ドッペルゲンガー
筆者は男子校です。女子高の様子はわかりませんが、想像。
今日も洋子と朋子は部活が中止だった。
ここ数日間の霧のような雨が、校庭にいくつも小さな水溜りを作った。その水溜りが一つになり始めたころ、季節が変わる。
春と夏の間の潤いの季節、梅雨。未幸がもっとも苦手とする時期の一つだ。
このじめっとした空気が彼女はあまり好きではなかった。好物の食パンも、一斤全部食べきらないうちにカビてしまう。家で唯一ベランダに出ることのできる彼女の部屋は、生渇きの洗濯物に占領されてしまう。
不自由なのは家だけではない。体育館での体育は、日によっては、他のクラスと共にやらなければいけない。部活も運動部は全て中止。文化部の未幸は、朋子と洋子に待ってもらっているわけにもいかない。
「未幸ちゃん、帰らないの?」
部活が終了し、帰り支度をしていると、吹奏楽部の先輩が声をかけてくれる。未幸が、梅雨時に一緒に帰る友達がいないのを知っているからだ。
だが、未幸は、
「人を待ってるんです」
と断る。
「お疲れ様。じゃあ、部屋の電気と戸締りお願いね」
吹奏楽部の部長は未幸に鍵を渡すと、ニヤッと笑って手を振りながら、分厚い音楽室の防音扉を閉める。
未幸は、扉が完全に閉まると、まるでぜんまいが切れかけた人形のように、徐々に手を振るのをやめる。大きくため息をつくと、窓際になんとなく歩いていく。
窓の外には、大きな水溜りができた校庭。その端に植えられた、青々とした葉を無数に羽織った何本もの桜が、その体を雨に濡らしている。窓を開ければ、湿った風と共に、緑の香りが音楽室に飛び込んでくるような気がする。
一緒に帰ろうと声をかけてくれるのはうれしい。けれども、他の吹奏楽部のメンバーとは帰る方向が逆だ。校門を出て左に折れ、一戸建ての住宅が並ぶケヤキの並木道を五十メートルほど進むと、バス停がある。みな、そこからバスに乗り、別の私鉄の駅に行くからだ。
以前は、バス停向かいの駄菓子屋で買ったお菓子を食べながら、バスが来るまで一緒にいたこともある。だが、バスが行ってしまった後に、一人ぽつんとそこに残された時のかすかな寂しさが、未幸は嫌だった。
今は、一週間に二、三回は付き合いで校門まで一緒に帰るが、校門際で別れるときも、寂しさを感じないわけではない。
今日は、その寂しさすらなんとなく嫌だった。
(本当に待ち合わせならいいんだけどね)
未幸は、自分が近寄ったことで曇った窓ガラスを手で擦る。
四月下旬に彼女を訪ねて校門まできた、幼さの残る少年は、未幸の予想通り、近所の男子高の新入生だった。その後、一週間に一、二度一緒に帰るようになり、五月の下旬に付き合い始めた。
だが、付き合い始めてすぐ、彼は高校のバスケ部に入った。そのバスケ部は、県下でも一位、二位を争う強豪で、インターハイ常連校だった。練習は午後八時までというのはざらで、長いときには午後十時近くにも及ぶ。
彼と話せるのは深夜の電話くらいで、会えるのは週に一回あるかないか、という状態。普段はそれでも我慢できたが、朋子や洋子もいない梅雨時に入って、未幸は皆に取り残されたような気がして仕方なかった。
部長が、数名の先輩たちと共に校門を出て、左に折れたことを確認して、彼女は音楽室の鍵を閉め、職員室に音楽室の鍵を返しに行った。
「なんだ、森田、居残り勉強か?」
教育指導の教師に呼び止められたのは、鍵を置いて職員室から出て行こうとしたときだった。
「違いますよ。部活ですよ」
彼は、白髪交じりの頭をワシャワシャと掻きながら、教師たちの机の間をすり抜けるようにして、未幸のほうに歩いてくる。
ネクタイをしていないワイシャツの上に小豆色のジャージを羽織り、アイロンをかけたことなどの一度もなさそうな黄土色のスラックスにサンダル履き、という格好は、教師と言うよりは的屋という感じだ。大酒のみなのか、ヘビースモーカーなのか、顔色は土気色をしていたが、目つきは鋭かった。
「俺の授業で、いまだに寝るのはお前だけなんだがな」
そういうと、彼は未幸に、両手を出すようにいい、差し出された両手にバターピーナッツを盛る。
「今口をあけたばかりだ。食え」
未幸は礼を言うと、それを一口で頬張る。
「相変わらず豪快な食いっぷりだな。で、話は変わるが、ちょっと聞きたいことがある。時間あるか?」
未幸は、とりあえず頷いておいて、口いっぱいに頬張っていたピーナツを飲み込んでから、改めて「大丈夫です」と返事をする。
未幸は、職員室の隣にある、進路指導室に通される。
通常の教室の半分くらいの広さの進路指導室には、過去の卒業生の情報がキングファイルに挟まれ、左右の壁の棚を占拠している。あまり使われていないせいなのだろうか、若干部屋の空気が埃くさい。
教育指導の教師は、職員室から急須と茶碗を二つ盆に乗せて持ってくる。手馴れた手つきで二つの茶碗に茶を注ぐと、パイプ椅子に座らせた未幸の前に置く。彼は、血でも吐くのではないかと思われるほど咳き込むと、机をはさんで未幸の正面に座る。
「聞きたいことがある」
「なんですか? なんか、深刻そうな話ですけれど……」
未幸はかつて、この教師の最初の授業で、いきなり眠ってしまい、出席簿の一撃を食らう第一号となってしまった。その後も、この教師の授業で居眠りをし続け、目をつけられることになった。
だが、テストの点数が良い事と、とっつきにくそうなこの教師にすら、わからないことを懸命に質問する学習意欲、そして、彼女から出されるレベルの高い質問が、いつしか二人のわだかまりを取り去っていた。
やる気はある。だが、教室ではなぜか眠くなってしまう、不思議な生徒。
人にはいろんな学習スタイルがある。そのスタイルを自覚するだけでも、高校に通う価値はあるではないか。
そんな持論を持つ彼に、いつしか未幸は気に入られたようだ。もちろん、授業中に眠るのは認めていなかったが。
用事があって職員室にきたとき、この教師と何度か話し込むことはあったが、それでも、こうやって話をすることは初めてだった。
今まで感じたことのない圧迫感の中で、未幸は思わず目を白黒させる。
しばらく未幸の表情を無言で伺っていた教師は、一瞬ふっとため息をつき、改めてパイプ椅子に座りなおした。彼の中から、殺気にも似た攻撃的な何かが消えた。
「実はな、嫌な噂を聞いたんだよ。お前が、冠木町でいろいろな悪さをしているってな」
未幸は思わず目が点になる。教師の言葉は、彼女の予想していたどんな言葉よりも彼女の意表をついていた。
「悪さ?」
「そうだ。だが、お前を見ていて確信した。お前じゃない。お前はそんなことはしない。というよりできない。できるわけがない」
教師の言葉に、思わずむっとする未幸。決して教師は未幸を馬鹿にしているわけではないのだが、それが、いかにも『お前は子供だ。子供のお前がそんなことができるわけがない』という物言いに聞こえたのだ。
「……それって、けなしているんですか?」
教師は、再び頭をワシャワシャと掻いた。そして、机を見たり、天井を見上げたりした後、改めて座り直す。
「言い方が悪かったかな。一応褒めているんだが」
教師の話はこうだった。
未幸に似ているという少女が、現在も万引きや恐喝、売春の仲介もやっているらしい。さすがに、売春と言う直接的な表現は使わず、間接的で、掴み所のない表現となったが。
彼は、その噂が気になったので、冠木町で数日間張り込んでいた。そして、確かに未幸らしき人物を見かけた。しかも、その少女は、彼に見られていることに気づいていた。
今回、未幸を呼び出すことで、未幸の反応を見たかったのだが、やはり変化がなかった。何か悪さをしている少年少女は、知っている人間に見られていることに気づくと、どこか落ち着かない様子を見せるものなのだが、未幸にはその兆候は全く見えなかった。
「確かにお前にそっくりだった。髪こそ真っ赤に染め、お前よりずっと髪が長かったがな。知らない人間が見たら、間違いなくお前だと思ったろう。だが、目が違ったよ。あの目は、世の中を嘲り、馬鹿にし、そして憎んでいる目だ。彼女の周りには、彼女を愛してくれる人がいないに違いない。そう感じさせる、氷の刃のような視線だった」
教育指導の教師は、先日の出来事を思い出し、心底怯えているように見える。
三十代後半から高校生の教育指導に当たるようになり、二十年。系列高校の筋金入りの不良たちを相手に渡り合ってきた。時には、不良たちと殴り合いを演じたことさえある。一度は腹部を刺されたことさえ。だが、刺されたときも、彼は怯えるどころか笑みを浮かべていた。
その彼が怯える。不良という、精神的に不安定な年齢ゆえの鋭さとは違う狂気を彼女から感じたと言う。
未幸は、彼が話す間、繭一つ動かさずに聞いていた。彼が話す話があまりに唐突過ぎ、また現実離れしていたため、ことの重大性とその恐ろしさがわからなかった。
ややあって、未幸はほっと胸を撫で下ろす。
「最初、すごい顔で呼び止められるから、怒られるのかと思いましたよ。最近、授業中に寝てることが多いから」
深刻そうな表情を浮かべる教育指導の教師は、一瞬我に返ったような表情を浮かべた後、にやりと笑う。
「森田ぁ……。わかってるじゃねえか。実は、それもお前さんを呼んだ理由の一つなんだよ」
しまった、という表情を浮かべたが、もう手遅れだった。
未幸は、授業中の居眠りについて、二時間以上こってりと絞られることになる。




