第1話 遭難
どこまでも広がる銀世界。
空は低く薄い雲に覆われている。
太平洋を西から吹き抜ける偏西風が
潮の香りを運んでくる。
小さな子供のはしゃぎ声と、船が波を
砕く音だけが響きわたる。
時々当たる波の水しぶきが冷たくて
気持ちいい。
俺は新浪、改。
東京のとある大学の政治学部2年生だ。
既に大学は2ヶ月間の長い夏休みに入り、
俺はこの夏休みを利用して北海道を
旅行しようと計画した。
連れはいない。一人旅だ。
フェリーで東京から苫小牧まで行き、
そこから列車で札幌に向かう。
札幌で一泊した後、十勝にある
旅館に泊まる。
なにもない静かな旅館でなにも考えずに
のんびり過ごすのもいいかと思った。
都会の空気よりも田舎のきれいな
空気を吸いたいと願うのは全人類共通だろう。
俺には恋人も家族もいない。
俺にはふたりの兄がいる。
どちらも優秀で、帝国大学に現役合格した。
それに比べて俺はなにをやっても中途半端で、
偏差値も兄たちには遠く及ばなかった。
親は俺を自分の子供じゃないように
扱い、俺は家族と縁を切った。
友達は少なくはない。
女の子の友達も多い。
ただ、よくも悪くも"友達"で、
それ以上の関係にはなれない。
俺にあるのはなんの役にもたたない
軍事知識だけ。
他に特技はなにもない。
船が切り裂いた波が
白い泡となって音をたてている。
いっそのことこの甲板から飛び込んでやろうかとも
思ったが、できなかった。
勇気がないのか、まだ本心では死にたくないのか、
それはわからなかった…。
「・・・・・てるぞ!」
「早く◯◯◯持ってこい!!」
出港から2日目の朝、
俺は廊下からのさわぎ声で目を覚ました。
朝からうるさいのは勘弁してもらいたい。
せっかくの夏休みなのに。
と、ここで俺はあることに気がついた。
サイレンが最大音量で鳴り響いていることに。
「なんだ?なんかあったのか?」
『お客様、船長の松野です。
本船は二階、車両デッキより出火しました。
係員の指示に従って落ち着いて避難してください。
繰り返します…』
出火…?火災…?
俺は慌てて廊下に飛び出した。
白い煙が充満し、なんとも焦げ臭い、
鼻をつく臭いがした。
俺はライフジャケットを急いで着用し、
甲板に躍り出た。
乗客でごった返す甲板。
子供の鳴き声があちこちから耳に届く。
幸いタイタニック号のように
救命ボートが足りないなんてことはなく、
係員の適切な誘導もあって、
避難は無事完了した。
ただ、ひとつ問題だったのは、
天候が悪化し、波が高くなってきたことだ。
救命ボートは波に煽られ激しく揺れる。
俺たちの乗ってきたフェリーは
中央部から白い煙を吹き出している。
消火作業は順調なのだろうか?
その時だった。
強烈な横波がボートを襲い、
ボートは転覆。
俺たちは海に投げ出された。
係員が乗客の男性数人と協力して
ボートを起こそうとするがうまくいかない。
他のボートも波が高くて近づけない。
乗客たちはなんとか転覆したボートに
しがみついている。
「ママー!!ママー!!」
突如、俺の後ろから泣き声がした。
まだ5〜6才くらいの小さな男の子が
波に飲まれ、苦しそうにもがいている。
ライフジャケットは着ていても、
波に飲まれたら息ができない。
助けられるのは俺しかいなかった。
俺はその子のほうに猛然とクロールした。
全然タイムは伸びなかったが、これでも
中学の3年間、水泳をやっていた。
泳ぎには自信がある。
なんとかその子のところまで
たどり着き、「おーい!」と
周囲に助けを求めた。
一番近くにいたボートが
ロープを投げてくれたので、俺はそれを
その子の体に巻き付け、
「引き上げてくれ!」と叫んだ。
その子は無事、ボートに乗り移った。
だが、俺の体力はもう限界だった。
鍛えてなかったツケがまわってきたようだ。
波に飲まれ、どんどん沖に流されていく。
体の力が抜け、海に引きずりこまれる。
俺の意識はそこでなくなった…