前編
私のお父さんは魔王だった。
お父さんが何をしたのか、何をしようしていたのか、詳しいことは私にはわからない。
ただ父娘二人きり、ひっそりと森の奥で仲良く暮らしていただけ。
そこへ、勇者がある日突然現れたのだ。
勇者はお父さんを一刀の元に切り捨てた。
力のない私は、それをただ黙って見つめていることしかできなかった。
今でも、思い出すと胸の奥がぎゅっと苦しくなって、息ができなくなる。私の大好きなお父さんを、勇者は……。
勇者はお父さんの命を絶った後、陰で震える私を見つけると、血塗れた剣を片手にしたまま、歩み寄ってきた。
(殺される……!)
そう思ったけれど、恐怖に縛られて、一歩も足が動かなかった。
勇者は私の顎に手を当てて無理やり上を向かせると、まじまじと顔を見つめて言ったのだ。
「殺すには、惜しいな」
その顔には、ぞっとするような笑みを浮かべていた。
「俺様の奴隷にしてやろう」
そうして私は勇者とともに街まで連れていかれた。
街へ着いて驚いた。
恐ろしい殺戮者である彼を、街の人間たちは勇者だ英雄だと褒めたたえた。一方で、私のお父さんの名前を呼ぶときは魔王という呼称を付けて、怨嗟の念をぶつけるのだった。
何が勇者なものか、と思う。
街の人たちはきっと騙されているのだ。
今も、彼はその立場を利用して、右に左に何人もの淫らな格好をした女性を侍らせて、上等の酒に舌鼓を打っている。仮にも勇者を名乗る人間が、こんな享楽におぼれて良いはずがない。
「おい、リオルカ」
勇者が偉そうな態度で私の名前を呼んだ。誰が返事などするものか。
「おい、おいってば。何だ? 美女がいっぱいだから、妬いてるのか?」
勇者が人を馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべる。この表情が、私は憎くて憎くてたまらないのだ。
「ご主人様が酒を飲んでいるんだぞ? 酒を注ぐのは奴隷の役目だろう」
勇者はそう言って、空になった盃を私に向けた。
もちろん、勇者の命令など聞くつもりはない。
そっぽを向いていると、勇者は私の背後にまわり、後ろから私の両手首をつかんだ。
「何をする!」
「酒を注げ」
勇者が私の耳元で囁く。
私の腕を無理やり動かして、酒瓶を手に持たせようとする。
私は必死に抵抗しようとするが、力ではかなわない。手の中に酒瓶を無理矢理押し付けられ、酒を注ぐことを強要される。
屈辱だった。
悔しくて悔しくてたまらなかったが、あふれ出ようとする涙を必死でこらえた。
勇者は盃になみなみと注がれた酒をうまそうに一口に飲み干した。まわりを囲む美女たちが称賛のため息をもらす。
あの盃に、毒をいれてやりたいと思った。
――そうだ。
私の心の中に、昏い考えが沸き上がる。
――もっともっと酒におぼれればいい。酔っぱらって前後不覚に陥ったところで、お父さんと同じ目にあわせてやる……!
* * *
宴は夜遅くまで続いた。
酔いつぶれさせてやろうと積極的に酒を勧めたにも関わらず、勇者は顔色一つ変えずに飲み続けた。
ようやく酒宴が終わって私と勇者は宿へと引き払った。街の人たちが用意した豪奢な部屋だ。勇者は「逃げられたら困るからな」と言って、私の分の寝床も同じ部屋に作らせた。
私はおとなしく自分の布団に入って、眠ったように見せかけ、勇者が油断するのを待った。
勇者は寝台にもぐりこむと、やがて寝息を立て始めた。ろくに酔った素振りを見せなかったものの、ある程度は酒の影響を受けているのだろうか。
私は勇者が寝入った後も、その眠りが深くなるまで、時が過ぎるのを待った。
どれくらい時間が過ぎただろうか。
私は音をたてないように注意しながら、そっと起き上がった。
寝床に入る前から隠し持っていた短剣を右手に、勇者の寝台に近づく。
窓から差し込む月光を反射して、短剣がきらきらと銀色の光を放っていた。
勇者は背中をこちらに向けて、静かな寝息を立てていた。
緊張で手が震えた。
汗が頬を伝って流れ落ちる。
心臓の鼓動が大きくなる。その鼓動があまりにも大きく響いて、勇者を起こしてしまうのではないかと錯覚するほどだった。
――父さんの、かたきだ!
心の中で叫び声をあげながら、私は右手を大きく振り上げると、力いっぱいに短剣を勇者の背中に突き立てた。
……だがそれは、幻影だった。
刃先が勇者の背に届くと思ったその瞬間、眠っていたはずの勇者が急に上半身を起こした。短剣はむなしく空を切り、そのままの勢いで、寸前まで勇者が寝ていた寝台に突き刺さった。
しまった、と思った瞬間にはもう、私の右手は勇者に捕らえられていた。
「離せ!」
振りほどこうとするが、それは無駄な努力だった。私が全身全霊の力を込めても勇者の束縛を抜け出すことはできない。自由な方の左手で勇者に殴りかかったが、その手もあっさりと捕らえられ、その勢いのままに寝台の上に引き倒されてしまった。
「リオルカ、お前、自分の立場がわかっていないようだな?」
逃げられないように私の上にのしかかった勇者が、寝台から短剣を引き抜き、それを手でもてあそびながら言う。
月の青白い光に照らされた勇者の表情は、いつもと変わらない笑みを浮かべていた。
「おいたをした子には、お仕置きをしないとね」
勇者が短剣の切っ先を、私の喉元に突き付けた。チクリと針で刺したようなわずかな痛みが走った。
「私を、殺すのか」
毅然と言葉を返したつもりだったのに、声が震えた。
「そりゃあ、まあ。人に剣を向けておいて、自分が向けられるのは嫌だっていうのは、ちょっと自分勝手すぎるとは思わないか?」
勇者がにっこりと微笑む。
吐き気がした。
なぜ、どうして。こんな男に、父との幸せな生活を壊され、屈辱を味わわされなければならないのか。
この男に、すべてを壊された。そして今、私の命さえも奪い取られようとしているのだ。
悔しさのあまりこぼれようとする涙を押さえつけるため、ぎゅっと目を閉じた。
空気が動いて、勇者が手を動かしたことがわかった。ざくり、と耳元で音がする。
そして、不意に体の上から勇者の重みが消えた。
いぶかしんで目を開けると、寝台から立ち上がった勇者が、にやにやとこちらを眺めていた。
上半身を起こして、寝台に手をつくと、何かさらさらとしたものが指先に触れた。
それはよく見れば私の髪の毛だった。
あわてて後ろ髪を触って確認してみると、腰まであった私の長い髪が、肩につかないほど短くなっているのが分かった。
「なかなか似合うじゃないか」
勇者がくつくつと笑う。
「次に同じことをしたら髪の毛じゃすまないことは、わかるよな?」
笑顔とは対照的に、その瞳には冷酷な光が宿っていた。