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第8走 自分を取り戻すために

登場人物


◯ 岡林 正裕


日本長距離界において、

実業団や大学駅伝に至るまで

数知れぬほどの実績を

残した名指導者。


現在は、女子実業団の

にこにこ堂の監督を最後に、

陸上界からは身を引き、

故郷の熊本県で妻・鞠江まりえ

共に余生を過ごすと決めていたが…


◯ 岡林 鞠江まりえ


かつて、夫である裕正が

全日本長距離チームのコーチを

していた際に、栄養士として

帯同していたことがきっかけで

交際に発展し、結婚に至る。


その後、岡林が

亜寿亜大学の陸上部監督に就任し、

選手と寮生活をすると決めた際、


決して、嫌な顔を見せることなく、

自身も寮母として全面的にサポートした。


陸上界から身を引き、

穏やかに過ごす夫にホッとしながらも、


本人が指導者であった頃に比べ、

どこか物足りなさを感じながら

生きているのでは…?

と案じている。

「お父さん。

こうして、ゆっくりと二人で

夕飯を食べることが、

当たり前になる日がくるなんて、

当時むかしは考えもしなかったわ。」


熊本県熊本市の閑静な住宅街にある

岡林正裕の自宅にて。


夫のことをお父さんと

呼ぶようになったのは、

二人の間に子どもが

産まれたときからだろうか。


その子どもたちは

今では成人になり独立しているため、

この家に帰ってくることは滅多にない。


故に、幼少期の彼らのために

2階に作った子供部屋には


電気が灯ることもほとんどなく、

部屋は閉め切ったままなのだが、


どこかからか、

すきま風が吹いているかのような

もの寂しさが漂っていた。


健康のためにと、

薄味に作られた筑前煮を

ゆっくりと味わいながら

夫の正裕は静かにこれに応える。


「…。そうだな。

鞠江には苦労をかけっぱなしだったなあ。」


毎日、趣味のパッチワークや

料理教室にも参加して、

明るく楽しそうな妻とは対照的に、


長距離の指導者を

引退してからというもの、

岡林正裕はこの淡々とした日々に

心の中ではどこかスッキリしない

モヤモヤした何かを感じてはいた。


だが…


(これでいいんだ。

おれはもう指導者はやらない。


もう老人の出る幕ではないんだ…。


今は鞠江まりえ

楽しく生きている。


そんなことが

当たり前だって言う日々が

本当は大切なことなんだ。


それだけで充分じゃないか。)


そう心の中で

自分にいい聞かせ、

そんなものは気の迷い…

単なる気のせいだと思い込んだ。


「おれは本当に果報者…

幸せ者なんだよなあ。」


小さく呟きながら、

そして、

少しだけ顔を上げる。


しかしそこには、

青空もなければ星空もない。


ただただ心に虚無感むなしさ

広がるだけだった。


(でも、ほんとうに、

お父さんはこれでいいのかしら…)


そして、鞠江もまた、

夕食の片付けを始めながら、

そんな夫にどこか寂しさを

察せずにはいられない。


(どうすれば…。

お父さんは毎日が

陸上ばかりの人生だったわけだし。)


そのとき

ふと、あの話が頭をよぎった。


「ねえ!お父さん!」


「おうっ!?」


うわの空だった夫・裕正が

ハッと我に帰る。


「あの子のこと、どうなったの!?


ほら、東京の大学生で!斧田くんって子。


一度、会いに行ってみたら!?」


「ん!?え!?」

声は一応、驚いてはいるが、


おそらく、監督稼業を続けた

男の本能だろう。


その瞳はそのひと押しを待ってました!と

言わんばかりに光を取り戻し始めた。


「だって斧田くんの話をしてる時のあなた、

今みたいにすごく目が輝いていたわよ!


なんなら、来週の週末くらいに

一緒に東京に行きましょうよ!


きっと、お父さんが

本当の自分を取り戻す旅に

なるかもしれないじゃない?


亜寿亜大学の監督として、

箱根駅伝にも出場して、


東京駒澤大学に逆転して

総合優勝を果たした名将・岡林正裕が

ここで終わっていいわけないじゃない!」


「鞠江…。いいのか!?

本当に、いいのか!

ありがとう。ありがとう。」


こうして、岡林は、

ついに斧田謙信と会う決意を固めた。


だが、この時はまだ、

本当に自分が城西拓翼大学の監督として

箱根駅伝よりも長い道のりを

歩むことになるとは

思いもよらなかったに違いない。


しかし、監督招聘の話は

すでに岡林家の知らぬところで、

着々と進んでいた。


翌日…午前10時23分


岡林が勤める(株)にこにこ堂に

まるで運命の扉を叩くように、

一本の電話が鳴り響く。


発信者は城西拓翼大学・理事長、

平山拓次郎、本人であった。

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