第14話「蠢く王家の闇」
夜の闇が静まり返った王宮の回廊を、ルシアン・ヴァルトハイムは慎重に歩いていた。月光が透けるほど薄い白の外套を身にまとい、その美しい金髪を深くフードの中へ隠している。
「……この時間であれば、やはり黒鴉の気配はないな」
そうつぶやき、背後を気にしながらも足音を殺して進む。今日だけは、何があろうと誰にも知られるわけにはいかなかった。
彼が向かうのは、王宮の郊外に位置する屋敷——セレーナ・フォレスターの下で、アリサが長年過ごしていた場所。
(このままではアリサが巻き込まれる……それだけは避けなければならない)
胸に広がる不安をぐっと押し込めながら、ルシアンは王城の通用門の隣にある、厩舎へ辿り着く。静かな動作で鍵を外し、一頭の馬に跨ると、冷たい夜風が頬を撫でるのを感じながら馬を走らせた。
彼の蒼い瞳は揺るぎない覚悟に燃えていた。
「セレーナ・フォレスター……君ならば、きっとこの運命の鎖を断ち切ってくれる」
そして彼は馬の腹を叩くと、速度を上げ闇に紛れるようにして屋敷へと向かっていった。
◇
深夜のセレーナ邸。静寂に包まれた書斎には、ランプの柔らかな明かりが灯り、窓の外には王都の黒い輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。
机の上には、革装丁の書物と、古びた羊皮紙。そこに刻まれた教会の記章が、静かに空気を緊張させている。
セレーナは椅子に腰かけ、頬杖をついて書面を睨んでいた。向かいには、黒衣のキリコが立ち、古文書の一節を指でなぞる。
「神聖メビウス教会が記した戴冠式の記録です、セレーナ様。奇妙なのは、教会側の天啓で示された“御子”以外の王が即位した時……必ず不可解な災いが発生している点です」
「偶然にしては……妙ね。記録された“災い”の具体例は?」
「王の病死、暴動の勃発、王妃の変死、そして継承から数年で王位を剥奪された例も……。さらに共通しているのは、どれも原因がはっきりしないということです」
セレーナの目が細くなる。
「つまり、“御子”でなければ災いが起こる。……まるで教会の意図に従わぬ王家には天罰が降るかのように」
「加えて、第一王子の病も調べました。公式には“不明熱”とされていますが、複数の医師が診断を拒否していた形跡があります。まるで、真相に触れることが禁忌であるかのように」
「……王家そのものが、何かに管理されているというの?」
キリコは一枚の羊皮紙を静かに差し出した。
「先日密かにお話ししたように、第一王子の病に、王家の何者かが関与した形跡が見つかってます。疑いがあるのは、まず継承権二位のグラハム第二王子の派閥」
「その参謀はロベルト・アルファード……セバスチャンに次ぐ謀略の執事。やっかいな相手ね」
「はい、そして次に疑いがかかるグラハム第三王子。これもお話ししたように、グラハム殿下がその“御子”となった人物……状況としては最も疑いが深い存在と言えます」
セレーナの脳裏にアリサの顔が浮かぶ。彼女は事実をどこまで知っているのだろうか。
「そして私が最も懸念しているのが、グラハム殿下の後ろ盾となっているのが最大貴族、グレイスフィールド公爵家だという点です……」
セレーナは眉をひそめる。
「つまり……私の親友、貴族院議長であるバイオレット・グレイスフィールドを信用するなと言いたいのでしょう」
「……セレーナ様ならば、必ず真実を見抜かれる。私はバイオレット様を信じたいです」
「もちろん私も同じ考えよ」
しかし、今では無二の親友となったバイオレットだが、転生前、つまり前世のセレーナが、彼女の婚約者アルト・デュラハンを掠奪した過去がある。
(だからこそ彼女が、私を恨んでいないとも言い切れない)
ふいに夜風が窓を鳴らす。部屋の静寂が、よりいっそう重く深く沈んでいった。
◇
開拓地の夜は、王都よりもなお静かだった。澄んだ星空の下、領主邸の書斎にひとつだけ灯るランプの光。
アリサはその灯のもと、広げた書簡を胸に抱えて立ち尽くしていた。机上に置かれた封蝋には、第三王子、ルシアン・ヴァルトハイム殿下の紋章。
「そんな……無茶な……止めなければ!」
言葉が漏れる。そこへ、戸をノックする音。入ってきたのは、軍務服のままのアリシアだった。
「どうしたんだ?こんな時間まで……眠れないのか」
アリサは肩をすくめるようにして言葉を返した。
「申し訳ありません、アリシア様。……殿下からの手紙にとんでもない事が書かれてて」
「……見せてもらえる?」
アリサは迷った末、そっと手紙を差し出す。アリシアは黙って目を通し、眉間に皺を寄せた。
「……ルシアン殿下、次の王宮晩餐会で、継承権を放棄を宣言するつもりなのね。あなたとの成婚のために」
「それだけは駄目です……! 王位継承を捨ててまで、そんな……」
「私はそれを、止めるべきとは思わない」
アリシアの声は毅然としていた。
「ひとりの男が、しかも王子が、愛のために覚悟を示す。その重みを無視するのは、侮辱になるわ」
アリサは唇を噛みしめた。だが、意を決して口を開く。
「……以前、私を襲った影のひとりが、神聖メビウス教会の密偵だと言いましたよね。でも……セレーナ様の下を去ったあとに、別の者に追跡されたんです」
「別の者……とは、一体」
「それが、第二王子殿下の近衛兵だったんです……もちろん上手く逃れましたから、ここに居ることは知られて無いと思います」
アリシアの双眸に怒りが宿る。
「アリサ!そんな重要な事をなぜ今まで黙っていたの?!」
「……セレーナ様を守るためです。大ごとにすれば、あのお方にも火の粉が……」
アリシアは数秒、何かをこらえるように目を閉じた。
「……まったく、あなたという子は。だが、その優しさがアリサらしい」
アリサの視線が揺れる。アリシアは静かに続けた。
「ルシアン殿下が継承権を放棄すれば、たしかグラハム殿下は安泰だろう。だが問題は、その場合グレイスフィールド家が必ず反発して動くということだ」
「……え?なぜですか」
「今や最大貴族になったグレイスフィールド公爵家は、ルシアン殿下の強力な後ろ盾なのだ。それが瓦解したと見なされれば、家門の名誉と令嬢バイオレットによる貴族院の支配力が脅かされる。つまり、アリサとバイオレットの立場が……真正面から衝突する可能性がある」
アリサは言葉を失い、手に持った手紙を見つめ直した。
「……そうなれば、セレーナ様も……」
「ええ。最終的にはセレーナとヴァイオレットが向き合うことになる。これはもう、恋とか忠義の物語なんかじゃ済まない。国家の行方そのものが動いているんだ」
静かな夜に、ふたりの沈黙が落ちた。
がその沈黙は、確かな決意の前触れだった――。