君へ
ふと、秋の香りがした。
見渡すと、背後に金木犀。
この季節になると、君のことを思い出す。
桜吹雪の春に出会い、咽せ返るような夏を過ごして、肌寒さに、カーディガンの柔らかさを感じる、ちょうど今みたいな季節に、永遠にさよならした、君。
ねぇ、君。
私は、少しずつ、君との日々を忘れ、君の言葉を忘れ、君の温度を忘れていく。
君というものは、だんだん概念へと変わっていき、それは私の青春と溶け合い混ざり合い、記憶に張り付いた全体的で普遍的な何かへと変わる。
春先の、まだ夜明け前はとても寒かった日に、マンションの踊り場で、家から持ち出した毛布に包まったね。
あの時、頼りは毛布と、そこに含まれる君のぬくもりだけだった。
蒸しかえるような、都会の夏、悪天候で海に行けなかった私たちは、突然の豪雨に襲われて、浜辺でさすはずだったパラソルを開いて、そして大笑いした。
やがて秋がきて、そして私は唐突に、君を、突き放し、遠く離れた。
手を繋いだ時に、親指を手の平側に入れる私の癖を、君は随分と嫌がっていたね。
それでも決して繋ぐことはやめなかった君。
そんな手を、私は突然に離した。
君のぬくもりが、君の手が、私の中の私の時間を、場所を、どんどん奪っていくようで怖かった。
なりたかった自分から、どんどんかけ離れているようで、怖かった。
君といると、どんどん自分がなくなるようで、失われるようで怖かった。
私は何もかもをさらけ出し、その分君の秘密は大きくなる一方で。
きっと、好きだという気持ちは同じだったと思う。
だけど、その好きだという気持ちの示し方が、あまりにも違いすぎた。
そんな軋轢の中、失われる自分と見失う君とが怖くて、
とてもとても好きだったけど、それはやがて憎しみに変わった。
そして私は君の誕生日に、さよならを言った。
好きで好きで好きで、だけど憎くて。
誕生日のたびに私を思い出せばいいと、そんな相反する気持ちの中で。
あの時聞いた、君の嫌だという言葉と、そこにあった重さや湿度を、今でも覚えている。
あれからもう何度も何度も春が来て夏が行き、秋と冬が巡った。
今でも私は、季節が巡るたびに君を想う。
そして、今の私なら、あの時の怖さに負けずにいられるだろうかと考える。
もしも君が、もう一度この手を取ったなら、
何もかも投げ出して、今度こそ君とどこまでも行けるだろうかと考える。
だけど、それはきっと、夢。
記憶は、遠くにあるから美しいのだろう。
そして君は、決してそんな風に誰かの人生を無責任に攫ったりはしない。
ねえ、君。
その匂いだけは、驚くほど鮮明に、私の本能が覚えている。
たくさんのキスと、初めての夜。
似たような経験をする度に、私の鼻腔に蘇る匂いがある。
それは、君の匂いだ。
私は君の誕生日プレゼントに傷を贈り、君はその匂いを残した。
今年もまた、君の誕生日がやってくる。
鼻をくすぐる秋の香りと共に、やけにしっかりとした輪郭で蘇る君の匂い。
君もどこかで、あの日のことを思うことがあるだろうか。
あの、誕生日のことを。
そして君も、私の匂いを覚えているのだろうか。
夢だとしても、もう一度、もう一度。
君に逢いたい。