入院
未幸のもとに起こる異変を描いています。違和感があったら教えていただければ幸いです。
翌朝、いつものように心地よく目覚めた未幸は、これまたいつものように伸びをする。
だが、彼女の口から漏れたのは、開放的なため息ではなく、四肢を切り落とされたかのような激しい悲鳴だった。
二階での異常を察知した未幸の母親が、すさまじい勢いで階段を駆け上ってくる。
「未幸、どうしたの!」
扉を開けて室内に飛び込んできた未幸の母は、おもわず目を見開き、凍りつく。
「わ……わからない。伸びをしようとしたら、いきなり体中が痛くなって……」
突如彼女を襲った激痛には、未幸自身まったく心当たりがなかった。
いつものとおり眠って、いつものとおり目覚めた。いつものとおり伸びをして、いつものとおり起きるつもりだった。
運動部には所属していない未幸だったが、吹奏楽部の方針で、毎朝グラウンドを走っていた。大きな金管楽器を使うには肺活量がいる。また、演奏時間中、その大きな楽器を持ち続けるのには体力がいる。そのために、体を鍛えておかねばならなかったからだ。
そんな未幸が、運動不足が原因のこむら返りになるとは到底思えなかった。
ゆっくりベッドから起きようとして、再び襲う激痛に、思わず顔をしかめる。
「何! そのひどい顔は?」
「……?」
未幸は、比較的痛くない左手で、母から手鏡を受け取ると、顔を覗き込み、思わず息を呑む。
鏡に映った未幸の顔は、今までのどんな顔よりもひどかった。
右の頬と左の瞼の周りには大きな青痣ができている。口元から一筋の血が流れ出している。まだ乾いていない所を見ると、古い傷ではなさそうだ。
「な……なにこれ?」
そういえば、顔にある傷は全て、朝起きたときに妙なツッパリや痛みを覚えた箇所だ。ということは、体中の痛む場所もこうなっているのだろうか?
未幸は、体が痛まない程度にゆっくりと起き上がると、ベッドの置いてあるのと逆側の壁にかけられた全身鏡に自分の体を映してみる。
パジャマには、かすかに血が滲んでいる箇所もある。少し恐怖を覚えたが、彼女は、ゆっくりとパジャマのボタンを外していく。
母が思わず息を飲む。
未幸の白い肌には、擦り傷はもちろんのこと、何かでえぐったような跡が数箇所あり、そこからは未だ血が滲み出している。体中に、まるで水玉模様が浮かび上がったように、青痣が出来上がっている。
未幸は、どこか遠くで悲鳴を聞いた気がした。
次に未幸が目を覚ました時、彼女は見慣れぬ部屋のベッドに寝かされていた。
ベッドも、布団も、周りを囲うカーテンも、天井も全て真っ白。
唯一、彼女の横で不安そうに覗き込む母親の存在だけが、ここで色を持っている。
体を起こそうとして、未幸は母親に制される。しかし、制されるまでもなく、彼女は自分では起きることはできない。左足はギブスで固定され、吊るされている。痛みが激しかった右腕も、左足同様ギブスで固定されている。右の頬と左目に何かがあてがわれているのは、以前鏡で見て腫れていた部分に何らかの処置を施してあるのだろうか。
「ここは……病院?」
「そうよ。駅前の救急病院。あの後、あなたは気を失っちゃったのよ。で、私も動転していて、救急車を慌てて呼んだの。一体何があったの?」
未幸は、自分が入院していることを確認するかのように、ゆっくりと周囲を見回す。
未だに信じられない。朝起きた途端、入院だとは。しかも、病気ならまだわかるが、怪我とは……。
未幸は、記憶の糸を手繰り寄せるように、ゆっくりと口を開く。
「わからないの。いつものように起きようとしたら、体がすごく痛くて……」
未幸の母は何かいいたそうだったが、むっと口をつぐみ、そのままもってきた手提げからりんごを出し、皮を剥き始める。
寝違えたとか、ベッドから落ちたとか、そういったレベルの怪我ではない。階段から落ちてもここまでの負傷はしないだろう。どちらかと言えば、車に跳ねられたという感じの怪我だ。尋常ではない。
未幸も、母が不穏な何かを考えていることは感じている。だが、彼女は何もしていない。普通にベッドに入り、眠りについた。そして、翌朝普通に起きようとしただけなのだ。
そこで、ふと未幸は嫌なことを思い出す。
心当たりはある。
彼女はたった一人で、凶器を持っている何人ものチンピラを相手に喧嘩をした。
鉄パイプで腕を殴られたり、スパナで背中を殴られたりもした。だが、全員を倒して、彼女は傷だらけで家に帰ってきた。
なぜ喧嘩をしたのかはわからない。ただ、気づくと殴り合いをしていた。
やらなければやられる。そう思って全員をぶちのめした。
そこで、彼女は目を覚ました。
十七歳の女子高生が見る夢としては不適当なのだろうが、最近、ずっとわけのわからぬ夢を見ていた彼女は、特に気にしていなかった。何かのときに読んだ雑誌に、思春期の少女はわけのわからぬ夢を見ることがある、と書いてあったからだ。
だが、未幸の体の傷は、如実に夢の影響を物語っている。彼女の傷は、ほとんどのものが、夢の中で打たれ、殴られた場所と一致するのだ。
夢が未幸に対し、何かをしてきたのだろうか。
夢で見た結果が現実の世界に影響を及ぼしてくるとなると、知らん振りもしていられなくなる。もし、夢の世界で何かがあれば、それがそのまま現実の世界の自分に跳ね返ってくるということだからだ。
人によっては、これはチャンスだと思う人間もいるだろう。
もし仮に、宝くじが当たった夢でも見れば、現実に数億円の大金を手にすることができる。だが、逆に夢の中で人を殺せば、目が覚めたときには殺人者になっていると言うことだ。
与えられたこの状況をうまく扱うためには、夢をコントロールすることだ。だが、夢を調節することは難しい。自分の望んだ夢を見ることも難しいのに、夢の中で自分の行動を律すると言うことは、とてつもなく困難なことだ。
しかし、まだ高校生の未幸に、そんなことを考える余裕はない。ただただ、今自分の身に起こっている事態を理解し、納得しようとすることに必死だった。
未幸にその知恵を授けたのは、放課後、未幸の見舞いにきた朋子と洋子だった。
当然、二人の親友は、未幸の話を最初は半信半疑で聞いていた。だが、もし、未幸が夢で見たことが現実に起こるのであれば、夢で義和との仲を取り持ってほしい、と冗談ぽく朋子が口にしたことが事の発端だった。
親友二人と共にした時間は、彼女の中の不安を取り去るのに十分だった。
夢と怪我との関係は良くわからない。しかし、もし本当に夢が現実の世界に影響を与えるのなら、それはすごいことだし、考え方を変えれば、夢さえコントロールできれば、現実の世を自由にできるということだ。そう考えてみれば、気持ちが晴れないわけはない。むしろ、不思議な昂揚感に包まれるのだった。
二人が帰ったのち、病室に一人残された未幸は、何をするわけでもなく、朋子の言葉に思いを馳せた。
もし、朋子や洋子の言うとおり、夢で自分のほしいものを手に入れると、実際に手に入っているとするなら、自分は一体何がほしいだろうか。
今まで、ほしいものなど考えたこともなかった。
今でこそ母親の実家に住まわせてもらっているが、それはつい最近のことだ。高校に入るにあたって、学費がかさむため、未幸の祖母が母に、家に戻ってきてはどうか、と提案したのがきっかけだ。
それまでは、安いアパートに二人で暮らしていて、二人で生活していくのがやっとだった。未幸の母親は決して未幸に節約を命じていたわけではなかったが、節約をしている母を見て育ったため、彼女は、自分が気に入っても、それが欲しいと言う風に思考を進めることはなかった。
(欲しいってことは、まずは自分がよいと思うものじゃなければ駄目かしら)
「世界征服! 世界のいい男を私に跪かせてみせるわ!」
一時間ほど前、握り拳を振り上げてそう叫び、即座に朋子に小突かれた洋子の様子がまざまざと思い出され、未幸はプッと吹き出す。
先ほど大笑いしたときの雰囲気を思い出しながら、未幸は改めて考える。
(だったら、この前、かわいいと思った洋服はどうかしら……?)
未幸は、自分の欲しい服のイメージし、それを買う様を想像して楽しむことにした。
入院して一週間。まだところどころ包帯は取れぬものの、顔などの痣は消え、松葉杖で歩くことも可能になったので、未幸は退院し通院することになった。
家に帰ってきた未幸は、久しぶりに自分の部屋を堪能する。
自分がいなくなった一週間前から、何も変わっていない。薄いピンクを基調にした部屋は、彼女の帰りをずっと待っていた。変わったのは彼女の身なりだけだ。
未幸は、入ってすぐの左側にあるベッドにゆっくりと腰をおろし、部屋の中を見回す。
全体的にピンクと白でコーディネートされた彼女の部屋の南側には、ベランダへと繋がるガラス戸がある。そのガラス戸の片方を塞ぐようにして、未幸の学習机が鎮座している。未幸は、その学習机の上の見慣れぬノートの山が目に入る。
未幸は、松葉杖を引き寄せると、再び立ち上がり、ゆっくりとノートの山に近づく。ノートの表紙には、現代文、数学といった教科のタイトルが記してあり、その下に小さく洋子か朋子の名前が記してある。
どうやら、未幸が入院している間の授業のノートを彼女たちは貸してくれたようだ。
(私が学校を休んでいる間の授業のノートなのかな……)
未幸は、一番上のノートをぱらぱらとめくり、自分が休んでいる間にどの程度授業が進んでいるのか確認する。といっても、ノートを見るだけにしておくつもりだったが。
二人のノートを見ているうちに、面白いことに気づく。
二人のノートは、共に一日の授業が進んで行くにつれて、字が歪んでくる。漢字が象形文字に姿を変え、ついにミミズがアスファルトの上でのたうっているようなモノになる。
ただ、朋子のノートのほうが、比較的文型科目において、字が『長持ち』している。そして、洋子のノートは、理系の科目、とりわけ理科の科目で『長持ち』しているのだ。
二人のテストの点は、ノート上でより『長持ち』するほうが、よかった気がする。やはり、なかなか眠くならない教科のほうが、より興味があって、点がよいのだろうという結論に至る。
二人のノートの法則を見つけ、満足げに頷く未幸。
だが、双方の数学のノートの、次ページをめくった瞬間、思わず吹き出した。
なんと、二人のノートには、両方とも大きなしみができていたのだ。しみのせいで、字も滲んで読みにくくなっている。
(ノートの進み具合はおなじ。……ということは、二人はほぼ同時に寝たのね)
しかし、そこで未幸ははたと困る。ノートを写そうにも、利き腕である右腕はまだギブスで固められている。しかし、ギブスが取れるまでずっと借りているわけにもいかない。彼女たちも勉強しなければならないだろうからだ。
未幸は、携帯を手にとると、洋子に電話をかける。
数回の呼び出し音の後、洋子が電話に出る。その瞬間、携帯電話のスピーカー部から溢れ出した雑踏の津波が、洋子の声を押し流してしまう。
音の洪水に、思わず耳から携帯電話を放し、通話時間を刻々と刻む携帯電話を見つめる。
(外出しているのかしら?)
しばらくすると、スピーカーから、洋子が、もしもし、と叫んでいるのがかすかに聞こえてくる。未幸は慌てて携帯電話を耳に当てる。
「もしもし、洋子? あ、ごめんごめん。あのさあ、ノートなんだけど、いつまでに返せばいい?」
携帯のスピーカーから聞こえる声に呼応し、自然と未幸の声も大きくなる。いつしか、未幸は、マイクに向かって叫び声を上げていた。
二人の話は、後日図書館でノートをコピーすることでまとまった。そのときに、よだれで滲んでしまったところについても注釈をつけてもらうことになった。




