金魚玉
玻璃堂は硝子製の古道具のみを扱う店だ。
江戸や薩摩の切り子、舶来物のグラスなど高価なものから、皿や漁で使う泛子など安価な物まで揃っている。
曇り硝子をはめ込んだ格子戸を開けると、古い町屋を改装した薄暗い店内に所狭しと並べられた道具たちが目に飛び込んでくる。
店主はそろそろ米寿を過ぎようかという私の祖父だ。
いつも店の奥の帳場に腰を下ろし、黙って煙管をくわえている。
皺だらけの顔は目を細めるとその目さえも深い皺に埋もれてしまうほどだ。
寂れた温泉街の片隅にあるこの店は、冷やかしの客には店に入ることをためらわせるような雰囲気が漂っていた。
店の軒先には、硝子の風鈴と並んで金魚玉が吊されている。
水を注いだ金魚玉の中で泳いでいるのは、赤い色硝子で作られた金魚だ。
初秋の夕陽を浴びていっそう赤く輝く硝子細工の金魚は、風が吹くたびにゆらゆらと揺れる金魚玉の中でまるで生きているように見える。
気泡を含んだ硝子玉そのものが、いっそう金魚に躍動感を与えていた。
なぜ本物の金魚を入れないのか、と私は祖父に尋ねたことがある。
いまではすっかり珍しくなってしまったが、金魚玉はかつて行商人が金魚を入れて売り歩いていた硝子の器だ。拳ほどの大きさの容器を紐で天秤棒にたくさん吊していたそうで、かつて祖父も若かりし頃は金魚の行商をしていたという。
「これは棺だから、生きた金魚を入れるとすぐ死んでしまうんだ」
眩しそうに金魚玉を見遣りながら、祖父はぼそぼそと答えてくれた。
「縁起が良いものではないから売るわけにはいかないが、納戸にしまっておくのもどうかと思って箱から出してみたものの、金魚玉が空では見栄えが悪かろう?」
どうやらいわくがある品らしい。
玻璃堂には幾つか「売り物にならない」物がある。
祖父はごく稀に、それらを手に入れた顛末を思い出したように私に語ってくれる。
金魚玉も、どうやらそのたぐいの物らしい。
「あれは儂がまだ行商をしていた頃のことだ」
祖父は煙管を唇から離すと、白い煙を吐き出した。
太い梁が横たわる暗い天井に向かって昇りながらかき消える煙を目で追いつつ、私は黙って祖父の話に耳を傾けた。
大勢の湯治客で溢れる温泉街には、数日のみ滞在する客もいれば、半年や一年と長期で逗留する客もいる。
街にはたくさんの温泉宿が軒を連ねており、どの宿も繁盛していた。
初が女中として働く座古屋も、常連の湯治客たちの間では評判の宿だ。
そんな座古屋に十代半ばの娘が療養のため湯治客としてやってきたのは、初夏の頃のことだった。
裕福な家の娘らしく、付添人として腰の曲がった老婆を連れていた。
昨年から体調がすぐれず寝付きがちだという娘は、肌が青白く、やつれた顔をしていた。手足はほとんど肉が付いていないほど細く、宿の廊下を歩いているだけでよろけたり、すぐに息切れをしてはその場に座り込むほどだった。
付き添いの老婆は娘のことを「嬢ちゃま」とだけ呼んでいたので、初は娘の名を知る機会はなかった。
また、初は「嬢ちゃま」と直接話をすることもなかった。
「嬢ちゃま」と老婆の部屋を担当することになった初は、一日三回食事を運び、部屋の掃除をし、寝具を取り替えたり、床の間に飾る花を運んだりと頻繁に部屋に出入りをしたが、用事を言いつけてくるのはいつも老婆の方だった。
娘は布団の中で横たわっているか、起きていても上半身を起こしたまま布団の上で過ごしていることがほとんどだった。
たまに窓際に座ってぼんやりと庭を眺めていることもあったが、部屋から一歩も出ることはなかった。
湯治に訪れたはずなのに、温泉に入ることもしない。
三日に一度は体調が悪くなり、夜になると熱が上がったり咳き込んだりして、初は真夜中だというのに近所の医者に往診を依頼しに行かされることもあった。
そんな日の翌朝は、いつも老婆は廊下で初を呼び止め「昨夜はお世話をおかけしました」と幾ばくかの小遣い銭を握らせてくれるのが常だった。
半月もすると、初は娘と老婆の世話にも慣れた。
そんなある日の午後のことだった。
初は昼食の膳を下げに部屋に入った。
老婆は膳の料理をすべて平らげており、小さな身体ながらふくふくしい体格であることが納得できる食べっぷりだった。座古屋に滞在するようになって以来、部屋に籠もっていることが多いせいか、最初に訪れたときよりもさらにふくよかになったようだ。
一方の娘は、食が細い。
好き嫌いはないようだが、箸の上げ下げだけでも体力を消耗するのか、どの料理もふたくち食べていれば上出来といったところだった。
初夏のこの時期、朝夕は涼しいが昼間はぐんと気温が上がる。
娘と老婆は二階の広い角部屋に逗留していたが、障子窓を開け放っていても部屋は蒸し暑い。
仕事をしている初も、膳を運んだり下げたりするために廊下を歩いているだけでも、全身が汗だくになるほどだ。
身体が弱い娘にとって、この地方の暑さはかなり応える様子だった。
厨房の料理人が、すこしでも食事が喉を通るようにと配慮して用意した料理も、娘の口には合わなかったようだ。
ほとんど箸を付けられていない膳に目を落とした初が、吐きかけた溜め息をなんとか飲み込んだときだった。
障子窓を大きく開けた外から「きんぎょーきんぎょっ」と金魚売りの声が響いてきた。
「おや珍しい。金魚売りですか。最近はほとんど見かけなくなったと思っていましたが」
団扇で娘を扇いでいた老婆が、窓の外に視線を向けた。
「金魚?」
それまでぼんやりと窓際に座って空の雲を眺めていた娘が、急に振り返った。
「行商人が天秤棒に金魚玉を括り付けて金魚を売り歩いているんですよ」
初が説明すると、娘の虚ろな瞳がゆっくりと焦点が定まったように輝いた。
「欲しいわ」
「普通の赤いだけの金魚ですよ。屋台の金魚すくいにある金魚となんら変わりませんが」
「構いませんよ。女中さん、ちょっと一匹飼ってきてくださいな」
金魚の値段を知らないからなのか、駄賃も含んでいるのか、老婆は紙幣を一枚財布から出すと初に差し出した。
「はぁ、わかりました」
片付けていた膳をそのまま部屋の隅に置くと、初は老婆から受け取った紙幣を握り締めて外へと駆けた。
「金魚売りさん、ひとつ金魚をくださいな」
天秤棒にたくさんの金魚玉をぶら下げて通りを歩く男に声を掛けると、金魚売りはすぐに立ち止まった。
藍色の法被にすててこ姿の日に焼けた若い男は、初が紙幣を差し出すと黙って丸い硝子玉の中に一匹の赤い金魚が泳ぐ金魚玉を天秤棒から外した。
真昼の陽射しを浴びて水面がきらきらと眩しいくらいに輝いている。
水の温度も上がっているだろうに、金魚は涼しげに短いひれをひらひらと動かして泳いでいた。
「まいど」
釣り銭を渡すと、男は低い声で礼を告げ、すぐに「きんぎょー」と声を張り上げて歩いて行った。
随分と無愛想な男だった。
初は右手に金魚玉の紐を握り、左手に釣り銭を握って、座古屋へと戻った。
金魚玉は、娘の部屋の軒下の梁に吊した。
西日が差し込む窓辺に座り、嬉しそうに娘は金魚を眺めている。
夕陽を浴びて金魚はますます赤く輝いていた。
「嬢ちゃま、日に当たり過ぎると身体に触りますよ」
老婆は娘に忠告したが、娘は金魚に視線を奪われているのか返事もしない。
その晩、娘は珍しく夕食をいつもより多く食べた。
とはいえ、料理は半分も減ってはいなかったが、それでも食べた方だった。
機嫌も良く、夜になっても窓辺に座ってぼそぼそと金魚に話し掛けている。
よほど金魚が気に入ったらしい。
初が布団を敷くために部屋を訪ねたときも、まだ娘は金魚を眺めていた。
「嬢ちゃま、夜風に当たっていては熱が上がりますよ」
老婆は娘をたしなめるが、娘はなかなか窓辺から動こうとしない。
夜になってもそう気温は下がることはなかったが、日没からしばらく経つと蒸し暑さは多少和らいでいた。
南の空にはぼんやりとした半月が出ている。
近くの川辺に棲む蛙の鳴き声が、夜陰に響いていた。
「それでは、おやすみなさいませ」
初はふたりの背中に声を掛け、部屋を出た。
他にも初が受け持っている部屋は複数あり、ふたりにばかりかまっている暇はなかったのだ。
すべての部屋の布団を敷き終え、各部屋の明日の用事などを言い付かり、初が女中部屋に戻ったのは深夜を過ぎた頃だった。
部屋の柱に掛けられた振子時計が規則正しく時を刻んでいる。
コチコチという音に混ざって、窓辺に吊してある風鈴のチリンチリンと涼しげな音が耳に届いた。
ふっと初の脳裏に二階の窓辺に吊された金魚玉の光景が過ぎった。
あの小さな硝子玉の中に入れられたままの金魚は、大丈夫なのだろうか。
金魚は本来、金魚玉の中で飼うものではない。
明日になったら老婆に、金魚鉢を買うことを勧めようか。
水槽を勧めても良いが、一匹なら鉢でも充分だろう。
確か近所の雑貨屋で金魚鉢が売っていたはずだ。一番小さな鉢なら床の間に飾っておいても邪魔にはならないはずだ。
そんなことをつらつらと考えながら、初が風呂に向かおうとしたときだった。
「初、ちょっと」
女将が部屋に入ってきて、手招きした。
「なんでしょうか」
着物の帯を解きかけていた初は怪訝な表情を浮かべつつ尋ねた。
「二階のお客さんだけど、付き添いのお婆さんがあんたに頼みたいことがあるんだって」
「こんな時刻に?」
「そうなんだよ」
困惑した顔で女将は頷く。
「なんでも、急いで新しい金魚を用意して欲しいそうなんだよ」
「金魚?」
「昼間、あんたがあの部屋のお嬢さんに頼まれて金魚を買っただろう? その金魚が弱って動かなくなってしまったんだってさ」
それは充分ありえる、と初は納得した。
陽射しを浴びて、硝子玉の中の水温はかなり上がっていたはずだ。
金魚も煮魚状態で、さぞかし苦しかったことだろう。
「あのお嬢さん、なぜだか金魚は自分の分身だって言い出して、金魚が死んだときが自分が死ぬときだって急に思い込んでしまったんだってさ。もしお嬢さんが金魚が死んだことに気付いたら自分の寿命もこれまでって思って息絶えてしまうといけないんで、お嬢さんが寝ている間に新しい金魚と入れ替えて欲しいって言うんだよ」
「はぁ……」
病弱な娘の妄言にしか思えなかったが、金魚が死んだことに悲観して娘が死んでしまっては大変だ。
仕方なく、初は深夜の遣いを引き受けることにした。
こんな夜更けに金魚を売ってくれるところなどあるのだろうかと初が首をひねっていたところ、番頭が、いつも通りで金魚を売り歩いている行商人の家を教えてくれた。
そう遠くはない長屋の一角に、男は住んでいるのだという。
今日の売れ残りの金魚の数匹くらいなら、男の手元にあるかもしれない。
必要なのはたった一匹の金魚だ。
このときになって初は、娘が高価な出目金を欲しがらなかったことに感謝した。
出目金など、どこでも買えるというものではない。
仕方なく、初は帯を締め直すと、老婆から渡された紙幣を握り締め、金魚を買いに走った。
外灯などない夜道はわずかな月明かりだけを頼りに進むしかなかった。
途中、夜鳴うどんの屋台の明かりと、酔っ払いの濁声が、こんな夜中でも自分以外に起きている人がいるのだという安心感を与えてくれた。
長屋まではなんとか無事辿り着けた。
金魚の行商人の男の部屋も、すぐにわかった。
部屋の前に木桶が幾つも積み重なっており、薄墨を流し込んだような夜陰の中でも、『きんぎょ』と書かれたのぼりが軒下に立て掛けられているのが見えた。
「こんばんは。夜分遅くにすみませんが、金魚を売ってくれませんか」
寝静まっている長屋の他の部屋の住人を起こしてはいけないので、初はできるだけ声をひそめて障子戸を叩いた。
「大変申し訳ありませんが、どうしてもすぐに金魚が必要なので――」
戸をトントンと叩いていると、中で人が動く気配がした。
「……何匹いるんだ」
眠っているところを起こされて機嫌が悪いのか、顔を顰めて昼間の金魚売りの男がぬっと顔を出した。
「一匹、です」
初が慌てて答えると、男は中に戻ってなにやらごそごそとしていた。
間もなく、水を注ぐような音がしたかと思うと、一匹だけ金魚が入った金魚玉が目の前にぶら下がっていた。
「あ、ありがとうございます。これ、お代です! おつりはいりません」
手にしていた紙幣を男に押し付けると、初は金魚玉を受け取り、踵を返して座古屋へ戻った。
帰り道は金魚を無事に連れて帰ることだけを考えていた。
水をこぼさないよう、転んで金魚玉を割らないよう、その一心で足早に進んだ。
座古屋では、勝手口に煌煌と明かりが灯り、初の帰りを待ってくれていた。
「買えました、金魚」
初が金魚玉を差し出すと、番頭がそれを受け取り、急いで二階へと運んでいった。
娘は夜中に咳き込んで目を覚ますこともあるため、できるだけ早く生きている金魚を金魚玉に入れる必要があったのだ。
「ご苦労さん。大変だっただろう」
女将は初をねぎらいながら手拭いと水を入れたコップを差し出してくれた。
受け取ったコップの水を一気に飲み干した初は、自分の全身から汗が滝のように流れていたことに気付いた。拭っても拭っても、額からは汗が噴き出している。
「まったく、金魚のために真夜中に走らされるなんて、あんたも災難だったね」
苦笑いを浮かべた女将は、初の肩を軽く叩いた。
「さぁ、今度こそ風呂に入ってゆっくり休んでおくれ。明日も朝は早いよ」
「はい」
夜遅くに用事をしたからといって、明日の朝はゆっくりと寝ていられるわけではない。
逗留客は多く、仕事は朝から晩まで山積みだ。
(まったく、金魚にこれほど振り回されることになるなんて――)
大きな溜め息を吐きながら、初は女中部屋に戻った。
翌朝、初が二階のふたりの部屋を訪れると、金魚玉の中には生きた金魚が窮屈そうにしていた。
娘はまだ軒下に金魚玉を吊したままだ。
朝から蝉が騒々しく鳴いている。
今日も暑くなりそうだというのに、これでは金魚玉の中も温水になりかねない。
金魚が可哀想だ。
しかし、娘は金魚玉の中の水温には頓着しないのか、嬉しそうに金魚玉を見上げては止めどなく話し掛けている。
「あなたはわたしの半身よ。あなたがそばにいてくれれば、わたしは元気になれるわ。外だって歩けるようになるわ」
付き添いの老婆や初の姿など見えていないかのように、金魚玉の中の金魚だけに向かってひたすら喋り続けている。
昨日の金魚と今日の金魚が別物であることに気付いている様子はない。
「あのお嬢さんの様子、どうだった?」
初が厨房に膳を取りに向かうと、待ち構えていたように女将に尋ねられた。
「金魚にべったりです。ずっと金魚と喋ってるんですよ。でも、このままだとあの金魚も夜には弱ってしまうでしょうね」
「今夜もまた、金魚を取り替える必要があるかい?」
「そうなるかもしれません」
女将ともなると、逗留客の金魚の心配までしなければならないものらしい。
「金魚売りが来たら、一匹買っておくように誰かに頼んでおかなければいけないね」
「お願いします」
女将も初も仕事があるので、のんびりと金魚売りがやってくるのを待っているわけにはいかない。
座古屋の逗留客は多く、仕事もたくさんあるのだ。
初は受け持っている各部屋を回り、朝食の膳を運び入れたり、洗濯物を預かったりした。それぞれの部屋の布団を上げたり、掃除をしたり、買い物を頼まれたりと、息つく暇もなく働く。
昼になって、店先に打ち水をしながら頬を流れ落ちる汗を手の甲で拭っていると、「きんぎょー」と金魚売りの声が近づいてくることに気付いた。
視線を声のする方へと向けると、昨日の男がやはり天秤棒に金魚玉を吊して歩いている。
たくさんの金魚玉の中には、それぞれ一匹ずつ金魚が収まっており、一瞬その視線がいっせいに自分に向けられたような気がして、初は全身の汗がすっと引くのを感じた。
まるで金魚たちから、二階の軒下に吊された金魚を見殺しにしようとしていることを糾弾されているような恐怖すら感じた。
初が全身を強張らせたまま金魚玉を凝視して立ち尽くしていると、男は天秤棒から金魚玉をひとつ外し、黙って初に渡した。
「あ――」
我に返った初が、男に代金を支払っていなかったことに気付いたときには、すでに金魚売りの姿は通りから消えていた。
(明日もこの辺りを通るだろうから、そのときに代金は支払えばいいか)
また深夜になって初が金魚を買いに押し掛け来ても困ると思ったから渡したのか、なにか事情を察したのかは不明だが、とにかく金魚が手に入ったことはありがたかった。
新しい金魚は、木桶に入れておくことにした。
金魚玉よりも広い木桶に移してやると、金魚は元気よく泳ぎだした。
近所の猫が食べてしまうと困るので、女中部屋の隅に桶は置くことにした。
「なんか、いいね。金魚って」
初が部屋に木桶を運び込むと、女中仲間たちが目を細めて喜んだ。
「かわいいじゃないか。このまま飼ってもいいかもね」
「もし二階の金魚が明日になっても元気なら、あたしが飼おうかね。金魚くらいなら飼えそうだし」
「いいね」
「餌をやらなきゃいけないね」
「飯粒でいいだろ」
「鯉みたいに麩をやってみたらどうだい」
皆が盛り上がっているのを見ると、初はこの金魚がいとおしく思えてきた。
休憩中の女中たちが、木桶を囲んで金魚に餌をやったり、話し掛けたりと賑やかだ。
夜になって、仕事が一段落したところで木桶の金魚のことを思いだした初が部屋に戻ると、やはり金魚の回りには仕事を終えた女中たちがたむろしていた。
「いま、名前を考えているところなんだけどね」
床には名前の候補を書き込んだ紙が散らばっている。
「いまのところ、黄金丸と赤輔が一番人気なんだけど」
「金魚にしては大層すぎる名前じゃないですか」
小指ていどの金魚に似つかわしくない名前ではないかと初が反対しかけたときだった。
「盛り上がっているところあんたらには申し訳ないが、その金魚をもらえるかい」
襖がすっと開けられ、番頭が覗き込んできた。
「二階のお客さんの金魚が死にかけてるんでね。初にまた夜道をひとっ走りしてもらうのも悪いんで、この金魚と入れ替えたいんだが」
「――どうぞ」
女中たちが静まり返る中、初は木桶を番頭に差し出した。
やはりあの金魚も弱って死にそうなのか、と午前中に見た金魚玉の中の金魚の姿を思い返した。
木桶の金魚と見分けがつかないくらい二匹とも普通の金魚だ。
よく見れば色の違いであったり、ひれの大きさなどの違いもあるのだろうが、ほとんど横目でしか見ていない初には区別がつかない。
とはいえ、一日中金魚を見上げている娘がやはり気付かないものなのかは、多少心配にはなった。
赤い鱗で覆われた身体には、よく見ればところどころに白い鱗も混じっている。
気泡混じりの金魚玉の中で陽射しを浴びてきらきらと輝く金魚と、木桶の中で気儘に泳いでいる金魚は、まったく違うように見える。
それとも、金魚玉の中に入ってしまえば同じように見えるものなのか。
もしこの金魚が、現在金魚玉の中にいる金魚と別物であると娘が気付いてしまったら、彼女はどんな反応をするのだろう。
自分の分身の金魚が死んだとなれば、娘も死んでしまうのではないか。
そんな予感が初の脳裏を過ぎったが、いくら初が心配したところでどうなるものでもない。
初にできることといえば、新しい金魚と入れ替わりに番頭が運んできた瀕死の金魚を、木桶の中に入れて最期を看取ってやることだけだった。
翌日、また金魚売りは座古屋の前を通った。
今度は初が居合わせなかったが、店の前の掃き掃除をしていた女中に金魚が一匹入った金魚玉を渡し、黙って立ち去った。
その翌日も、その翌日も、金魚売りは金魚を一匹ずつ座古屋に運んできた。
毎晩、二階の部屋の金魚は瀕死になり、番頭や女中たちが金魚玉の金魚を入れ替えなければならなかった。
そんな日が十日も続いたある日、金魚売りが店の前を通らずに日が暮れた。
「今日は金魚が届きませんでしたね」
初は女中部屋に空のままで残された木桶を覗き込みながら、女将と話した。
「今日は金魚売りだって商売にならないからだろ」
女将は雨戸を閉めた廊下を見遣りながら答える。
日没の時刻を過ぎて、外の雨風は強まりつつある。
台風だ。
ここ半月は晴れた天気が続いていたが、今朝から空を雨雲が覆い始めたかと思うとすぐに外は荒れた天候に変わってしまっていた。
他の逗留客たちも今日はおとなしく部屋に籠もっている。
昼間は金魚売りに限らず、他の行商人たちもほとんど通らなかった。
「金魚、大丈夫でしょうか」
天井に視線を向け、初は顔を顰めた。
「さすがにあのお婆さんも部屋の中に金魚玉を入れていたよ。魚臭いとかなんとかぼやいていたけれど。今日はそれほど暑くもなかったから、金魚も明日まで持つんじゃないかね」
雨戸はガタガタと揺れ、激しく雨粒が打ち付けるような音も響いてきた。
外ではヒューヒューと風も唸り声を上げている。
「今夜は番頭さんに金魚を買いに走ってもらうのも無理だしね」
女将が「ま、なんとかなるだろ」と言って、また仕事に戻った。
初も各部屋を回って布団を敷いたり、頼まれた用事をしたりしているときだった。
「ちょいと、すみません。お医者様を呼んでいただけませんか」
二階の廊下で老婆の嗄れた声が響く。
初が慌てて階段を駆け上がると、部屋の前で老婆がうろたえた様子で立っていた。
「嬢ちゃまの様子がおかしいんです。熱が高くて、うなされていて。お医者様を……」
「すぐに呼びますので、待っていてください」
初が女将に報告すると、女将は番頭に近所の医者を呼びに行かせた。
台風で荒れる夜道を、医者はやってきた。
雨で濡れた服のまま二階に上がり、診察をする。
初たち女中は、一階でその様子を固唾を呑んで伺っていた。
明け方、医者は黙って階段を下りてきた。
台風はすでに去り、外は静まり返っていた。
翌朝、老婆からの連絡を受けた娘の家の者が、ふたりを迎えにやってきた。
初は他の用事で忙しく、見送ることはできなかった。
午後になって部屋を片付けるために二階に上がると、娘と老婆が使っていた部屋には金魚玉が梁に吊られた状態で残されていた。
中では金魚が窮屈そうに泳いでいる。
(生きている――)
金魚は弱った様子はなかたった。
部屋に入ってきた初を見つけると、小さな目でじっと見つめているようではある。
すべての窓を全開にして部屋の空気を入れ換え、掃除をした。
最後に金魚玉を梁から外す。
あの娘が「わたしの半身」と呟いていたことを思い出すと、暑い昼間だというのに背筋が冷えた。
金魚玉を持ったまま勝手口から外に出る。
偶然、道端で金魚売りが煙管をくわえて休憩をしていた。
初が金魚玉を差し出すと、男は黙ってそれを受け取り、天秤棒に吊した。
他の金魚玉の金魚たちは、まるで仲間が戻ってきたことを喜ぶようにその金魚を見つめているようだ。
娘の部屋にいた金魚も、外に出られて嬉しいのかひれをひらひらと動かしている。
まるであの娘の魂が金魚に移り、新しい生を得て満喫しているようにも見えた。
(――まさか)
寝不足の頭を振り、自分の考えを否定した。
まもなく、金魚売りの声は蝉の鳴き声に紛れて聞こえなくなった。