プロローグ 〜閉じられた才能〜
——前作
天才婚活カウンセラーから、略奪婚で破滅する悪役令嬢セレーナ・フォレスターへと転生した佐藤真奈美は、その抜群の知性と婚活スキルによって、没落シナリオを見事に回避し、新たな人生を歩み出した……
しかし今、誰も居ない部屋でひとり、白磁のポットから紅茶を注いでいる。
厳選したアッサムに濃厚なミルク。
以前と同じ配分、変わらぬ手順。
ただ違うのは、この部屋にもう“依頼人”はいないということ。
ここは広大なグレイスフィールド公爵家の庭に、ポツンと佇む小さな一軒家。
かつて「ウィッチ婚活相談所」と呼ばれた舞台……
その顧客は高位貴族から辺境貴族、成り上がりの新興令嬢まで……
彼女のもとを訪れた者たちは皆、政略結婚という偽りの愛を受け入れつつも、内心には叶わぬ成婚の願望を胸に抱いていた。
しかし、セレーナ・フォレスターは、すべての嘘を見抜く観察眼と、優れた知略で状況を紐解き打開し、不可能と思われた組み合わせを次々と実現させた。
——その成婚率、なんと100%
やがて人々は彼女を「奇跡の婚活カウンセラー」と讃えた。
しかし今、その小さな応接間には、沈黙だけが残っていた。
窓の外に目をやると、街路樹の葉が静かに揺れている。
晴れやかな空、美しい朝。
だが、彼女の胸のうちには、いまだに消えない靄があった。
「お前は“婚活”を、復讐の道具にしたのか?」
心の奥で、ベルトラムの声が問いかけてくる。
否、と答えられたなら、どれほど楽だっただろう。
セレーナ・フォレスターとしての運命を背負いつつも、婚活のプロとしての誇りを胸に、貴族達の「本音」の愛を、全力でサポートしてきた。
……しかしその根底に、前貴族院長ベルトラムを“失脚”させ、転生前のセレーナ・フォレスターの”仇を討つ”という思惑があったのも事実だった。
そう、ベルトラムが崩れ落ちたあの瞬間を、セレーナ(真奈美)は心の奥底から望んでいたのだ。
私怨という一滴の感情。
それだけで、あの仕事に汚れが混ざった気がした。
だからこそ、セレーナはこの場所を閉じた。
あの騒がしい日々——貴族たちの結婚劇場も、セバスチャン・クロイツネルとの知略合戦も、すべて過去のものとなった。
そしてもう、誰の愛にも、誰の人生にも関わらないと決めた。
その決意を破る者など、いないはずだった。
だが、そのとき空気が変わった。
戸口に立つ気配が、セレーナの求める静寂をふわりと断ち切った。
「入ってもいいかしら?」
戸をノックせずにそう告げる、柔らかい声。
セレーナは微笑を浮かべることもせず、そっと応えた。
「もう入ってるでしょ、バイオレット」
音もなく入ってきたのは、グレースフィールド公爵家の長女にして、現・貴族院議長バイオレット・グレースフィールド。
彼女は上質な青紫の外套を身に纏い、柔らかな金色の髪を揺らしながら、ゆっくりとセレーナへ歩み寄る。
……一瞬で人々を魅了する美貌と、優しく柔らかな表情。
その瞳に宿る強い意志と、国王すら認めるカリスマ性。
彼女が口を開くだけで、議会の、いや王国の空気すら変わる——セレーナはそれをよく知っていた。
「紅茶、いただいても?」
そう言ってポットを手に取ると、バイオレットは相変わらずの無邪気な微笑みを浮かべた。
「ええ。今日はアッサム。少し強めに出してるけれど」
カップを受け取ったバイオレットは、椅子に腰を下ろし、少しだけ目を細めた。
「あなたらしいわね。気持ちがぶれないところ、全然変わらない」
その表情は、懐かしさとも、ためらいともつかない色を宿していた。
「本題に入る前に、ちょっとだけ聞かせて」
「なに?」
「どうして、そこまで自分を責め続けているの?」
その一言に、セレーナの指先がわずかに震えた。
けれど、それを表に出すことはしない。彼女はただ、静かに言葉を選んだ。
「仕事は、手段じゃないの。……まして、私怨のはけ口にしていいものじゃない」
「あなたの支援で結ばれた夫婦たちは、今も幸せに暮らしている。誰もが感謝してるわ。それでも足りない?」
「足りる、足りないじゃないの。……“私は、自分の誇りを、自分で裏切った”。それがすべてよ」
沈黙が流れる。
バイオレットはその言葉を否定しなかった。
ただ、そっと視線を落とした。
「あなたらしいわ。どこまでも、まっすぐよね」
「だから、今日もその話なら——断るわ。何度でも言うけれど、私はもう婚活カウンセラーじゃない」
「ええ、それは分かってる。分かった上で、今日は“最後の一件”を相談しに来たの」
そう言って、彼女は封筒を取り出し、机の上に置いた。
セレーナはその仕草を眺めながら、ため息をひとつ。
「これは誰からの依頼?」
「アリサ——あなたの、従者だったアリサ・クリスティからよ」
セレーナの瞳が揺れた。
冷静だったセレーナが動揺したように、その深く吸い込まれそうな青色の瞳を見開く。
「……彼女が、どうかしたの?何かあった!?」
その表情を見て、バイオレットは一瞬微笑んだ。
(なんて美しい瞳……まるで深淵を覗き込むようだわ)
しかしすぐに真剣な眼差しに戻り、噛み砕くようにゆっくりと話し始めた。
「今から半年前。王都の片隅で、暴漢に絡まれていた一人の青年を、アリサが助けたらしいの。手当てをして、言葉を交わして、それきりになるはずだった——なのに」
それはアリサが、突然セレーナの元を去った時期と一致していた。
個人的なトラブルと言っていたので、深く追求することはしなかったが、アリサを妹のように愛していたセレーナにとって、心に空白をつくる悲しい出来事だった。
「……アリサが婚姻するってこと?」
「当初彼女は積極的じゃなかったみたいだけど、その青年は何度もアリサを訪ね、その度に言葉を重ね、お互いに気持ちを重ねたみたいね……」
「それで、相手は誰なの?」
するとバイオレットは一旦俯き、セレーナの白く細い手に、自分の手を重ねた。
「驚かないでね……その相手は王国第三王子、ルシアン・ヴァルトハイム」
セレーナは静かに目を伏せた。
「正式な王位継承権を持つ身分と、平民のアリサが成婚できるわけないじゃない…‥いったい何を考えてるの」
首を横に振りながらセレーナの表情が曇る。
「そう、だから王子は王位継承権を捨て、ただの男になってでも、アリサへの愛を貫こうとしている……そう聞いてるわ」
バイオレットの言葉に、セレーナは少し苛立ちの表情を見せる。
「まるで、子どもの恋ね」
「そうかもしれない。王子の地位を捨てるなんて告白、現実的じゃない。……けれどアリサは、当然、戸惑っている。愛と誇りの間で、揺れているの」
「念の為に聞くけど……王子は本気なの?」
「ええ、本気よ。でももし行動に移せば貴族はおろか、王都全体を巻き込む大騒動になる。彼女は悩んでいた。“好きなのに、怖い”って」
「……だからあの子は、私の元を去ったのね」
セレーナは封筒に手を伸ばしたが、まだ開けなかった。
代わりに、目を閉じて深く息を吐いた。
「どうして、私に相談してくれなかったのかしら。……あの子の、嘘の無いずっと真っ直ぐなところが好きなのに」
「アリサは、誰よりもあなたの事を敬愛し、あなたに仕える事を誇りに思ってた。つまりあなたの背中を見て、それに倣った……のかもね」
セレーナは、静かに立ち上がった。
部屋の奥、ひとつだけ鍵のかかった扉の前に立つ。
そこは、かつての“相談室”。
数多の結婚が始まり、終わり、愛と本音が交錯した場所。
セレーナは、扉に触れながら呟いた。
「私は、またあの場所に立っていいのかしら」
答えはまだ出ない。
けれど、胸の奥に残っていた微かな火が、またゆっくりと燃え始めていた。