第一章
木崎詩音は物心ついた頃から自分の性別に違和感があった。
ピンクよりも青が好きだった。
いつも遊んでいたオモチャはお人形さんではなくミニカーだった。
何故かテレビの体操のお姉さんに執着していた。
小学校へ上がると、詩音は男の子達のグループに混ざっていた。
休み時間にドッジボールをした、放課後に自転車数台で遠くまで行った。
中学で初恋を知った。相手は女の子だった。
その子のことを考えると胸が苦しかった。
だけど詩音は、自分から想いを伝える事は無かった。
詩音は「誰かが私を好きになってくれればいいのに」と考えていた。
詩音のことを好きになるのは、決まって男の子だった。詩音は内心それが気に入らなかった。
だけど自分の事を好いてくれる男の子の想いに応えることで満たされるものがあった。
高2の夏、付き合っていた新納隆之の家に初めて泊まりに行った。
詩音は隆之の内面が好きだった。
身体を求められて、それに応えた。好きだったから応えた。
だが行為を終えると、隆之に対して(なんか汚らわしい…)と思ってしまった。
隆之と別れ、学校へも行かなくなった詩音は、親に勧められて精神科へ通い始めた。
詩音の親は面倒事が嫌いだったので相談には乗らなかった。
精神科医に「本当は同性が好きだ」なんて話せるはずもなく、診察を終えた詩音には、感情の起伏を穏やかにする薬が処方された。
精神科へ行く以外には殆ど外出せず、日々の大半の時間を自室に籠って過ごした。
学校へ行かなくなってどのくらい経っただろうか、心配した同級生の眼目絵梨花からメールが来た。
" 木崎さん、どうしてるかな?
心配になってメールしてみたよ
お返事くれたら嬉しいな "
詩音は返信をした。
" メールありがとう。
それなりに元気にやってます。 "
すると、すぐに絵梨花から返事が届いた。
" お返事ありがとう!
元気そうならよかった
もしよかったらでいいんだけど
今度ちょっと会ってみない? "
次の日曜日、2人は会うことになった。
昼頃に駅前で待ち合わせた。
詩音にとって、精神科へ行く以外で久しぶりの外出。
「木崎さーん!おまたせ〜」
「あっあの…今来たばかりだから…」
「よかった〜」
絵梨花はとても優しかった。初めは緊張したがすぐに慣れた。
2人でカラオケへ行ったりプリクラを撮ったり色々した。
「ねぇ、詩音ちゃんって呼んでもいい?」
「いいよ」
また会う約束と、再び学校へ行く約束をして、その日は別れた。
それからも休日の度に詩音は絵梨花と会った。
そして少しずつではあるが学校へ通い始めた。
「詩音、あのさ…」
「詩音ちゃーん!お昼屋上で食べよ〜」
学校で隆之が詩音に話しかけようとすると、さりげなく絵梨花が遮った。
詩音は絵梨花に対して、(優しくて頼れるなぁ)と思った。
絵梨花は学校帰り、詩音を必ず家まで送り届けた。
「詩音ちゃんまた明日ねー!」
「うん!またね!」
笑顔で手を振りながら去ってゆく絵梨花を見て詩音は(可愛いなぁ…)と思った。
優しくて頼れる、可愛いクラスメイト。
いつしか詩音は絵梨花に恋をした。
詩音は毎日投稿していたツイッターに想いを書き綴った。
どこかへ吐き出さずにはいられなかった。
名前こそ出さないが、一緒に出掛けた時のことや学校で共に過ごしたこと、同性に恋をしてしまった切ない気持ちなど、全て赤裸々に投稿した。
隆之を拒絶し、自暴自棄になって作ったアカウントだったので、本名の苗字で登録していた。
ある日の学校からの帰り道、詩音は絵梨花に連れられ、あまり人が来ない公園へ来た。
「あのね、ちょっと大事な話があるんだけどさ、これ見てくれる?」
絵梨花は詩音に携帯電話の画面を見せた。
詩音が画面を見ると、そこには見覚えのあるツイッターアカウントが映っていた。
「…!!」
詩音のアカウント、"木崎"である。
何気なく詩音の苗字で検索をしたときに"木崎"を見つけた絵梨花は、写真に写る街の景色などから、すぐにそれが詩音のアカウントだと気付いたのだった。
「これ、詩音ちゃんの垢だよね?もしかしてだけど、ここに書いてあるのって私の事だったりする?もしそうだとしたら、こんなに想ってくれて嬉しいけど、私同性は無理なんだ…ごめんなさい」
絵梨花からの言葉は配慮に満ちたものだったが、詩音はとても恥ずかしく、惨めで、申し訳ない気持ちになった。
詩音は溢れてくる涙を堪えきれなかった。
「……っ…ぅぅ…」
「あっ!!ちょっと詩音ちゃん!!」
慌てて呼び止める絵梨花を振り切って、そのまま走って家まで帰った。
絵梨花の優しさは、友情だった。
解ってはいたけれど、どうしても好きにならずにはいられなかった。
絵梨花の純粋な気持ちを踏みにじってしまったようで、それが詩音の悲しみを後押しした。
(だけどこれで学校へ行かなくなったら同じことの繰り返しだ)と詩音は思った。
だから学校へは行くことにした。
翌日。
気まずさで一杯だったが、詩音は自分から絵梨花に挨拶をした。
絵梨花も詩音に挨拶を返したが、それは心なしか、よそよそしい雰囲気だった。
だが絵梨花は詩音と距離を置きたいわけではなかった。
純粋に友達として関わっていた詩音が自分の事を好きなのだと知って困惑はしたが、だからといって詩音の事を嫌いになったりはしなかった。
絵梨花はただ、詩音とどう接すれば良いのか分からなくなったのだ。
そのまま3年になり、詩音と絵梨花は、話はするものの以前ほどの親密さが無くなっていた。
詩音は絵梨花がよそよそしいと感じ、絵梨花は詩音とどう接すれば良いのか分からない。
そんなお互いの思いが2人を遠ざけた。
そして卒業。
詩音は半年間のニート生活の後、自宅近くのガソリンスタンドでアルバイトを始めた。
といっても深夜のセルフ給油の監視業務(モニターで客を監視し、給油許可のボタンを押すだけ)である。
なんか楽そうだな、というのが詩音がこのバイトを選んだ理由だった。
簡単な掃除なども任されたが、精神的に不安定で無気力な詩音にはピッタリの仕事だった。
詩音は危険物の資格を持っていないので、資格を持っているスタッフと二人一組での勤務だ。
最初に仕事を教えてくれた津富淳吾と組むことが最も多かった。
淳吾は大学生で、学業との両立の為にこのアルバイトを選んだらしい。
車が好きな淳吾は、客が来ない時は詩音に車の話ばかりした。
仕事で役に立ちそうな気もしたので、詩音は真面目に耳を傾けた。
淳吾は、詩音に車の免許を取ることを勧めた。
詩音に目標が出来た。
店長に相談し、週3日だったシフトを週5〜6日に増やしてもらった詩音はバイトに勤しんだ。
このバイトには毎回3時間の仮眠休憩があった。
休憩を終えた詩音は、仮眠室がある2階から外階段を下っていた。
給油客が来ているようだ。
バイクに給油している姿に妙に見覚えがあった。元彼の隆之だった。
詩音は慌てて監視室に逃げ込んだ。
勢い良く入ってきた詩音を見た淳吾が笑いながら言う。
「何、寝坊したかと思った?」
「いや、あの…元彼…」
「えっ」
詩音が指さした方向を見ると、若い男がバイクに給油している。
「へぇそうなんだ、挨拶してくればいいじゃん」
「嫌ですよ!」
「なんでよ」
「色々あって別れたんだから気まずいに決まってるじゃないですか!」
「そっか、俺童貞だからわかんねえや」
「…嘘ですよねそれ」
「バレたか〜」
淳吾は顔はイケメンの部類だったが、少しデリカシーに欠ける部分がある男だった。
童貞だから、というのは勿論嘘だったのだが、元彼に挨拶してくることが気まずい、というのが淳吾にはいまいち分からないままだった。
給油を終え退店してゆく隆之を見送ると、詩音はホッとした様子で監視モニターの前の椅子に座った。
「ところでさぁ、詩音ちゃん」
「なんですか?」
「今度の土晩、休みだよね?俺も休みなんだけどさぁ、一緒に大黒行かない?」
大黒とは大黒パーキングの事である。
金曜日や土曜日の夜になると、車好き達が誰に誘われるともなく集まる場所だ。
「だいこく?何ですか?それ?」
「まぁ行けば分かるよ。詩音ちゃん車に興味あるみたいだからさ、いい刺激になるかなぁと思って」
「まぁ暇なんで…いいですけど…」
「じゃ決まりね」
そんなこんなで、詩音は土晩の大黒パーキングへ行くことになった。
土曜日の夜。
バイト先で待ち合わせた2人は大黒パーキングへ向かった。
淳吾の愛車、白いシルビアの低く大きな排気音が響く。
「このクルマ速いんですか?」
「まぁそれなりに速いかな〜、でもあんまり踏むと燃費悪いから」
「踏む?」
「アクセル踏み込むと、ってこと」
大黒パーキングには沢山の車が集まっていた。
本当に休憩をする為に訪れている人は少なく、殆どが車好き達だ。
派手な改造車や高そうな外車、いかにもマニアが乗っていそうな古い車など、様々なジャンルの車が駐車スペースに並んでおり、空ぶかしの音や大音量の音楽が入り乱れて耳に入ってくる。
「みんな今日はどの辺にいるかな〜」
淳吾はシルビアを低速で走らせる。
「誰か知り合いが来てるんですか?」
「そうそう、よく会うクルマ好き仲間っていえば分かりやすいかな…あっ居た」
一見すると共通点の無さそうな集団が見えてきた。
何人かが、淳吾達に向かって笑顔で手を振っている。
淳吾は妙にテキパキした片手運転で、左腕を助手席の背面に回しながら、シルビアを駐車スペースにバックで停めた。
(うわ…かっこつけてるわ、この人)と詩音は思った。
「おつかれ〜」
淳吾がシルビアから降りて陽気に皆に挨拶をし、皆も同じような調子で挨拶をしている。
詩音も降りることにした。
(なんか…オタクっぽい男が多いな)
と詩音は思った。
「あれ〜今日は彼女連れですかぁ〜」
集団の一人が、からかうように淳吾に話しかけている。
「いやいや、このコはバイト先の後輩で」
「木崎詩音です」
その後何人かが自己紹介をしてくれたのだが、詩音は誰が誰だか殆ど覚えられなかった。
こんなに大勢の人に会うのは高校に行っていた頃以来だった。
それに、男ばかりの集団の中でパッと咲いた花のように佇む二人の女性達のことが気になっていた。
それを知ってか知らずか、淳吾は詩音を連れて二人の元へ行く。
「よ〜う、おつかれ〜」
「おつかれさま〜、可愛いお客さん連れで」
「か…かわ…!?」
詩音は可愛いと言われてドキッとした。
若い女性との会話は随分と久しぶりのような気がした(詩音自身も若い女性なのだが…)。
「真優です、ヨロシクね〜」
握手を求められた。
「あっ、よ、よろしく…おねがいします」
「この人は税所真優さんといって、この集まりの姫です」
「コラ!姫言うな!」
「いてっ」
真優が淳吾の頭を軽く叩いた。
「…そしてもう一人が、光くん」
「こんばんは、中豊留です」
声が低いので詩音は目を丸くした。
「光くんはね、こんなカッコしてるけど男の子です」
中豊留光は女装をしている男性━━━女装子であった。
(初めて本物を見た…)詩音は少し感動した。
「あの、お二人も、クルマ好きで?」
「まぁね、そこの元彼の影響でね〜」
どうやら淳吾と真優は過去に恋人関係だったらしい。
「自分は祖父の影響で」
続いて光が答えた。
「真優はあそこに停まってる赤いMR-S、光くんはそっちの水色のゴルフ2に乗ってる」
「へぇ〜そうなんですか〜」
そんなに車種名を知らない詩音にとっては、どちらも初めて聞く名前だった。
(明日になっても覚えていられるだろうか…)と少し不安になった。
そこから1時間程、詩音は黙って淳吾達の会話を聞いていた。
「つーかこのあとどうする?もうかなり前から大黒いるんでしょ?」
淳吾が真優に聞いた。
「ん〜…夕方から居るかな〜、ご飯も大黒で食べたし」
「今日は詩音ちゃんも来てくれたことだしさ、みんなでどっか行こうぜ」
「じゃあヤビツでも行きますか」
光の提案で、4人は集まりから離脱してヤビツ峠までドライブすることになった。
淳吾、真優、光が、それぞれの愛車に乗り込む。
詩音はシルビアの助手席だ。
3台が隊列を組んで高速道路を走ってゆく。
ヤビツ峠までは大体1時間だ。
「詩音ちゃんさぁ、今は彼氏とかいるの?」
「いないですけど」
「つくらないの?」
「んー…今は必要ないですね」
「そっか」
(この会話、なんか嫌だなぁ…)
詩音はバイト先で店長に聞かれた時も同じことを思ったのだが、彼氏の有無について質問されるのが不快だった。
(彼氏がいないと駄目なの?)
直接そんなことを言える勇気は詩音にはない。
詩音が考え事をしているうちに、車列は山道に差し掛かった。
(これがヤビツ峠なのかな…)
詩音は殆ど遠出したことが無かったので、今いる場所が何処なのか全く見当もつかなかった。
「これがヤビツ峠ですか?」
「いや、まだその手前だよ」
皆運転しているだけで退屈しないのだろうかと、詩音は若干疑問だった。
だがヤビツ峠に入ってから、淳吾がワザと大袈裟な加速をしたりしたので、詩音はジェットコースター的な楽しさを感じた。
なによりも淳吾がとても楽しそうに運転していたので、きっと後ろの2人も同じように楽しんでいるのだろうと詩音は思った。
そうこうしているうちに展望台へ到着した。
目の前には夜景が広がっていた。
「あ〜やっぱり峠は楽しい〜」
「ですね〜」
真優と光が話している。
「どう?詩音ちゃん、いいもんでしょ」
「あっ、はい!自分で運転してきたら達成感すごいんでしょうね〜」
淳吾の言葉に詩音は溌剌とした様子で答えた。
峠の手前辺りでは少し退屈しかけていた詩音だったが、気付けばすっかり楽しい気分になっていた。
「つーか光くんさ」
「はい」
「敬語つかわなくてよくない?」
「すみませんクセで…今からやめます」
「あーいや…まぁいいよ無理しなくて」
「いーや、やめま…やめるよ」
帰りの車中にて。
「光さんとは知り合って日が浅いんですか?」
「いや?別にそういうわけじゃないよ」
「えっそうなんですか?さっき敬語使わなくていいとか話してたんで…」
「いや、あのコ知り合ってからずっと敬語でさ、いつか言おう言おうと思ってたんだよ」
「あ〜そうなんですね〜」
確かによくよく考えてみれば光は真優に対しても敬語だった。
聞いたところによると最初に集まりに光を連れてきたのは真優らしい。
最初は全然喋らなかったので打ち解けるのに時間が掛かったそうだ。
「詩音ちゃんも敬語使わなくていいんだよ?」
「いや〜無理ですね…みんな年上だし…特に津富さんはバイトの先輩でもありますし」
話をしていたら、帰り道はあっという間だった。
バイト先で2人は解散し、帰宅した。
それからというもの、詩音と淳吾は、互いの休みが合った週末には一緒に大黒での集まりに参加した。
真優と光は土日が必ず休みだった為、週末は殆ど大黒に居た。
大勢で集まって馬鹿話をしたり、4人だけで色々な場所へ出かけたり、そんな日々が続いた。
(早く免許とりたいな…)
詩音の思いは日に日に膨らんでいった。
数ヶ月後。
「津富さん津富さん」
「どした?」
「ジャーン!!免許とりましたよっ!!」
「おおー!!めでてぇーーー!!」
詩音は遂に運転免許を取得したのだ。
「これで皆と一緒に走れますよ!」
「そうだな〜…って免許あっても車ないじゃん」
「あっ」
詩音は免許を取れば全てが解決するような気がしていたので、車を手に入れなければならないという事をすっかり忘れていたのだった。
季節は夏になっていた。
ある土晩、いつものように集まりに参加した淳吾と詩音はシルビアで帰路についていた。
週末の恒例だが、大黒が閉鎖されてしまった為に早めの解散となり、真優と光も帰ってしまった。
なんとなくまだ帰りたくないような気分だった淳吾は詩音に海を見に行こうと提案する。
詩音も同じ気分だったので了承した。
とはいえそんなに遠くへ行けるほど早い時間でもなかった為、二人はお台場の青海南ふ頭公園━━━通称エバグリへ行くことにした。
ここは海に面した公園だ。
「なんでエバグリっていうんですか?」
「ほら、あれだよ、あそこのクレーンにエバーグリーンって書いてあるっしょ?だからエバグリ」
見ると埠頭のガントリークレーンの上部にEVERGREENと書いてあった。
2人はしばらく無言で海沿いを歩く。
「あのさ…」
淳吾が口を開いた。
「前に、今は彼氏必要ないって言ってたじゃん?その気持ちは変わってないの?」
「はい、そうですね」
「なんで??彼氏つくったほうが楽しくない?」
「んー…」
「いや…さ、その…俺じゃ駄目かな〜…なんて」
「はい?」
「俺じゃ駄目ですか!?詩音ちゃんの彼氏!」
「えっ…!!」
驚きつつも、(やっぱりそうきたか…)と詩音は思った。
初めて大黒に誘われたときから、どうもそういうつもりなんじゃないかと内心疑っていた。
しかし良い退屈しのぎだった為ホイホイついていってしまったのだ。
まぁその結果、車に興味を持ち、運転免許を取得するに至ったわけなのだが。
「いや、あの…気持ちは嬉しいんですけど…本当に彼氏いらないっていうか…津富さんとは友達のままがいいというか…」
「俺は嫌だ。もう耐えられない。初めて会った時からずっと詩音ちゃんが好きだった」
「ごめんなさい!津富さんに魅力が無いとかじゃないんですけど無理です!」
「え〜なんで〜!頼むよ〜!いいじゃ〜ん!」
「んんん〜無理なんですよ〜」
「なんで?なんで彼氏いらないの?」
「それは…色々あって…」
「色々って何?教えてくれなきゃ諦めない!」
「そんなぁ…」
「お願いお願い!!お願〜い!!」
もうこの状況を脱するには、言ってしまうしかないのだろうか。
(言うしかないのかなぁ…)
詩音は悩んだ。
「お〜ねがい♪シ〜ンデレラ♪」
ついに淳吾が踊り出した。
この男は頭がおかしいのだろうか。
「ああ〜〜〜〜〜しつけえ男だなァ!!!!!!」
詩音は思わず淳吾の腹を殴った。
「う゛っ………いてぇよ…」
「わ、私は……お…お…女の子が好きなんですよ!!」
「へ…?」
淳吾が殴られた部分を手でおさえながら、苦痛と疑問の混ざった表情を浮かべる。
「言いたくなかったのに…普通のフリしたかったのに…」
詩音は泣き出してしまった。
「あああ〜ごめんごめん!!ごめんなさい!!ホントごめんホントに!!あ〜俺って本当にデリカシーねぇな〜!!」
詩音にそんな事情があるとは知らずに食い下がった自分が情けない、と淳吾は思った。
「津富さんのバカ!!なんで私なんかに惚れるんですか!!」
「ごめんごめん!!殴らないで!!…あの、本当〜にごめん。マジで無神経だった。配慮が足りなかった。」
淳吾は手を合わせて詩音に謝った。
「でも、そういうことなら早く言ってくれればよかったのに。それ、恥ずかしがることじゃないよ」
「そんな簡単に言わないでくださいよぉ…」
詩音が涙を拭いながら言う。
「あの、マジでさ、隠さなくていい。それは隠すようなことじゃない。ゴチャゴチャ言ってくる奴が居たら俺が文句言ってやる」
「いや…そこまでしてもらうわけには…」
「ていうか、普通って何?異性を愛するのが普通って誰が決めたの?」
「あぁ…まぁ…」
「それで、好きな女の子とか…いるの?」
「別に…」
詩音は気まずくなって携帯電話を取り出して時間を確認した。
詩音の携帯はINFOBARというやつで、折りたたみではないタイプだ。
「あっ、その子?」
迂闊だった。
咄嗟に淳吾に背を向けて携帯の画面を見たのだが、後ろから覗かれていた。
待受画面は昔盗撮した絵梨花の写真だ。
学校で制服姿の絵梨花が渡り廊下を歩いているところを撮ったものである。
「なっ…!さっきデリカシーが〜とか反省してたクセに…人の携帯画面覗くなんてデリカシー無さすぎじゃないですか!」
「いやぁ…ごめん…つい見ちゃった。それ、盗撮した感じのやつだよね?」
「うっ…」
「可愛い子じゃん。片想いなの?」
「…まぁ、そうですね。」
詩音は結局ずっと絵梨花を忘れられないままでいたのだ。
「でももういいんです。片想いのままでいいんです。」
「そっか…」
流石の淳吾も、しつこく色々聞くのは無粋だなと思い、それ以上は何も言わなかった。
翌日。詩音はバイトが休みだった。
免許を取ったことは嬉しいが、車が無い。
レンタカーという案が浮上したが、(初心者には貸してくれないんじゃないかなぁ…)と詩音は不安になった。
店まで行って断られるのは怖いので、結局自宅でウダウダすることにしたのだった。
寝たり起きたりを繰り返しているうちに夕方になった。
詩音の携帯電話が鳴る。
「もしもし?…あっどうも…」
電話の相手は真優だった。
以前皆で出かけた時に番号を交換していたのだ。
「詩音ちゃん、暇?もしよかったら、これから迎えに行くからご飯でも食べに行かない?」
詩音は自宅の住所を教えた。
1時間後、真優が迎えに来た。
「詩音ちゃんおまたせ〜」
「あの、わざわざありがとうございます!」
「いいのいいの、こちらこそありがとう。ぼっちだから寂しくて」
なんて素敵な笑顔なんだろう、と詩音は思った。
MR-Sの助手席に乗り込む。座面の低さが新鮮だった。
「今日は光さんは…?」
「まだ仕事だって」
「そういえば真優さんと光さんって一体どういう関係なんですか?」
「最初はね、光くんがツイッターに女装の自撮りを上げてて、綺麗だな〜と思ってフォローしたんだけど、それからお互い車好きって分かって意気投合してね、リアルでも会うようになったの」
「そうなんですか〜、なんかお二人とてもお似合いですよね」
「ちょっとやめて〜、そういうのじゃないよ」
「あの、やっぱり光さんみたいな人って、恋愛対象は男性なんですかね…?」
「ううん、違うって。あくまで綺麗になりたいだけであって恋愛対象は普通に女性ですって前に言ってた」
「なるほど〜」
二人は外苑前のシェイクシャックを訪れた。
ここは真優のお気に入りの店だそうだ。
随分とオシャレな場所に連れてこられたなぁと詩音は思った。
「あっあの、私、おごりますよ!乗せてきてもらっちゃったし」
「いいのいいの、私のほうが年上だし、おごらせて」
「あっ、じゃあ…お言葉に甘えて…」
詩音は慣れない外食で少し緊張しつつも、美味しいハンバーガーを堪能した。
「詩音ちゃん可愛いんだから、もっとオシャレすればいいのに」
「可愛いだなんてそんな…私ただの陰キャ女ですよ」
「え〜そんなことないよ〜!ちゃんとお化粧してオシャレしたら絶対ものすごく可愛くなるって!」
「私、ほとんど化粧したことなくて…」
「じゃあ今度お化粧教えてあげる!あと服も見に行こ!」
「あっ、はい…ありがとうございます…」
真優の顔が近くて詩音はドキッとした。
また二人で会えるのだと思ったらとても嬉しくなった。
都内を少しドライブした後、詩音は自宅まで真優に送ってもらい、その日は解散した。
そして次の夜、詩音は2日ぶりのバイトに向かっていた。
ちなみにバイト先までは自転車で5分程だ。
(津富さんと会うの気まずいな…)
と思っていた詩音だったが、淳吾は意外と普通だった。
「お疲れ様です」
「お疲れ〜!早速ですが、今日は詩音ちゃんに良いお知らせが」
「…なんですか?」
「あのドイツの名車!BMWが、ななななんと今なら!30万円〜!!」
洗車機の所に黒いBMWが停めてあった。
「…なんか随分安くないですか?」
「大学の友達が乗ってたやつなんだけど、もう廃車するっていうから、つい勿体なくて引き取ってきちゃったんだよね。かなり距離いってるけど、少しメンテすれば全然走れるからさ」
「まだ教習所卒業してから全然運転してないのに、いきなり左ハンドルはハードル高いですよ…」
「いやいや!逆に最初から乗っちゃえばすぐ慣れるんだって!まぁまずはご覧くださいお客様」
淳吾がBMWを少し前に出した。
改造してあるのか、若干、音が大きい。
"318iS"というエンブレムが見える。
「とりあえずさ、運転席座ってみ」
言われるがまま詩音は運転席へ座った。
左ハンドル、しかもマニュアル車である。
とてもじゃないが自分には乗れそうもない気がしたが、淳吾のセールストークは止まらない。
コーナリング性能がどうとか、ボディの剛性感がどうとか、淳吾が色々と語るが詩音には殆ど意味が分からない。
だが座っていて妙に落ち着くし、そしてなにより格好良い。
詩音は次第にこの車が欲しくなってきた。
(購入資金は親に借りれば…車庫はおじいちゃんの家の敷地を使わせてもらおう…)
気がつけば真面目に購入を考え始めていた。
「あの…買います」
「マジ!?ありがとうございまーす!!」
一週間後、淳吾の運転で、ついに詩音の元にBMW 318iSがやってきた。
淳吾が隅々まで整備をし、さらにピカピカに磨き上げたので、とても廃車予定だった車には見えない。
詩音の親は渋い顔をしつつも詩音に購入資金を貸し、祖父は喜んで車庫の敷地を提供したのだった。
「詩音ちゃん、とにかく練習あるのみ!毎日乗れ!」
「は…はい!津富先生」
「とりあえず今日のところは俺が横に乗ってあげるから、早速行くぞ〜!」
詩音は緊張と恐怖を振り払いながらエンジンをかけた。
「じ…じゃあ…行きますよ…」
ギヤを1速に入れ、サイドブレーキを下ろし、エンジンを少し吹かし、クラッチを繋ぐ…
軽い衝撃と共にエンジンが停止した。エンストだ。
「おお〜エンスト!いいね〜初々しい!」
「バカにしてるんですか!」
「ごめんごめん!」
ギクシャクしながらも、詩音が運転する初心者マークの318iSは、ゆっくりと走り出した。