Ep.3:サムライとシスター
◇3◆
十一月上旬――時間はさかのぼり三十分前。
時刻は午前一時をまわろうとしていた。
「……来る気配もないな」
虎之介は軋むリクライニングチェアを倒してダッシュボードの上にかかとを乗せて足を組む。
ボロボロの黒いハイカットスニーカーに下は股下が短くスカートのようにも見えるサルエルパンツを履いている。
上は半袖シャツに白が煤けた灰色のパーカーはオーバーサイズで頭をすっぽりと隠せるほど大きくそれをだらしなく羽織っていてその袖には『BKiND』というロゴが入っている。
そんなパーカー以外はどこのブランドかも知らない。適当に選んだ最安のセール品である。
「でも情報ではこの時刻に襲われてるって聞いたもん」
「勘づいて違う場所に行ったとか。手配書の情報が更新されてないとかよくあるだろ」
虎之介は母親の形見である銀製の腕時計を見る。新婚のころ――父から誕生日に渡されたものだと聞いたことがある。自身の宝物のひとつでもあると。
「でもミスティの店の手配書だし、ここにちゃんと書いてあるんだよ。ほら! よく見て!」
そんなことをつらつらと思い出していると隣で相棒であるレイチェルが憤慨して前のめりに虎之介に顔を寄せてくる。
そのプラチナブロンドのボブ・カット――左サイドの二房は毛根から毛先にかけて赤と青のメッシュを入れている――その髪が揺れてふんわりとシャンプーの香りがした。
「いや、別に疑ってるわけじゃ――」
「ほらほら! ちゃんと見てってば!」
思わずのけぞる虎之介はレイチェルと目が合う。吸い込まれそうなほどの澄んだ青い瞳に高い鼻、ふっくらとした唇。
スリムな体型でくびれとへその見える白いミニタンクトップに濃紺のジャケットを羽織り、そこからちらりと見える右の鎖骨。
その少し下を沿うように横たわった青いローズの――棘のついた茎が肩の手前まで伸びて花弁を咲かせている――緻密なタトゥーが入っていた。
豊満なバストの上、谷間に埋まるように焼けたようないびつな形の十字架のネックレスが乗っかっている。
いけないものを見てしまった気がして、虎之介は視線を逸らす。
逸らしたはいいものの、今度は太ももがあらわになるほどに短いショートパンツ、そこに巻かれたマガジンベルトが目に入った。
ワインレッドのショートブーツにそして未だ踏み込まれたことのない新雪のような両太ももには銃が収まるホルスター。
上も下も目のやり場に困ってしまい、いたたまれなくなって視線をイーストブロックから離れたさらに東――工業地帯へと目を向ける。
そこから立ち昇る黒い煙が夜をさらに黒に染めている。
あそこは埋め立て地になっていて一本の橋で繋がった人口島だ。人身売買で売られた人間が命のある限り昼夜問わず働かされる人間が作り出したインフェルノ。
たった一本の見通しの良い橋は、夜でも照らされ警備も多い。来る者は拒まないが去る者は死を覚悟する必要すらある。
なのに『ユーロフィア』と呼ばれているのはさすがに皮肉が利きすぎていると虎之介は思う。
なにせその『幸運』の恩恵を受けているのはセントラルブロックの富裕層や権力者だというのに。
タイル敷きの裏通りに停めてあるくすんだレッド・ボディのオープンカーの助手席で現実逃避の手段としてそんなことを思う自分がなんだか馬鹿らしくなり息をついた。
「ほら! ため息ついたじゃん! ほんとは疑ってるんでしょー?」
「いや、分かった、分かったって。信じる。信じるから勘弁してくれよ!」
レイチェルは背中から抱きしめるように両手に持った手配書を顔に押し付けてくる。背中に双丘の柔らかい感触を感じてまた違った緊張感が虎之介を襲い思わず嘆いた。
彼女の虎之介に対するパーソナルスペースは限りなくゼロに近い。出会ってからそれに戸惑うことが何度あったか彼自身も数えるのを諦めていた。
しかしそんな虎之介の憂鬱などどこ吹く風というように、身体を離したレイチェルはさらに文句をつけてくる。
「あと足乗っけないでよ。汚れちゃうから」
また始まったと、虎之介は再度ため息をつく。
「ねえってば!」
肩を揺すられて視線をその左側──運転席にいるシスター・レイチェルへ戻すといかにも不満げにふくれっ面である。主張を無視されたことがお気に召さなかったらしい。
「……どうせボロボロなんだしいいだろ。傷まみれで色も落ちてる」
「ボロボロじゃなくてクラシカルと言ってほしいな。あるいはそう、ヴィンテージ!」
「ああ、ヴィンテージね……ヴィンテージ?」
「この子はね、もう何十年も前に生産が終了して今は世界で十二台しかないの。しかも稼働できるのは五台だけ。さらにこのレッドカラーはその中でもひとつしかないんだよね」
「ただのオンボロじゃんか。これだからナードは──」
虎之介が呆れたように息をついて言いかけるとチャキリ、と今度はこめかみにひんやりとした感触がする。銃口だとすぐに理解して嘆息すると両手を上げた。
「まったく血の気が多いな、シスター・レイチェル。情緒不安定かよ……」
「罪人は救えというのが主の教えでね。次もう一回私のことナードって呼んだら頭の風通しが良くなるわけだけどどうする?」
ちょっとした軽口で罪人扱いなのか――彼女の主はなかなか心が狭いらしい――と深くため息をつく。
「……あー、悪かった。少し口の滑りが良くなってたみたいだ。今後は気をつける」
「うんうん、素直でよろしい。子供は素直で正直なのが一番だよ」
どうせ撃つつもりもないくせに、とは言わなかった。これは単純に『私は怒っている』という彼女なりのポーズなのだ。
レイチェルは絶対に自分に危害を加えないことを虎之介が一番よく分かっている。
彼女はニコニコと笑みを浮かべながらトリガーにかけた指でクルクルと銃を回転させて白い太ももにつけたホルスターへ仕舞う。
しかし人にはダッシュボードに足を乗せるなと言いつつ自分はシートの上で立膝だ。けれどそこを指摘すればまた銃口がこっちに向くだろう。
だから今度は虎之介自身が気に障ったことを舌打ちまじりに言ってやる。
「ってかガキ扱いすんなよ」
言っては見るものの、身長が百六十七のレイチェルと百五十八の虎之介。端から見れば姉弟のように映ることだろう。
身長からしても年齢的にもガキ扱いされても仕方がないが、彼は頑なに認めたくないのだ。
「十五歳はまだまだ子供だよ」
「だったら二十歳はババアだな──おおっと、こいつはただのジョークだ。コミュニケーションは大事だろ?」
素早い動作でレイチェルの左手がホルスターに伸びそうになるのを見てもう一度両手を上げた。まったく、潤滑油でも飲んだかと自分でも疑いたくなる。
しかし、同時に根底にあるのはなかなか来ない獲物のせいで焦れているだけだと自覚もしていた。
「本当に達者な口だよね」
片眉を上げて笑うレイチェルと目が合って肩をすくめてみせた。
「お褒めにあずかり光栄の限り」
「いや、褒めてないから!」
「嫌味だよ。気にすんなって」
「――ほんっとに! トラは生意気すぎなんだよ!」
喚くレイチェルをよそに息をついてから虎之介は手配書を眺める。人喰いに二百万という法外な値段がつけられ、デッド・オア・アライブ。生死問わずとも記載されている。
この街に入り込んでくるもの──それは『悪魔』だ。
そしてそれら比喩でもなければ悪い冗談でもないことを虎之介は身をもって知っている。この国の誰もが知っている。
事件が大きければ――たとえば貴族や政治家、富裕層が絡む事件ともすれば――警察やエクソシストで構成された組織『ジューク・ボックス』も動く。
けれどそれ以外では虎之介たちのようなスラム一歩手前の賞金稼ぎが先に動くことになる。
貧困層やスラム出身者たちならどうせ死んでも問題ないからだ。
そして賞金稼ぎの世界に入った彼は子供のころの理想とは違う現実を目の当たりにすることになった。
そこにはまんまと金目当てで賞金稼ぎを生業にする同業者も多く、大半の理由はあまりに簡単で、惨めな現状からの脱却には金が要るために命を賭けていたのだ。
あるいは生きていくためだけに必死になってリアルが見えていない。それだけだった。
虎之介からすれば過去に似たような状況にあったから理解できなくはないけれど、『金』だけを追いかけるにはこの仕事はリスクがでかすぎる。
なのに、さんざん散財して豪遊した過去の甘い未練を忘れられない輩は自分の命と金とを天秤にかけること、その前提にある不平等さを度外視せざるを得ないのだ。
その点に限って言うのならば、虎之介は全てを失ってなお、まだ幸運だったのかもしれないと思える。
少なくとも──昔はともかくとして――今は自分の夢のためにリスクを取ることを選べるようになったのだから。
そして亡き父親がどれだけの信念をもって『誰かを守るのが俺の仕事なんだ』と快活に笑っていたのか、その覚悟や度量の大きさ、さらに言えばその偉大さも同時に感じることになった。
「しかしまあ、二百万もかかってるんだ、それくらい強いヤツってところか」
「へ? ううん――強い弱いじゃなく食べた相手が悪かったってところかな。ここだけの話だけど、ブラム・ファミリーの娘に手を出したんだってさ」
まだぶつくさと文句を言っていたレイチェルは視線を上げるとそう言った。
「ブラムって――マフィアの?」
「そう。で、ボスが怒り心頭で値段が吊り上がっちゃったって話」
賞金に関しては基本的に公的機関がその罪過と危険性を加味した上で設定するのだが、民間人が金を出すことも珍しい話ではない。
「なんだってこんなスラムギリギリのとこにそのボスの娘が来るんだよ」
「噂じゃ恋人がここに住んでるんだって」
「貧民街の恋人ねえ。マフィアのボスが許すとは思えねえけど」
「だからここでひっそり愛を育んでいたのよ。恋する乙女はお金に無頓着なのかもね。まさに貧富の格差を越えた純愛!」
レイチェルは胸の前で両手を組む。心なしか目が輝いている。シスターでありながらそういったゴシップに目がないということもよく知るところだ。
「……なるほど」
しかしまあ、そのおかげでこの金額の理由は分かった。マフィアのボスの娘の逢引相手がこの辺りに住んでいる──そして逢瀬の前後どちらかで人喰いに襲われた、と。
「でも、それで悪魔に食べられちゃうんだから悲劇的なロマンスだよねえ」
「悪いけど、悲劇で終わるロマンスなんて俺は好きじゃないんだよ……っと」
虎之介はオープンカーのドアを飛び越え、タイル敷きの地面に立つ。少し前から風が強くなりつつあり──よく知る気配が漂ってきていた。
「――今回こそ俺ひとりで倒してやる」
その言葉にレイチェルからの返事はなかった。