Ep.11:彼女の過去
◇11◆
――あれはまだレイチェルが十歳のころだった。親のいない彼女は貧困街の教会で育った。その日も親代わりのシスターからお使いを頼まれて夕食のパンを買いに出た帰りのことだ。
「おい!」
三人の同世代の男子に絡まれたのは。大柄で自分よりも力のある男子を相手にレイチェルは戸惑ってしまい逃げることも出来なかった。
「そのパンよこせよ」
「え……ダメ、です。これは」
「いいからよこせよ!」
手を伸ばしてくる男子から身をよじって躱す。するとタイルにつまづいて少年は転んでしまった。レイチェルの表情はみるみるうちに青ざめていく。
――主に逆らってしまう。
シスター姿ではなかったがレイチェルは教会で育った同じ境遇の子供たちよりも信心深かった。教えの中には人に危害を加えてはならないというものもある。
それに逆らってしまったのではないかと感じて慌てて転んだ少年に手を差し伸べようとした。その手を弾かれて、立ったままの二人の男子がレイチェルの腕を掴む。
「痛っ! やめてください!」
「うっせえ! そのパンをよこせっつってんだよッ!」
「こ、これは――みんなの」
どうすればいいのか分からなかった。主は困っているものを救えという。この少年たちも空腹なのだろう。
けれどこのパンを渡せば、教会で帰りを待つ子供たちの夕食も無くなってしまう。
レイチェルの信心深さが却って動揺と混乱を招いた。立ち上がった少年もレイチェルに手を伸ばしてくる。
その手を、誰かが掴んだ。
「――なんだよお前」
「――正義の味方だ」
手を掴んだのはまだあどけない――レイチェルよりも年下のように見える――少年だった。その少年は笑っていた。笑って、三人の男子を見ている。
それは嘲りなどの混ざり気のない、真っ直ぐで純白な笑顔だった。
「逃げて。俺は大丈夫だから」
レイチェルは自分よりも小柄な少年にそう言われて軽く背を押された。
「なにカッコつけてんだよ!」
「早く逃げて!」
少年が胸ぐらを掴まれ殴られるのを見てレイチェルは後ろに後ずさりして、そのまま振り返ると教会へと向けて走った。
途中で白いローブを身にまとった男がいた。背にはジューク・ボックスの紋章が入っていてレイチェルは腕を掴むと今にも泣きそうな顔で男を見上げた。
「……なんだ?」
「助けてください! 男の子が、男の子が私を助けてくれて、その、そこの曲がり角で、ぼ、暴力を振るわれてて」
ジューク・ボックスはエクソシストの組織だ。悪魔を払うことに特化した組織だと聞いた。それだけじゃない。相手はジューク・ボックス以前に大人なのだ。
いとも簡単に少年を助けてくれる――そう思った。けれど。
「そんな些事に私を使うつもりか? お前は何様のつもりだ。それに私は今そんなことに割く時間などありはしない」
希望とは程遠い言葉とともに掴んだ手を振り払われて、ローブの奥のぎらついた眼に射すくめられ身体が硬直してしまう。
「私はジューク・ボックスの高潔なエクソシストの血統を持っている。お前のような貧困層の薄汚い人間に使われるなどあってはならんのだよ」
そう告げるとローブをひるがえしてそのまま立ち去っていく。その背を見ながらレイチェルは――初めて人間を恐れた。
そして教会に戻ったあともあの少年のことが気がかりで、ただただ無事を祈った。
「レイチェル、どうかしたのかしら?」
「レイチェルお姉ちゃん元気ない?」
その晩の食事のころ、食卓についたシスター・メイリアや共に住んでいるシスター・シュリィにそう訊かれ、レイチェルはことの経緯を説明した。
「まあ。そんなことが……難しいものね。その子のお名前は?」
「分かりません――でも、小柄でしたし私より年下だったと思います。シスター・メイリア、私はどうすればよかったのでしょうか」
「で、でもね、でも、レイチェルお姉ちゃんは悪くないと思う……だっていつも私たちのご飯買ってきてくれるから……」
今度はシスター・リザーナに励まされ、メイリアが困ったように目を閉じる。
「本当に申し訳ないことをしてしまいました。レイチェル、あなたが最年長だからと言って任せっきりにして……まだ十歳ですもの。迷うのも仕方のないことです」
「い、いえ! 私はこの子たちが大事です。それにシスター・メイリアはその――お身体が」
「あなたは優しいのね。この足もきっと主の与えた試練なのでしょう。だというのに、あなたに甘えてしまっています」
「そんなことはありません。たとえ右足が動かなくなっても、その……ご高齢であってもシスター・メイリアは礼拝を欠かしてはいません。かならず治ります!」
「ふふ。気付けば八十歳になりましたものね。月日の流れは早いものです――もしかしたらこれが最後の試練なのかもしれません」
「い、いえ、そういう意味では……ただ、その、教会からマーケットまでは距離があるので」
レイチェルは目を伏せる。メイリアはプラチナブロンドの髪を撫でる。
「あなたは本当に優しい子ですね。それにここにいるみんなもとっても優しく、明るい子たち。私の自慢の子供たちですよ」
レイチェルはテーブルに並ぶ年端のいかない六人の子供たちを見る。それぞれスープにスプーンを差し込み、パンをちぎっては口に運んでいる。
「でも、レイチェルお姉ちゃんが怪我したら私、許さないもん! やっつけてやるの!」
「あらまあ、シュリィ。言葉が乱れていますね。主が見ておられますよ」
「うぅ……だって、だって、メイリア」
「大丈夫。それもまた優しさです。けれど、どんな子であれやっつけてはいけません」
悔しそうな表情を浮かべたシュリィをたしなめたあとで、小さく笑った。
「主が、見ている……」
ふたりのやり取りを聞いてレイチェルは考える。そんな彼女の頭の中を覗いてきたかのようにメイリアが微笑んだ。
「そう――主はいつ何時も見ていらっしゃいます。きっとその少年にも主のご加護がありますよ、レイチェル」
「でも、その……」
「あ、あの、どうしたの?」
心配そうなリザーナと視線が合って、とっさに逸らしてしまう。
「パンを、せめて私の分だけでも渡してあげられたらと思って」
「悪者なんかにあげちゃダメ!」
「シュリィ、あなたって子は……けれど、そうね。こう考えなさい。本当にパンを渡すべきであれば、少年はあなたを助けたりしなかった、と」
「つまりその、これは主のご加護――」
「そうです。そして主は、万物を愛し、万物を許すのです。助けてくれた少年にも、そのパンをねだる子供たちにも平等に幸運が舞い込んでくることでしょう」
優しい笑顔で笑うメイリアに、レイチェルは安堵する。けれど、やはりどこかで彼のことが気にかかった。
「お姉ちゃん! ご飯が終わったら遊ぼうね!」
「わっ、私も!」
「えー! 私たちも混ぜてよー!」
「こらこら、お行儀が悪いですよ。それにその前にお掃除をしましょうね」
シュリィはふくれっ面だったが、レイチェルと目が合うと吹き出して笑った。
「うん、あとで遊ぼうね」
この小さな教会の中で暮らす彼女たちは家族というものを知らない。けれどレイチェルはときおり思うのだった。これが家族というものなのではないか、と。