第12話「結びの暗号」
アリシア領主館の応接間。
夜更け、深紅の絨毯に囲まれた広い室内。
アリサはカップを手に窓辺に佇んでいた。薄いカーテン越しに、月明かりが差し込む。
扉がそっと開く。
「お茶、冷めてしまうぞ」
アリシアが陽気に声をかける。手にはポットと予備のカップ。
「……すみません、少し考えごとをしていて」
「そうか。しかし、せっかく危機一髪で戦場から生還したのだ。もう少し勝利の余韻……いや、気を緩めてもいいんじゃないか?」
アリシアは大袈裟に肩をすくめ、アリサの隣に座る。テーブルの上には焼き菓子と茶器。
「ここは安全だ。私が保証する。まあ、ちょっと人の出入りは増えたけどね……開拓地は人手不足でな」
「それは……分かっています。でも、少しだけ——なんだか、常に誰かに見られている気がして」
アリシアがわざと明るい声で返す。
「気にしすぎだ。ここは王宮の目も届かない。……まあ、一部の“伝令”は少し胡散臭いけどな」
「やっぱり……。数日前から“見慣れない顔”が私のことこにも現れるようになりまた。——彼女は味方なのでしょうか」
「なんとも慎重だな、さすが“セレーナ”の弟子。その件は、私も部下に探らせてる。何かあれば、昨夜のように私の剣で一蹴してやるから安心しろ」
アリサはほっとしたように微笑むが、目の奥に警戒が残る。
「……それでも、油断しないでください。私はあの日、見たのです。私の追手は”王宮”に深く関わる”強大な組織”です」
「わかってる。それが確定だとすれば、私も自分の身を案じる必要がある。——なにより“友達”を失いたくない」
アリシアがふざけるようにウィンクする。慣れないからか、なんともそれがぎこちなく、アリサは少し気を緩めた。
それも束の間、アリサはふと表情を曇らせ、低く囁く。
「……そろそろ“伝わった”でしょうか。あの合図……」
「セレーナ宛への手紙?あれに合図なんて書いてたか?」
「ええ。私の推測を忍ばせました……というより“警告”です。まず誰も気が付かないでしょうけど——セレーナ様には必ず伝わると確信してます」
アリシアは茶器を手に取り、静かに応じる。
「——まあセレーナなら。あの“魔法使いの目”は誤魔化せない。たとえ相手が神だとしてもな」
アリサが、遠い目で微笑む。
「ええ、そうですね……セレーナなら、きっと」
アリシアが少し顔を近づける。
「アリサ、怖いのか?」
「正直に言えば……少し。でも、逃げてばかりじゃ何も変わらないとも思っています」
「その勇気、立派だよ。私が全ての責任をもつから、好きに動いていい。あと昨夜、”本物”のルシアン様から君への密書が届いている。落ち着いたら読め」
そういうと、アリシアは懐から封書を取り出し、アリサに手渡した。
それを彼女はすこし頬を赤らめてじっとみつめた。
「——ちなみに、まだ封は切ってないから。私もそこまで野暮じゃない」
「ちょ、そういうのじゃないと思いますよ!」
その時、廊下の奥で小さな物音がした。ふたりの会話が止まる。
「……誰だ?」
アリシアが即座に立ち上がり、目で部下を呼ぶ合図を送る。すぐに護衛が姿を現す。
「すみません、伝令が来ています。夜分ですが至急とのことです」
「……通せ。アリサ、奥の部屋で休んでてくれ」
アリサは静かにうなずき、扉の向こうへと消える。その背に、アリシアの凛としたまなざしが注がれていた。
◆ ◆ ◆
王宮西棟、夜半。
厚い書類と蝋燭の明かりが揺れる静寂な執務室。
セレーナは、さっきの歌の正体を気にしながらも、机に手紙を広げ、何度もアリサから送られた文面をなぞっていた。
「……“困難な決断”……“本当の意味”……“結び”……」
小声で言葉を反芻しながら、ペン先で文字をたどる。
ドアの外で控える従者が「お茶をお持ちしますか」と問うが、セレーナは手を振って断る。
「いいえ、今は……一人で考えたいの。ありがとう」
従者が静かに去ると、セレーナはもう一度、手紙を目で追った。
「……素直なアリサが、こんな貴族のような回りくどい文面を用いたのには、なんらかの意図があるはず。私だけ解る”何か”を伝えようとしているはず」
まずあのアリサが王子である人物を“あの人”という曖昧な表現で濁すわけがない。そこに“本当の意味”といった蛇足。
さらに——不自然な読点の位置。
筆跡は本人そのもの。だが、語彙やリズムが違う。
(つまり王宮や貴族院に知られると厄介な内容……おそらくそれは私の身にも関わる警告の類かもね……)
セレーナは手紙の封蝋を裏返して睨む。
「封蝋が……斜めに歪んでいる」
王宮を通すの公式書簡は、必ず紋章の向きと封印を正対させるはず――。
そのわずかな“ズレ”が、合図の可能性を思わせた。
ペンで封蝋の形をなぞりながら、ぶつぶつと呟く。
「この歪み、以前に見覚えがある……」
机の引き出しから、過去の書簡の写しを取り出し、見比べる。
「やっぱり……この左下の膨らみ。“内通者あり”を示す暗号文だ」
目を細めて文面を再読する。
「“結び”……これは“アリサとルシアン王子”の成婚の意味じゃない。何かの”組織”の……隠語」
“お願い、します。”
(その不自然な読点の位置。“い”と“し”を分断。意向、意図、意味……この場合は『意義』だ。ならその対義は……思想)
それはなんらかの組織の特徴を仄めかす仕掛け。
セレーナは低く呟く。
——“結び”……”意義”と”思想”の分離……まさか。
「アリサはこの組織に狙われている?そして私にも危険が迫っていると伝えたかったのね」
執務室の壁に掛けられた古地図を見やりながら、思考を巡らせる。
「誰が、どこまで関わって動いている……? “監視者”はどこに……」
窓の外で、警備兵がすれ違う気配。
静かな王宮の闇に、わずかな不安が差す。
「おもったより強大な相手ね……明日、誰よりも先にこの“結び”を洗う必要があるわね」
そう呟き、セレーナは静かにペンを置いた。
「アリサ、あなたの警告は受け取ったわ……でも私は逃げない。そのためにも、そしてあなたの成婚の本意を知りたいのよ」
セレーナは机の上で静かに拳を握った。
(この国の“神聖で深い闇”が、蛇のように動き始めている。アリサも、私も、そして王宮全体も——すべてがその渦中にいる)
月明かりがカーテン越しに射し込み、手紙の影を長く伸ばしていた。
セレーナの瞳は、まるで新たな謎を見据える魔術師のように、ひときわ強く輝いていた——
◆ ◆ ◇
王宮の朝は、いつも慌ただしい。
まだ陽も昇りきらぬ早朝、長い回廊には冷えた石床を照らす淡い朝靄と、控えめな灯りが揺れている。
セバスチャンは分厚い書類を手に抱え、無駄のない足取りで歩いていた。
その背後を、ミュリエルが寝癖もそのままに、ぶつぶつと文句を垂れながら追いかける。
「……朝から仕事多すぎでしょ! 私の世界だったらSNSで大騒ぎ!“地獄のブラック企業”で大炎上だよこれ。ねえってば!悪い方のトレンド入りしちゃうよセバスチャン!」
セバスチャンは小さくため息をつく。
「何を言ってるのかわからないが、これは王宮で働く者の務めだ。君は“吟遊詩人”だが、私の秘書官なのだから、王宮からの公式招集に逆らうわけにはいかない」
「わかってるよ、でも、もっとこう……乙女ゲームなら朝は“お姫様の目覚めイベント”とか、優雅なブランチとかじゃないの!?」
延々と続くミュリエルの文句を聞きながら、ふたりが歩みを進めるたび、王宮の衛兵や侍女たちが小さく頭を下げてすれ違っていく。
高い天井、冷たい大理石の壁、歴史を感じさせる大きな絵画と重厚な扉。その全てが、これから始まる新たな一日を静かに迎えている。
「……で、今朝の呼び出し、内容は?」
「第二王子グラハム殿下が、昨夜王宮に響いた“吟遊詩人の歌声”の主に会いたいと仰せだ。……つまり君だ、ミュリエル」
「えっ……! 第二王子……? やば……国民的イケメンに会えるイベントだよね、これ!」
ミュリエルは内心テンションが上がるのを必死で抑える。
「グラハム殿下に興味があるのか?」
「違くて、カップリングへの期待感ていうの?テンションあがるってこれ」
しかし、セバスチャンの表情はどこか険しい。
「浮かれすぎるな。グラハム殿下は……表の顔と裏の顔を持つ。油断するな、ミュリエル」
「はーい、了解です隊長。私、警戒レベルMAXで行きます!」
王宮の西側、第二王子官邸の前に着く。
白い石造りの塔門、その門前には二本の旗が揺れていた。
ミュリエルは足を止め、その紋章をじっと見上げる。
「このマーク……なんか気になるんだけど……」
三匹の蛇が絡み合い、複雑に結ばれている。
「それは神聖メビウス教会の紋章だ。第二王子、いや王家の正統性を証明するもの。この国で知らぬ者はいない」
セバスチャンの声が低く響いた、その瞬間——
ミュリエルの脳裏を、古い教会の石壁や、祈る人々、蛇の紋章を前にした儀式のような光景が、断片的にフラッシュバックする。
「……っ、今のは……?」
流れ込んでくる過去の記憶のような情景。自分の中で何かがかすかに覚醒しはじめる、不思議な感覚だけが、静かな朝の空気の中で胸に残った。