番外編:銀猫
ニコの実母が何を思って死んだかが語られる話で
内容的に暗い話になるのでそういうんが苦手な方はご注意を。
花咲 笑美という女の人生は決して恵まれたものではなかった。
吐き気を催すような大人の悪意によって花開いてしまった魔性。
それでも誰かが手を差し伸べていれば仇花を枯らし、或いは真っ当な道を歩くことだって出来たかもしれない。
だがそうはならなかった。笑美の周囲には子供を食い物にする大人と子供に無関心な大人しか居なかったから。
――――だから仇花として生きるしかなかった。
数えるのも馬鹿らしくなるほどの男を喰らった。
その途上でどれだけの人間が不幸になろうと一顧だにせず魔性を振り撒き続けた。
最初はただの被害者だったはずなのに。気付けばどうしようもないほど加害者になっていた。
そんな人間が真っ当な生き方など出来るはずがない。だってそんな生き方、知らないのだから。
生まれて初めての恋。この人と共にささやかな幸せが溢れる有り触れた家庭を。
心の底で渇望していた日常。だがそれを望むにはあまりにも遅過ぎた。
身の丈に合わない幸福の代償は破滅だった。
櫛の歯が欠けるように笑美は壊れ始めた。
最初は親になろうと努力した。
産みの苦しみを知ったがゆえに、笑美は我が子に確かな愛情を抱いていたから。
でも、知らなかった。親を。大人を。ただ歳を重ねただけの子供に母などなれようはずがないのだ。
愛しい我が子。しかしそれは自分を裏切った憎い男の子でもあった。
傷付け、後悔し、こうはならぬとめいっぱいの愛を注ぎ、また傷付け。
憎悪と自己嫌悪で笑美は急速に擦り切れていった。
元の生き方に戻る? 不可能だ。
妊娠と出産を経て花咲笑美は“劣化”した。
劣化したと言ってもそこらの女優なんぞよりもよっぽど美しくはあった。
が、その歪み狂い果てた激し過ぎる気性を凌駕するほどの美しさではない。
だが再度の狂い咲きを阻んだ最たる理由は、我が子――花咲笑顔の存在だった。
どれだけ疎ましくとも笑美は笑顔を捨てられなかったのだ。
そして子もまた母から離れなかった。
物心つき始める齢になっても、決して母の傍を離れようとはしなかった。
どれだけ手酷い暴力を振るわれようとも決して……決して。
最初、笑美は思った。典型的な虐待児童の精神構造ゆえだろうと。
しかし、直ぐにそれは違うと悟った。
何故かって?
『……そんな目で私を見るなァ!!』
自分と同じ蒼い瞳。だけど決定的に違う。
一点の曇りもない。晴れ渡った夏の空にも似たその瞳にはただただ愛があった。
それが余計に笑美を追い詰めたのだ。
我が子の愛から逃げるように振るわれる暴力は更に苛烈なものとなった。それでも離れない。
そんな笑顔を見て、笑美はこれまでの我が子の振る舞いも理解“してしまった”。
恋した男に捨てられたその日から花咲笑美は悪夢の只中に在った。
愛情、自己嫌悪、憎悪、悲哀、憤怒、ぐるぐると絶え間なく廻り続ける感情の波。
手綱など握れようはずもなくそれに翻弄されるしかなかったが、ふとした瞬間、凪ぐことがあった。
その時、笑美を襲ったのは耐え難い孤独。
凍える心は肉体を縛り、指先一つも動かせない。
そんな時、必ず笑顔はやって来た。傷付いた身体を引き摺り母の下に寄り添い、その背を抱き続けた。
――――その愛が笑美を永らえさせた理由であり、笑美を終わらせた切っ掛けだった。
笑顔が五歳になった頃、笑美は記憶が飛ぶことが多くなっていた。
しかし、その理由について考えることはなかった。
オーバードーズの副作用? 安定しない精神状態がそうさせた? どうでも良い。
自分がどうなっているかなど興味もなかった。だがある日、唐突にその理由を知ってしまう。
その日も過剰な暴力によって笑顔を痛め付けた後、笑美は虚無感に苛まれていた。
『……』
ふと、ピアノが目に入った。家を買った時、一緒に購入したものだ。
夫になると思っていた男にも言ったことがない昔日の残骸。
ピアニストはなれなかったが、それでも生まれて来る子供に弾いてやりたくて買った。
笑美はふらふらとピアノに近付き、鍵盤に指を這わせた。
手入れなんて一度もしていないくせに、奏でられる音色は憎らしいほどに澄んでいた。
我に返り何をやっているんだかと自嘲した正にその時だ。
『!?』
ぱちぱちと途切れ途切れに拍手の音が鳴った。
ギョッとして振り向けば離れた場所で転がっている笑顔が震える手で拍手をしていた。
数時間は目覚めないだろう暴行。指一本動かすことさえ不可能はずなのに。
『まだ……まに、あう……よ……』
意識が混濁しているのだろう。目の焦点は合っておらず、夢うつつのような有様だ。
『ぴあにすと……にはなれないかもだけど……ぴあの……の、せんせい……』
それは、誰にも言ったことのない遠い日の夢。
『こどもたちに、おしえてあげて……』
笑美は真っ当な育ち方をしていない。しかし、聡明な女だった。
ゆえに理解した。どうして自分の記憶が飛んでいたのか。
幼児退行。子供に還っていたのだ。その瞬間、あんまりにもおかしくて笑美は笑ってしまった。
だってそうだろう? 私は“おかあさん”なのに子供になってしまうなんて。
『おかあさんはみんなからせんせい、せんせいって』
笑顔は母が笑っていることにも気付かず言葉を紡ぎ続けていたが、それを最後に気を失ってしまった。
『そうね。それは……』
笑美は立ち上がり、笑顔の下まで行きその小さな身体を抱き締めた。
『とても、とても素敵な幻想だと思うわ』
花咲笑美、最後の時間が始まった。
演じることは苦痛ではなかった。嘘は女を飾る化粧。であれば自分は誰よりも上手くそれを扱える。
笑美に真っ当な生き方は出来ない。逆に言えば真っ当でない生き方ならば誰よりも上手にやれるのだ。
私はシンデレラ。悪い魔法使いに騙された硝子の靴を持たない惨めな惨めなシンデレラ。
何もかもを憎んで、何もかもを儚んで、何もかもを羨んで、何もかもを諦めた、お馬鹿なシンデレラとして死んでやろう。
無意味で無価値な死を飾ろう。何もかもを抱えて独り、暗い場所に堕ちていこう。一握の幻想さえ抱かせはしない。
全ての準備が整ったのは翌年の夏だった。
躊躇いはない。笑美は迷いなく舞台に上がった。
必死に自分を止めようとするも、動けない笑顔を見下ろす視線は絶対零度。
分厚い化粧の下には燃え滾るような愛を秘めているなど誰が察せようか。
(あなたを自由にしてあげる)
捨ててしまいなさい。こんなくだらない女なんて。
振り切って、歩き出すのよ。あなたの名前に込めた祈りが溢れる未来へと。
後悔はない。世に咲く仇花として生きて来たのだから仇花として散る。それが筋というものでしょう?
“散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ”――であれば、今がその時だ。
(有象無象は私を嗤うでしょうね。それでも断言出来る)
そして、
(――――私は幸せだった)
仇花は散った。
花咲 笑美という女の人生は決して恵まれたものではなかった。
だがその人生に救いはあったのだ。他人から見ればくだらないものでも何にも変え難い小さな笑顔が。
今回の話はネオメロドラマティックでルイ編の終わり、逆十字軍の話が始まる前に幕間として挟むか
ネオメロドラマティックのエピローグ的な位置で投稿しようと思いましたがカットした話です。
没ではありません。カットはしましたが設定としては変わらず残ってます。カットした理由は二つ。
話の流れ的に重かったり苦しい話をやることもあるけどネオメロドラマティックの話の内容的にこれまで入れたら胃もたれしそうだなってのが一つ。
母親が過去何を思っていようと既に死んだ人間。
極論、今を生きているニコがどう思っているかどう捉えているかを書けば十分だろうと考えたのが一つ。
以上の理由でカットしましたが完結したし、吐き出せるものは吐き出しておこうと思い番外編という形で投稿しました。




