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第1話「アリサと王子の邂逅」


 夜風が冷たいというのに、

 王都の酒場通りは熱気に包まれていた。


 それは酔いに浮かれた笑い声でもあり、己を忘れた怒鳴り声でもあった。


 ルシアン・ヴァルトハイム——王国の第三王子は、襟を立ててフードを被り、人混みに紛れ歩いていた。


 護衛を撒くのは手慣れたもので、街の裏通りに至る頃には、彼の周囲に気配を感じさせる者はいなかった。


 そう、彼にとってお忍びの“城抜け”は常習であり、息苦しい王宮暮らしのなかで唯一許された自由だった。


 だが、その夜の彼には、かすかな苛立ちがあった。


 今日街へ降りた理由は、ただの気晴らしではない。

 王宮で耳にした、いくつかの言葉が引っかかっていたのだ。


 ——「第三王子など、表に立たせるだけ損というもの」

 ——「あの方には、人を惹きつける器が足りない」


 ——「最近じゃ、巷の大衆からも無駄飯食いと嘲笑されてるらしい」



 自分は、ただの“予備”で“無駄”なのだろうか。

 そう思うたび、内側に疼くものがあった。



「……やれやれ。王子が自分探しとは、笑えるな」



 ルシアンは苦く笑って、小さな酒場へ足を踏み入れた。


 酒は安く、客は雑多で、空気は濁っていた。

 それでも、王宮の閉塞感よりはずっと息ができる気がした。



「誰も私の噂話などしてない——ようだな」



内心ホッとしたものの、誰も自分に関心を持っていないという事かもしれない。


(そういえば、一度も正体がバレたことがない……こっちは笑えないな)


 嫌な思考を掻き消すように杯を重ね、言葉少なに時間を潰していたその時——




「てめぇ、今こっちを見やがったな」


 


 隣の席で酒を煽っていた男が、突然声を荒げた。

 ルシアンは視線を逸らしたが、すでに遅かった。


「貴族様か? 顔立ちが上等じゃねぇか。どこの坊ちゃんだ?」


 男の連れが立ち上がる。酒臭さと殺気が交錯し、空気が変わった。


 ルシアンは立ち上がり、短く言った。


「悪いな、生まれつき顔だけは良いらしくてね」


 だがその言葉が逆鱗に触れたらしい。

 男たちは突然、殴りかかってきた。



 ルシアンは余裕の動作で最初の攻撃を避ける。

 しかし、その仲間が短剣を抜き、四方を取り囲むまでが早かった。


 (まずい——)


 狭い店内故に思う様に身動きが取れず、数人がかりの力に押し込まれる。


 肩に鈍い痛み、腹部に拳が食い込み、視界が歪んだ。


 王子として、一通りの軍用武術や護身術を幼い頃から叩き込まれているルシアンにとって、一般人を相手にするなど造作もないはずだった。


 しかし——暴漢たちは思いの外、手練だった。


(くっそコイツら、素人じゃないのか?)


 それでも、掴んでいた男の腕を捻り、一瞬生まれた隙に乗じて何とか裏口から抜け出す。


 そして疼く横腹を抑えながら闇の中を走った。


(これは、肋骨をやってしまったかもな)


 何本目かの路地で、ようやく追っ手の気配が途絶えた。


 しかしその瞬間、足がもつれ、ルシアンは石畳に膝をついた。


「……くそ……!情けない」


 胸の痛みで呼吸が浅くなり、酸欠で頭がくらむ。

 見ると肩口が切れている。血が流れ、服を濡らしていた。


「失血か、まずいな」


 意識が遠のきかけたその時——


「ちょっと!大丈夫ですか?」


 その美しい声が、夜気を裂いた。


 ルシアンが目を上げると、月明かりの下に、ひとりの少女が立っていた。

 

 首元で揃ったストレートの黒髪に、黒い制服のようなワンピース。そして白いエプロン、両手には布包みと薬草の小袋を抱えていた。


 優しくも端正な顔立ち。見開かれたブラウン色の瞳はまるでガラスの様に透き通っている。


 もう天使が迎えに来たのか?

 意識朦朧としたルシアンにはそう見えた。


「……怪我をしていますね。少し見せていただけますか」


「いや、構わ……」


「駄目です。命に関わる傷ではありませんが、放置すれば感染します」


 そう言って、少女はしゃがみ込み、手際よく包帯を取り出す。


 戸惑いながらも、ルシアンは腕を差し出した。


「薬草と清酒しかありませんが……少し沁みますよ」


 彼女の手は迷いがなく、それでいて柔らかかった。

 触れられるたび、奇妙な安堵が胸に広がっていく。


「……お嬢さん、名は?」


 ふと問うと、少女は微笑んだ。


「アリサです。貴族家に仕えるただのメイドです。今日はお嬢様の為の買い出しの帰り道でした」


 ルシアンは思わず聞き返した。


「こんな時間に? 危ないだろう」


「お嬢様はこの時間までお仕事をされてますから、滋養に良いお夜食を作るのが私の役目ですから」


「そうか、それは迷惑な主人だな」


「違います。そんなふうに言わないでください……あのお方は、私の誇りですから!」


 アリサのやや怒った真剣な目に、ルシアンは惹き込まれる。


「悪かった、そんなつもりじゃ」


「おかげで、今こうして貴方を助けられたのだから、お嬢様に感謝していただかないと」


 あまりに澄んだ言葉に、ルシアンは返す言葉を失った。


(こんなに従者に敬愛されるとは、大した人物のようだ)


「貴方は高貴な生まれの……方ですね」


傷の手当をしながらアリサが静かに呟いた。


「なぜそう思うんだ?」


ルシアンは正体がバレたのかと思い、一瞬身構える。


「靴と、服の袖口を見れば何となく。まあ、お嬢様に習ったんですけどね」


「——ただの、放蕩息子さ」


 一通りの応急処置のお陰で、ルシアンは心も体も落ち着きを取り戻す。


「……ありがとう、アリサ。君のような人に会えてよかった」


「あなたこそ、どうか気をつけて。王都の夜は、時に……思わぬ悪意が潜んでいますから」


 その最後の言葉だけが、妙に胸に残った。


 まるで、彼女も、大変な事に巻き込まれた経験があるかのような口ぶりだったからだ——



 そしてアリサは小さく会釈し、夜の路地へと去っていった。



 残されたルシアンは、傷を押さえながら、微かに笑った。




 アリサ。美しいメイドの少女。



 それは今宵、一瞬で、彼の世界の温度を変えた存在となった。



「アリサ……」



 その名は、静かに、彼の心に刻まれていた。



 そして、ルシアンが去った後——


 先ほどの酒場の裏口近くに、黒いフードの影が立っていた。


 闇に溶けるその者は、月を見上げ、ひとつ呟く。


「……逃げ切ったか。だが、計画はこれからが本番だ」


 誰に向けたとも知れぬその声は、風に紛れて消えていった。


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