脳裏に浮かぶのは──アリサの声。
あの日、彼女はこう言った。
「私、セレーナ様みたいに、ちゃんと自分の頭で考えられる人になりたいです!」
「セレーナ様はすごい、まるで魔法使いの目をお持ちのようです!」
「従者」としてではなく、「私自身」を純粋に見てくれた最初の存在。
忠義や主従ではない、信頼と敬愛で結ばれた絆。
彼女の無垢な言葉に、どれほど救われたきたか。
その時、セレーナの脳裏に、何か発火したようなな閃きが起こる。
魔法使いの目線……
観察から得られる情報……
視線から嘘を見破る私の異能。
(この文章……)
セレーナは目を閉じる。
心の奥からふつふつと何かが湧き上がってくる。
それはまだ湿った空気に灯る、弱々しい火だったが、確かに燃え始めていた。
「メッセージを隠したのが、誰かはわからないけど
挑戦する気かしら
——この私に」
机の上には、小さな金属の鍵が置いてある。
それは、相談室の扉の鍵。
弾劾裁判以来、一度も開けていない、あの部屋の。
セレーナは立ち上がる。
ゆっくりと、部屋の奥へと歩みを進める。
手の中の鍵が冷たい。だが、拒絶はしなかった。
扉の前に立ち、深く息を吸い込む。
それから、手をかける──が、鍵はまだ回さない。
“開けてしまえば、もう戻れない”
誰かの人生をまた手に取るということ。
それは、かつて失った「誇り」を再び賭けるということだ。
セレーナは目を伏せ、呟く。
「これは……アリサのため? それとも……」
まだ、自分の答えは出ていない。
それでも、彼女の足は、もう“拒絶だけでは立ち尽くせない”場所に差しかかっていた。
扉の前で、静かに、時間が止まる。
ギィィ……
わずかな音を響かせ、ゆっくりと扉は開かれた。