Ep.1:聖なる夜の邂逅
◇1◆
聖なる夜――主に感謝し、称える夜。
貧困街で育った虎之介はコンクリート敷きの地面を蹴りつけて走っていた。
プレゼントはないけれど、この日だけは小さなケーキを食べられる。それに心が踊らないと言えば嘘になる。
レンガ造りやコンクリート造りの大小さまざまな建物が並んでいて、それらは橋や通路で繋がっている。
薄曇りの空からは雪が降っていた。ほつれたマフラーで口許を隠し、その隙間から白い息を吐く。笑みが抑えられない。
イコライザ帝国という拝金主義で出来上がった島の中で、もっとも輝く日。
それがこの聖なる夜だ。格差の大きなこの街でも、それなりの幸せを、それぞれの楽しみを享受できる唯一の日。
建物と建物の三階部分の間を走る蒸気機関車がけたたましい警笛と煙を吐き出している。
虎之介は階段の手すりを飛び越え、速度を落とさずに跳躍し、くるりと前転して正反対の手すりを越えるとそのまま直線に速度を上げる。
自宅まではもう少しだったが気がはやるのを抑えられない。
十歳の虎之介は、父親から身体の使い方を教わっている。どこの筋肉を動かせば自分がどう動けるのか。常にイメージし実戦を続けた結果、脳で考える前に身に沁み込んでいた。
父親は誇りだった。
どんな相手であれ引けを取らない。たった一振りの刀を持ってかならず仕留める。巨躯でありながら俊敏な動きで勝利を得る。
武人であり侍であり賞金稼ぎ――そしてその相手は、この島に息を潜めている『悪魔』だ。普段は人間に擬態しているがそれらの本性、本質は非常に狡猾で残虐である。
そんな相手に怯むことなく、警察よりも速く、エクソシストたちの組織『ジューク・ボックス』よりも迅速に街を駆け悪魔を屠る。それに応じて賞金を得る。
そもそも賞金稼ぎのほとんどは貧困層やスラム出身者の就く仕事でもあるのだ。
しかし腕が立てば富裕層からボディガードとして雇われることもあり、また上手くいけば『ジューク・ボックス』への加入も夢ではない。
そうなれば一気にこの状況から抜け出すチャンスでもある。
けれど父親はその道には進まず、あくまで賞金稼ぎとして困っている人間を助けるために東奔西走する。虎之介からすればまさしく英雄だった。
中には『チャンスをどぶに捨てて命を賭ける馬鹿だ』と鼻を鳴らして揶揄する者もいたらしいがそれでも父は気にすることはなく、いつだって豪快に笑っていた。
『格差も金も組織も関係ねえ。誰かを守るのが俺の仕事なんだ。トラには苦労をかけるがな』
それが父親の口癖で、虎之介はそう言われるたびに満ち足りた気持ちにもなった。
そう、虎之介とって賞金稼ぎとは正義の味方のように映った。だからこそ憧れた。誰よりも強く、誰よりも正義を重んじる父親を。
そしてそんな父親をいたわる母親の慈愛を。
『俺も正義の味方になりたい!』
はっきりとそれが夢となったのは五年前――虎之介は帰路につくため街を駆け抜けながら脳内で回想する。鮮明に今でもありありと思い出せる。
◇◆
当時まだ五歳だった虎之介は通りがけにイジメられている少女を見つけて喧嘩をしたことがあった。そのときは傷だらけで負けてしまった。
話の内容は――恫喝のようで彼らは少女の持つパンを狙っている様子だった。
パンの袋を抱えた少女もそんな少女に絡んでいる相手も虎之介より身長があり年上のように見えた。特に絡んでいる少年たちは揃って大柄だった。
けれどそれでも少女を逃がして諦めずに食って掛かって戦った。結局ぼろぼろになって負けて帰ったあとで、母親は心底心配した様子で虎之介は怪我を手当てしてもらって、
『喧嘩はしてほしくないな』
と、困ったような顔でそう言われた。
それでも母親の表情は柔らかい笑みが浮かんでいて幼い虎之介はそこで無償の愛というものを知ることになる。自分は愛されているのだと。だから申し訳なくなってしまい、
『ごめんなさい』
そう謝ったのだ。しかし父親は違った。
『……トラ。お前、間違ったことをしたと思ってんのか?』
『ううん。ただ、その子が困ってたから――』
『助けたかったんだな?』
『お父さんみたいに――正義の味方に、なりたくて』
『だったら胸を張って笑え。夢ってのは言い訳じゃない。笑って、胸張って堂々としてなきゃ誰も認めちゃくれねえぜ』
『あなた、トラは五歳よ。まだ難しいわ』
『いいさ。かならず分かるときがくる』
そこから父親と組手や動き方を習った。
筋トレやランニング、木剣を使った練習もした。
それが功を奏したのか、五年も経てばこのいびつに組み立てられた橋や通路を自由自在とまではいかないものの、障害物を避け、目的地に最短で着く方法を身につけた。
過去の回想に浸れば胸が――心がまるで熱された鉄を流されたように滾る。
そんな熱さを心地よく感じながら虎之介は二階を走る通路から跳んで、前転の要領で受け身を取るとすぐさま駆け出す。
筋肉をしなやかに、動きは流れるように、小柄な身体で俊敏に。
十歳にしては小柄な身体もコンプレックスではなく上手く使うための術として習った。そこからはこの小さな身体のことでからかわれても劣等感を覚えなくなった。
『身体は一番身近な武器になる。小柄であることは鍛え抜けば大きなメリットだ』
父親は武骨な手で虎之介のくせっ毛をガシガシと撫でて笑ったのだ。
◇◆
――もう少しで着く。
周囲を車やバイクが過ぎていく。この街で車を持っている人間は稀有だ。その車は真っ黒な煙を吐き出しながらガコンガコンと今にも壊れそうな音で通り過ぎていく。
虎之介はひざに手をやって肩で息をする。白い吐息が雪と混ざって空へと舞い上がる。まだ体力がついてきていない。それもこれから鍛えていけば補えるはずだと気持ちは高まるばかりだ。
そして自宅の玄関を見てその日一番の笑顔を見せる。玄関に小さなリースが飾られていたからだ。
「ただいまっ!」
ワクワクする気持ち――昂ぶる気持ちのまま玄関を開いた。
虎之介の家は広くはない。玄関から廊下が伸びて一部屋しかない。そこにキッチンとダイニング、三人で寝るベッドがある。
しかし様子がおかしいのはすぐに分かった。勢いよく玄関の扉を開いた彼の鼻孔に入ってきたのは生臭い鉄のような、嗅いだことのない匂いだった。
「……母さん? 父さん?」
カチャカチャという音が耳朶をかすめる。虎之介の家では家族が揃わないと食事はしない決まりになっているから、そこにも違和感を持った。
マフラーを外して部屋に入るとベッドに横たわる母親が目に入った。うつ伏せで胸あたりから赤い血を流しシーツを染めてはベッドから滴っている。
そんな母を守るようにそのベッドの前で父親が両手を広げてうなだれるように座り込んでいた。その手には刀が握られている。
だがピクリとも動かず、その胸は開かれ、骨が見えていて――虎之介は理解するまでに時間がかかった。
否――理解する前に、わきのダイニングテーブルにいる老紳士然としたそれと目が合ってしまった。
白い髪に白いひげが赤く染まっている。
スーツに身を包み、テーブルわきにステッキを置いてそれにシルクハットを掛け、右目にモノクルをつけた老紳士――それが、皿に載せているものに目を奪われた。
「――やあ、少年」
そこに置かれていたのは、父親の心臓。それをナイフとフォークで裂いて口に入れる。グラスにはドロドロとした血が半分ほど入っている。
理解が追い付かない。なにが起こっているのかが分からない。ただ無機質にカチャカチャとまるでコース料理を嗜むように老紳士は父親の肉を、臓器を口に入れている。
「な、なんっ、だ、おまえ……」
「ふむ。貧困層の人間というのはやかましいだけでなく口の利き方も教えないのか」
「……なにを、言って……」
「私は静かな食事を楽しむことこそ至高とするわけだよ。けれどそこの女はあまりにうるさくてね。正直、この男の肉だけで老人の胃袋は満足するというのに――」
老紳士は何食わぬ顔でそう言ってフォークを滑らせる。
虎之介はその場にへたり込み失禁してしまう。全身に悪寒が走り、吐き気に逆らえずそのまま床へと吐き出した。
その嘔吐物を眺め、老紳士は眉をひそめる。
「マナーがなっていないな。これだから子供は。いいや、子より親に問題があったのだろうね。教育が行き届いていないのだから。まあ、親などと私が言えることでもないが――」
胃の中を空っぽになるまで吐いて、咳き込みながら涙目で老紳士を睨む。
「あ、悪魔……ッ」
「そういった総称で呼ばないでもらえるかな。私にだって名前はある。レイク・ブラッド。博士とも呼ばれている。君だって人間と呼ばれて良い気はしないだろう?」
老紳士――レイクはナイフとフォークを置く。皿を見ればそこには肉片の欠片さえなかった。それから血の香りを楽しむように鼻先でグラスを揺らし、それをゆっくりと飲み干す。
それを見ているだけしか出来なかった。腰を抜かし、小便を漏らし、胃の内容物を吐き出して、壁を背に震えていることしか出来なかった。
「さて。残すのは私の主義にはそぐわないのだよ。少年――君も空腹だろう、存分に食事を楽しむと良い。あいにくただの女には興味がなくてね。手を付けていない」
「……くるっ、狂ってる……お前ら悪魔は」
「それはなかなかに心外だね――それにしても君の魂は良い香りをしている。だがまだ深みが足りない。もう少し熟成させておくとしよう」
テーブルナプキンで口許――白いひげについた血を拭くと杖を持ち立ち上がり、虎之介の前を堂々と通り過ぎていった。
「ああ、言い忘れていた」
玄関前で立ち止まり、シルクハットをかぶると肩越しに老紳士は振り返る。その口許にうっすらと笑みを浮かべて。
「素敵な夜を、少年」
それは黒々とした、地獄の底から聞こえてくるほどに低い声で、皮肉のこもった響きをもって彼の鼓膜を揺らした。意識が遠のきそうな中でも、それだけははっきりと聞こえた。
なにも出来なかった。なにも。ただ死ぬのを恐れて見ているだけしか。
脳が現実に追いついてきたとき、涙があふれ虎之介は身体を折り床や壁にひたいや拳を加減なく叩きつけた。
血が床に垂れても構わずに殴り続け、気が付けば怒号と悲鳴の混じった声を上げていた。
「くそ……ッ! くそッ! く……ぐ……うあああああああああッ!!」
そしてその日を境に彼にとって――聖なる夜は輝かしい日ではなく、この世のすべてを奪われた日として記憶されることとなる。