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自作自演  作者: かえで


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12/14

決着

未幸とミユキの使い方が苦労しました。表記方法としてもっと適切なものがあったのかも。

 漆黒の闇の中、未幸は呆然と立ち尽くしていた。

 周囲には何も見えない。何も聞こえない。聞こえるのは自分の呼吸する音と、動くときに服が擦れる音だけだ。体に伝わる感触から、身に付けているのは、おそらく高校のセーラー服だろうとは思うが、鼻先に人がいても分からないほどの暗闇では、己の着ている服すらも確認できない。

 自分のベッドで眠りに落ちたはずなのに。母親がそばにいてくれるはずなのに。

「ここはどこ?」

 未幸がそう呟いた瞬間、暗闇の中から、子供が駆けて来るような足音がどこからともなく近づいてくる。

 音は上から聞こえてくる気がする。そうかと思えば、足元から聞こえてくる気もする。すぐ耳元でしている気もするし、はるか遠くで聞こえている気もする。

 ただ、何者かが近づいてくることだけが、未幸には感じられた。

 突然、背後に気配を感じ、未幸は振り返る。

 暗闇の中で目を凝らすと、少し離れたところに、幼稚園児ほどの年頃の男の子が立っている事に気づく。周囲の様子は、相変わらず確認できなかったが、その男児のところだけは、スポットライトが当たっているかのように、はっきりと見ることができる。

 不思議と、はじめて会った気がしない。しかし、どこで会ったのか、思い出せない。

 未幸は、その男の子が迷子になっているのだと、直感的に感じた。自分も、居場所がはっきりとわからないから、男の子をどこかに連れて行くことはできないが、側に人がいれば、少しは心強いかもしれない。

 未幸は、泣いているようなしぐさで立っている男の子の側へと歩いていく。

「えーと、ボク、道に迷っちゃったかな……?」

 そういいながら、未幸は、男の子の傍らにしゃがみ、目線を男の子に合わせるようにして、頭をやさしく撫ぜた。

「ほら、男の子がいつまでも泣いてちゃ、みっともないぞ?」

 そういいながら、改めて男の子の顔を見つめる。

 男の子ではない!

 背丈こそ小さいが、顔は青年のものだった。小さな子供の体躯に青年の顔が張り付いていた。男の子は泣いていたのではなく、笑っていたのだ。

 未幸を見上げる子供のその瞳には、ひどく邪悪なものが宿っている気がし、未幸は思わず後ずさる。

 子供は、にやりと笑い、懐から小さな何かを取り出した。それは、男の子の握る掌の中にすっぽり隠れてしまい、未幸には確認できない。

「オネエチャン……ミセテアゲル……」

 未幸は、不思議と男の子の掌の中身のものを見てみたくなった。

 小さな男の子が持っているものだ。所詮は大したものではあるまい。少年が大事に持っているものといえば、虫やカエル、綺麗な石。

 そう思うのにもかかわらず、時間が経つにつれて、未幸の興味は掌の中の何かに吸い寄せられていく。もう、興味を持ったなどというレベルではない。男児の掌の中身を見なければならない。見ない自分は悪だ!

「ミユキ、危ない!」

 突然、あたりに叫び声が響き渡った。そして、次の瞬間、未幸は何かに突き飛ばされていた。

 地面に投げ出された未幸は、地面に転がる。一体何が起きたのかわからず、事態を見極めようと、もがくようにしてすばやく立ち上がる。

 そこには、未幸の側に転がる、未幸と同じ年頃の少年がいた。彼は、少年から視線を外さない。

「あなたは……コウ?」

 不思議だった。あった記憶などないはずなのに、彼の名前がすぐにわかった。いや、厳密には、かすかに覚えていた。だが、どこで会ったのか、まるで覚えていない。ただ、決して美男子とはいえない、荒れた唇に見覚えがある。

 そして、かすかな感覚が思い出された。自分は、彼の卑屈な言動が嫌い。できれば近づいてきて欲しくない。

 少年はそれに答えず、小さく鋭く叫んだ。

「姿を見せろ、サトル!」

 小さな男の子は、この世のものとは思えぬ、悪魔のような笑みを浮かべた。

「もう少しだったんだがなあ……」

 そう発する子供の表情からは、少しも残念だったという様子は伺えない。むしろ、コウの体当たりを食らって倒れる未幸をみて、楽しんでいるようでさえある。

 男の子の方をみた未幸は、愕然とする。

 なんと、もみじの葉のようにちいさい掌からは、まるで太刀のような鋭く冷たい光を帯びた刃が伸びていたからだ。そして、その先端は、先ほどまで未幸が立っていた場所を正確に突いていた。もし、未幸が、男児の言葉どおり、彼の掌を覗きこんでいたら、今ごろは刃が眉間を貫いていたはずだ。

「今、ミユキは弱っている。みろ、そのざまを。君の体当たりですら、ミユキは力なく転がってしまう。君より強い僕が、ミユキを攻撃したらどうなる? 確実にミユキは消えるだろうな」

 男児はそういうと、一瞬にして闇に溶け込んでいった。そして、未幸とコウの視線の先の闇の中から、スーツを着込んだすらりとした青年が、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 眼鏡をかけ、髪を後ろに撫で付けた様は、エリートビジネスマンを髣髴とさせる。だが、その眼鏡の向こうに覗く双眸は、先ほどの男児同様、大きな悪意に満ちていた。

(な……何が起こっているの、一体? 小さい子の掌から日本刀が出てきたり、小さい子が突然いなくなったと思ったら、突然男の人がでてきたり)

 未幸は、先ほどコウに突き飛ばされたままの状態で、二人の男が向き合う様をじっとみていた。

「コウ……僕と手を組まないか? 今ならミユキから『未幸』を奪えるぞ。そして、二人で共有しようじゃないか」

「な……なんだと?」

 コウの顔にあせりの色が見える。

「僕は、僕の欲望を満たす。君は君の欲望を満たせばいいではないか」

 未幸は、思わずコウの表情を伺った。一体、自分を奪うとはどういうことなのだろう?

 サトルは、欲望にたぎる笑みを浮かべながら、ゆっくりと未幸に近づいていく。

 未幸の胸倉を掴むと、無理やり引きずりおこした。平手を立て続けに二、三発食らわせ、投げ捨てた。

 未幸は、自分がなぜ殴られるのかわからず、抵抗できずにいた。引き上げる力も、とんでもなく強いというほどではない。しかし、なぜかその力に抗うことができなかった。左右の頬が、今まで殴られたどの経験よりも痛んだ。

「よせっ!」

 コウが、未幸とサトルの間に割って入る。だが、未幸を助けようと意気込んで割って入ったはずのコウの表情は蒼白だった。コウは明らかにサトルを恐れているようだった。

 確かに体格はサトルのほうがよい。というより、この少年は、未幸と力比べをしても勝てそうもないくらいに、貧弱な体つきをしていた。背も未幸より、十センチ以上小さい。

 とてもではないが、コウがサトルと取っ組み合いをしても、勝負になるとは思えなかった。

「なあ、コウよ、いい子ぶりっ子はやめようや。僕は知っているんだよ? 『未幸』を誰も使っていないとき、君は泥棒猫のように『未幸』を操る。そして、鏡の前で君は、未幸の体を弄ぶんだ。なあ?」

 サトルは、怯えるコウに向かって、嫌味たっぷりに同意を求めた。口元が緩み、涎がたれそうなくらいにサトルの唇の周りは生々しく光っている。

 いつのまにか、コウは俯いていた。なぜか小刻みに体を震わせている。

「あるときは、成人雑誌のピンナップのような格好をさせてみたり。またあるときは、未幸自身を鏡に映し、手で触れてみたり。

 舐めてみたかったんだろう? 未幸自身を。どこぞで見た映像のように。味を知りたかったんだよな? 誰も知らない、未幸の味を。

 でも、残念なことに、未幸の体はそれほどやわらかくなかったんだよなぁ?

 何で小さい頃に新体操か、バレエをやらせていなかったんだろう、と怒ったこともあったっけなぁ。えぇ? コウよ」

 そういうと、サトルは、下卑た笑い声をあたりに響かせる。歯の間から漏れる空気の音が、それを更に耳障りなものにする。

 未幸は、サトルの言葉の意味がよくわからなかったが、ひどく辱められた気がして、思わず顔を伏せた。

 コウも、顔を赤くしたり青くしたりしながら、額に脂汗を浮かべている。恥ずかしいのか、口惜しいのか……?

「僕等は見ていないようで見ているんだよ。ずいぶん楽しそうだったよねぇ? ちょっと僕には理解できない趣味だったけどね」

 サトルは、更に邪悪な笑みを浮かべた。

「君にとって不幸なのは、未幸を使える優先順位が非常に低かったことだな。

 君の上位に、僕がいて、ノリオがいた。そして、更にその上位にミユキがいた。だから、未幸を楽しめる頻度は非常に低かったねぇ。

 でも、ノリオが消え、ミユキも消える。そうなれば、僕と半分ずつ楽しめるわけだ。僕の使用さえ邪魔しなければ、いつ何時でも使ってくれてかまわない。どうだ、悪い話じゃないだろう?

 僕が未幸を使ったところで、未幸を傷物にするわけじゃないんだ。傷物、という意味ではよほど君のほうがひどいことをしているよねぇ、コウ?」

 未幸はたまらず口を挟む。自分の知らないところで、自分がよくわからないことをされている。恥ずかしいと同時に怒りが込み上げてきたのだ。

 自分はあなたたちを知らない。なのに、なぜあなたたちは自分のことを知っているのか? あなたたちは自分をどうするつもりなのか? と。

 しばらくは、男たちは口を開かなかった。

 スーツを着込んだ男は、さも珍しいものを見るかのように、未幸を眺める。少年は、顔を伏せたまま、未幸のほうはおろか、サトルと呼ばれた、一見すると身持ちのよい、しかし変質者の気さえありそうな男のほうも見ない。

「教えて! あなたたちは一体何者なの?」

 侮蔑の視線を投げかけるサトルは、無言のままだ。答える必要はない、とでもいうのだろうか。

 ややあって、顔を伏せたままの少年が、ゆっくりと振り返る。

「僕等は……、ミユキ、君の体の中に住まう別の人格なんだ」

 未幸は最初、何を言われているのか理解できなかった。

「それ……、どういうこと? 意味がわからないよ。私は、今ここにいる。そして、あなたたちは私の目の前にいる。そのあなたたちが私の中にいる別の人だというの?」

 コウは、相変わらず未幸と目を合わせない。

「主人格ともあろう者が、そんなこともわからないとはね。がっかりだよ。

 消え行く者に、説明の必要などはないとは思うが、そのことが引っかかって、綺麗に消えてくれなかったりすると、ゆくゆくの未幸のコントロールに差し支えがでそうだ。ここは一つ、納得してもらった上で、綺麗に消えてもらおうかな」

 サトルは、スーツの内側から取り出したタバコの箱を、トントンと叩き、飛び出してきたタバコを咥える。

「ちなみに、僕が操っているときの未幸は、かなりのヘビースモーカーだよ。健康に悪いとは言うが、ニコチンの味は忘れられないのでね」

 未幸は思い当たるところがあった。

 なぜか、部屋の中が妙にタバコくさかったことがある。最初は、町を歩いていたときに、タバコの煙にいぶされた制服がにおっているのだと思っていたので、それ以上深く考えることはしなかったが。

「簡単に説明させてもらおうか。

 君の体には、五つの人格がいた。

 一人目は君自身、ミユキだ。二人目が、僕。三人目が、そこにいるコウ。四人目は、はったりの策士、ミドリ。そして、五人目が、愚か者の強者、ノリオ。

 ノリオは、なぜか勝手に消滅したようだ。そして、ミドリは僕が消した」

(まさか、私の中にたくさんの人がいたなんて)

 サトルの言葉に驚く未幸。しかし、考えてみれば思い当たる節がある。

 自分が寝ている間に、自分の記憶にない事態が幾つも起きている。起きた直後に重傷を負っていた件は言うに及ばず、起きたとき、買った覚えのないものが部屋に散乱していたこともある。記憶にない金が財布に入っていたこともある。

 これらのことが、彼女の知らぬ間に、別の人格によってなされていたことであれば、説明もつく。

 だが、別の人格と名乗る人間が二人も、自分の目の前にいるのは理解できない。人格というのは見えないものではないのか?

 サトルは、そんな未幸の疑問を見透かしたかのように、言葉を続けた。

「自分の中にいるはずの人格が、目の前にいることが不思議で仕方ないといった感じだな。主人格?」

 サトルは、すぐにでも手に入れられる未幸の体を、あえて手に入れないことで、手に入れる直前の快楽を味わっているかのようだった。まるで、手を伸ばせば手に入れられる数億円のダイヤを、あえて手にすることをせずに、手に入れるまでの道のりを思い返し、陶酔している怪盗のように。じらしの快楽。

「教えて差し上げましょう。かわいいかわいいお人形さん」

 サトルは、咥えていたタバコを地面に落とすと、それを踏み締めながら、懐から出したタバコを咥え、再び火をつけた。

「まず、ここは、人格同士が互いの存在を確認できる場所。場所といっても、具体的に人格の居場所があるわけではない。あくまで観念的な話だ。

 名前はない。というよりつける必要がない。

 『ここ』が、体のどこにある器官か、と問われると困るね。現実世界にわれわれがいる場所があるわけではないからね。しいて言うなら、脳の人格をつかさどる部分を複数の人格で共有している、というべきなんだろうか。

 通常の人間は、人格が一つだけだ。ここで他の人間が出会うことはない。従って、この場所を空間として認識することはないようだ。

 しかし、我々のように、一つの体を何人もの人間で共有している場合、それぞれが独自の記憶を持っているため、互いを別の個人として認識している。いろいろ研究した限りでは、ここまで個々の人格同士の関係が劣悪なケースも珍しいようだが。

 そして、人格同士が接触するに当たって、空間を形成したほうが、互いを理解しやすいということで、擬似空間を形成しているようだ。体の記憶、というべきかもしれんね」

 サトルの口からは、まったく未幸が予期しなかった内容が次々と語られる。だが、不思議とその内容を疑う気にはならなかった。思い返してみると、サトルの言うこともあながち間違っていないと感じたからだ。

 実際、サトルの言う『ここ』にも、何度かきた記憶がある。サトルに会うのは初めてだったが、コウには何度か会ったことがある。そういえば、ノリオやミドリという人間にも会った気がする。容姿の記憶はおぼろげではあるが。

 サトルは、次々と驚きの話を展開していく。それは、コウですら知らないことばかりだった。

 どうも、サトルは未幸の奥深くに潜み、自分と言うものの存在や、人格というものの研究を独自に行なっていたようだ。その口調から、自分の研究結果に対する自信が感じられる。

「人格には力がある。

 その力というのは、体を実際に動かす際に、体を制御する力だ。その力が強ければ強いほど、体は正確に動く。

 例えば、手先が不器用な人間というのは、実は人格が体を動かす能力がそれほど高くないということだな。また、寝起きが悪い人間というのも、人格が肉体をコントロールし始めてから、肉体が操縦に従うまでの時間がかかるという意味では、少々人格の力が弱いといえるかもしれん。

 ま、それそのものがそれほど悪いということではないがね。

 そして、未幸のように、人格を幾つも持つ者の場合、体を操れるのは、人格の中でも力が強いほうだ。先ほどの五人の中でいえば、人格の力の最も強いのは、主人格であるミユキ、君だ。そして、ノリオ、僕、コウ、ミドリの順番となる。

 そして、人格の力の差が圧倒的であれば、人格を消すことも可能だ。僕がミドリを消したようにね。

 ミドリは、もともと未幸を操る力はなかった。そのため、人格の力だけは強かったノリオを使って、『未幸』を操っていた。だが、それが僕にとって都合が悪いために、ミドリには消えてもらった。ノリオがミドリの側を離れた隙にね。離れた、といっても、あの後ノリオは戻ってきていないようだがね」

 未幸は、与えられたたくさんの情報を、頭を振ることで整理するかのように、何度も頷きながら、サトルの話を聞いていた。

 突拍子もないことだとは思ったが、彼女の持つかすかな記憶と、サトルの話は、でたらめにしては、一致することが多すぎる。

 それに、先ほどのサトルの変身。幼い男の子から青年への変化は、実際の世界ではありえない。

 昔見た探偵モノの探偵の変装は、すごいとは思ったが、道具さえあれば、できない変装ではないと感じたものだった。しかし、サトルの変身は、物理上不可能だ。成人した男性が、どんなことをしても、その母の胎内に戻ることができないのと同じだ。

 それが可能である以上、今、未幸がいる場所は、様々な常識や物理科学が適用できない場所だということになる。

「それはわかった。でも、なぜ、『未幸』にあんなひどいことをさせるんだ!」

「ひどいこと?」

 サトルは、コウの言葉に、いかにも心外だ、という表情を浮かべた。

「ひどいことではないだろう。全ては計画の一環だ」

「計画? 未幸に万引きをさせたり、強盗をさせたり、喧嘩をさせたりすることが、か?」

 コウの言葉を聞いた未幸は、思わず目を閉じて顔を背けた。コウの言葉が、彼女の嫌な夢の記憶を鮮やかに蘇らせたからだ。

 だが、当のサトルは、まったく意に介する様子もない。ミユキが嘆こうが、苦しもうが、彼にとってはどうでもよいようだ。かつての彼にとっては、ミユキは、打ち破ることのできぬ敵でしかなかった。だが、消し去るのが造作もない存在になってしまったミユキは、彼にとって、うじ虫以下の存在でしかない。

「いや、ちがうぞ。僕は万引きなどさせていない。万引きをさせていたのは、ミドリだ。そして、その手先となって働いていたのがノリオ。あの男もおろかだ。あんな弱者のミドリの言うなりになってな。だが、僕はそうならない。絶対に!」

 サトルは、ミドリを目の敵にしているようだった。強大だった『ミユキ』より、自分の生き方を足蹴にしたようなミドリのほうが、彼の中では許せなかったようだ。例えミドリのほうが消し去ることが造作もない相手だとしても。

「……わたし、万引きをした記憶はない……。もし、あなたの言うとおり、私の夢で見た内容が、あなたに操られて、実際にしたことなら、その、ミドリという人が私を操ったときの様子を、私は夢に見てもおかしくないはずなのに、私は夢に見たことがないわ。それはどういうこと?」

 サトルは一瞬鬼のような形相を浮かべ、未幸の襟首を掴むと、再び立ち上がらせる。そして、二発、三発と平手打ちを食らわせた。その後、未幸の腹部に膝蹴りを数発見舞い、手を離した。

 未幸は、痛みに顔をゆがめながらその場に崩れ落ちる。

「お前は余計なことを言わなくていい、ミユキ! 今すぐ消し去ってもいいんだぞ。お前は黙って僕の話を聞いていればいいんだ!」

 サトルのこの行動は、未幸にとってもコウにとっても不思議だった。

 今の未幸の言葉に、取り立ててサトルを怒らせる内容はなかったはず。にもかかわらず、烈火のごとく、彼は怒った。その理由が、二人にはわからなかったのだ。

 未幸もコウも、今後も知ることはないが、実は、サトルが操ったときに未幸の記憶に夢として残るのは、サトルの未幸を操る能力が、ノリオに比べてかなり劣っていることの証なのだ。もし、能力が高ければ、未幸の記憶に何の影響も与えないまま、体を操ることができただろう。

 サトルは、再び笑った。この笑みは、邪悪というよりは無邪気なそれに近い。

「僕が、ミユキに夢を見せた理由。それは、ミユキを精神的に弱らせるため。

 精神的に弱るということは、すなわち人格の力が落ちることを意味する。うつ病の人間が、痛みなどの外的な刺激に対してあまり反応を示さなくなるのは、人格が体をコントロールする力が落ちて、体からの情報が伝わってこなくなるからだ。

 僕はそれを狙った。

 これは、人格の力を弱め、本来のミユキよりもずっと人格の力が弱い僕が、ミユキに勝つための作戦だった。そして……!」

 サトルは、未幸の長い髪を掴み、無理やり引きずり起こす。開いている左手で、未幸の顎を掴む。

「これが、今のミユキのザマだ」

 顎を掴んだまま、未幸を突き飛ばす。

 未幸は数メートル飛ばされ、地面に倒れこんだ。

「サトル、何をするんだ!」

 コウは慌てて未幸を抱き起こそうとする。

 だが、未幸はそれを払いのけるように拒否する。自分の体には絶対に触らせない。そんな気迫が、弱った彼女からも十分に感じられる。

 サトルが告げた、未幸に対するコウの数々のいたずらが、コウに対する未幸の心象を非常に悪くしていた。

「おやおや、コウ。ミユキに嫌われてしまったねえ……?」

 サトルは、なきそうな表情のコウを見て、大笑いをした。

 口元から流れ落ちる一筋の血を、拳で握った未幸は、弱弱しく立ち上がった。

(そういえば、彼らとは夢で会った事があるわ。コウが、ミドリとノリオにいじめられていた。で、私が止めに入ったんだっけ。

 彼らみたいな人たちなら、私を排除してでも、コウを攻撃し続けたはず。あの時、あの状況でなぜ、ミドリとノリオが手を引いたのか、不思議だった。

 でも、今、サトルの説明を聞いてわかった。あの人たちは、私を排除しなかったんじゃなくて、できなかったのね……)

 サトルは突然笑うのを止める。

「僕は、これから『未幸』を使って、のし上がっていく。

 まずは、一流大学に入り、官僚となる。そこで、日本の闇を牛耳る組織とネットワークを確立し、裏の世界に入る。後は、世界中の闇の組織と取引を始める。兵器を売買してもいい。女子供を売買してもいい。臓器でもいい。麻薬でもいい。

 そこで、僕は、僕の存在を世界に証明するんだ」

 未幸もコウも、サトルの言葉に唖然とする。

 何をいっているんだろう? 世界に自分の存在を証明する? そんなこと、何のために?

 だが、その疑問を口にした未幸は、再びサトルに蹴り飛ばされる。

 体を起こした未幸は、サトルの表情が鬼のように豹変していることに気づいた。

 今まで、サトルはいやらしい薄ら笑いを浮かべているか、他人を見下し、増長した態度をとっているかのどちらかだった。

 しかし、何かをはぐらかし、本質を見せるのを怯える先ほどまでのサトルは、今は完全になりを潜めていた。激しい憎悪を周囲に撒き散らし、彼の目に入るもの全てを破壊し尽くさんばかりの何かが、彼の中からとめどなく沸き溢れていた。

 未幸は、再びサトルに髪を掴まれ、引きずり起こされた。

「貴様に……、自分の好きにできる体を与えられた貴様に何がわかる!

 俺はな、今まで、自分の欲望を満たすことを禁じられてきたんだ! 例え好きなものが目の前にあったところで、それを手にすることができなかった……。うまいものがあっても食うことはおろか、臭いをかぐこともできなかったんだ!

 もし仮に『未幸』が、俺の好きなものを食ったとしても、俺は何も感じられないんだよ! 体がないと、それらが持つ感覚を感じることすらできないんだよ!

 ……そして、その辛さを他の人間に告げることすらできない。俺は、居ないも同然だったのだ! 心だけがそこにいる。他には何もない。心が、ここに俺がいることを俺に伝える。だが、俺の存在を知るのは、俺だけなのだ。

 わかるか? この苦しみが。

 一度は、ミユキが眠っているとき、未幸の体を使って好物を食おうとしたこともある。

 だが、一瞬たりとも、『未幸』が空く事はなかった。人格の力の弱い、あの女がノリオを使って常に体を使っていた!

 わかるか、この屈辱が。自分より劣る者に、遠慮しなければならない屈辱が!」

 そこで、サトルは未幸を突き飛ばした。

 未幸は、まるで放り出された操り人形のように、力なく倒れこんだ。度重なる暴行に、徐々に体力を奪われているのは間違いなかった。

 地面に這い蹲る未幸を見るサトルの表情が、急にやさしくなった。同時に、激昂した口調も収まったようだ。

「だがな、ノリオが消えて、僕にも体を操る機会が巡ってきた。

 これは、僕にとってチャンスだった。今までは体を操る機会すらなかった。しかし、ノリオが今まで使っていた時間は、丸々僕が使うことができるようになったからな。

 とはいえ、僕は一度も『未幸』を操ったことはない。そこで、僕はミドリに取り入り、未幸をミドリの意思どおりに動かす代わりに、操作方法を教わった」

 サトルは言葉を一度切り、空を見上げ、当時のことに思いを馳せているようだった。もちろん、ここは漆黒の闇の空間。どちらが空か、どちらが地面かわかりはしないが、体を操ったときの癖が、そうさせるのだろう。

「体の操り方を教わった僕にとって、ミドリの利用価値はもうなかった。

 僕は、一刻も早くミドリを排除したかったのだが、ミドリは、自分が人格的に一番弱いことを知っているらしく、なかなか僕の前に現れようとしなかった。

 そこで、僕はミドリをおびき寄せるため、ある作戦を実行した。それが、操れるようになった『未幸』を使い、ミドリの嫌がるありとあらゆる犯罪を起こさせることだ。

 それは、僕にとって一石二鳥だった」

 サトルは、いつのまにか自分の苦労を語り始めていた。

 よほど、いままで誰にも気づいてもらえなかった『サトルという一つの個性』が立案した計画が、成功し続け、現在にいたることを、誰かに聞いて欲しかったのだろうか。それとも、自分の苦労を実際に口にすることで、自分の置かれた環境に陶酔し、達成感をより高めようとしていたのだろうか。

 頭上から無遠慮に振りまかれる言葉を聞きながら、未幸は、なんとなく思った。

「奴は、ミユキに自分の存在を悟られないため、未幸の生活圏から遠く離れたところで、万引きなどの小さい犯罪を繰り返していた。その結果、小金を稼いで、奴自身のちっぽけな欲望を満たしていたようだ。

 奴が、捕まる可能性のある犯罪に手を出さなかったのは、自分の存在を気づかれてはまずいと考えたからだろうな。自分の存在がミユキにばれることで、自分の存在が消されかねないと思ったのだろう。

 だが、僕にとっては、それが好都合だった。

 先ほど話したと思うが、目立つ犯罪を行うことは、ミユキを弱らせるのと同時に、ミドリをおびき出すことができるからだ。

 案の定、奴は姿を現した。僕に、文句を言うためにね。自分が消されるとも知らずに」

 サトルは、高らかに笑った。勝ち誇った笑い、というよりは、半分狂気にとらわれているかのような笑いだった。喜びよりも先に、屈折した感情が奔流となって噴出したのだ。

 サトルは、もう一度未幸の髪を掴み、引きずり起こす。だが、殴ることもせず、放り出すこともしない。

「さて、お話は終わりだ。ミユキには静かに消えてもらおう」

 サトルは、素手で未幸の首をはねるつもりなのだろう。右手を大きく振り上げた。

 だが、その腕を掴んだ者がいる。コウだ。

「……コウ、何の真似だ? お前が僕に勝てるとでも思っているのか?」

 次の瞬間、未幸の目の前に血の飛沫が飛んだ。

 サトルは、突然自由になった右腕を、未幸に向かって振り下ろそうとして、長さが明らかに足りないことに気づいた。

「な……なんだと? なぜ、俺の手首がない?」

 未幸を放り出したサトルは、思わず自分の右腕を、左腕で掴む。自分の身に何が起こったのか、サトルには理解できなかったようだ。

 無理もあるまい。

 自分より強大なノリオは消えた。ミユキは今ではミドリにも劣るだろう。当のミドリは彼が消した。コウは彼よりもともと劣っている。

 つまり、現在では、彼は最強なのだ。

 にもかかわらず、何者かが彼を傷つけた。一体何者が?

「サトル……。もうお前の好きにはさせない」

 先ほどまで、明らかに怯えていたコウが、サトルに向かって抑揚のない言葉を吐き出す。

 一瞬、狐につままれたような表情を浮かべたサトルは、ややあって、まるで弾けるように笑う。

「冗談は顔だけにしろ、コウ。お前に俺が傷つけられるわけないだろう? お前は俺よりはるかにレベルの低い人格だ。そのお前が、俺を倒すなど不可能だ!」

 そう叫び、サトルはコウに殴りかかる。だが、コウの体は、サトルの拳を受け付けない。逆に、サトルの左拳は、骨折したかのように手首の部分でぶら下がり、足元に落ちる。コウの足元に落ちた手首は、死にかけのクモのように、しばらく指を動かしていたが、あるときぱたりと動きを止めると、ゆっくりと消える。

「バ……、馬鹿な。なぜだ? なぜコウが俺を上回る?」

 彼が予期していたより、遥かに強力なコウを目の当たりにし、サトルは徐々に後退し始める。

 頭では、コウが自分を上回っていることが信じられずにいた。だが、自分より強い相手に出会った場合は、すぐに逃げるという、動物としての本能が、今まさにサトルを、彼の危機から脱出させようとしている。

「サトル。お前の最大の過ちは、人格の強さが不変だと思い込んだことだ。人格の強さは変わるんだよ。お前が、ミユキを弱らせたように」

 そういうと、コウはサトルの眉間に手刀を叩き込む。コウの右手は、指の付け根まで深々と刺さっている。

 サトルの双眸は、何かを見ているわけではなかったが、驚愕でゆっくりと見開かれていく。痛みよりも、自分の顔に異物が侵入してきたことが驚きだったようだ。

 コウは、刺さった右手に添えるように、左手も眉間の奥へと差し込む。

 サトルの口から、うめきともつかぬ声が漏れる。屈辱と驚愕と、今まで感じたことのない恐怖とが、抗えぬ勢いを保ったまま、サトルの体を蝕み始める。

 コウは、大広間を隔てる襖を豪快に開け放つかのように、両腕を差し込んだサトルの眉間から、サトルの体を真っ二つに引き裂く。

 二つに増えたサトルの体は、力なく崩れ落ちていき、霧散していく。

 消えたサトルの死骸があった箇所を見ながら、コウは呟く。

「ノリオを消したのは、僕だ」


 サトル消滅の直後、弾けるような笑みを浮かべ、自分のもとに駆け寄ってくるミユキを想像していたコウは、いささか期待はずれだった。ミユキは、コウの方を見たまま一歩も動かない。

(そうか。さっきのサトルの件がショックだったんだろうな。確かに、自分が消されるかもしれない、瀬戸際のところだったから。怯えてしまっていても、無理はないかな)

 あまり笑ったことはない。それは無理もない。常にミドリとノリオに脅かされ続けたのだ。心から笑ったことはない。笑ったとしても、愛想笑い。あとは、ミドリとノリオにいじめ抜かれた後、大地に転がった時に、押し殺しても沸々と湧き上がる、自嘲の笑い。

 今まで彼が浮かべた笑みは、その程度だ。

 だが、今は、ミユキを落ち着かせるために笑わねばならない。微笑まねばならない。コウは、立ち尽くすミユキの元に、ゆっくりと歩いていく。できるだけ自然な笑みを浮かべて。

「もう大丈夫だよ……ミユキ」

 だが、コウの言葉にも、ミユキはまったく厳しい表情を崩さない。それどころか、その視線はキッとコウの一挙一動を見張っている感さえある。顔には緊張感が浮かび、頬は引きつっている。まるで、暗闇の中から、怪しい人影が、自分のほうに近づいてきたかのように。

 コウが近づくに連れて、固まっていた表情に徐々に感情が出てくる。だが、それは、コウが予期していた表情とは種を異にするものだった。

 嫌悪。恐怖。侮蔑。

 コウが一歩ミユキに近づくごとに、ミユキは一歩あとずさる。

 ミユキの態度が明らかにおかしいと感じたコウは、思わず、ミユキのほうへと進む歩みを止める。

「どうしたの? なぜ逃げるの?」

「い……いや……。来ないで……」

 ミユキはそういうや否や、コウに背を向けて逃げ出した。コウが立ち止まったことに一瞬の隙を見出したのだろうか。

 コウは、ミユキがなぜ逃げ出したのか、理解できなかった。

 確かに、先ほどのサトルの言葉で、彼女はコウに悪印象をもったかも知れない。

 しかし、あの後、サトルからミユキを守った。ミユキの生命を脅かしかねないサトルを倒し、彼女に永久の平和をもたらした。言ってみれば、コウはミユキの命の恩人なのだ。かつてのちょっとしたいたずらなど、ミユキの命を救ったことから考えれば、帳消しにしても問題ないではないか。

 コウは慌てて追いかける。

(なぜ、僕を認めてくれないの? 僕はこんなに君の事が好きなのに)

 だが、追いかけようと思った次の瞬間には、ミユキがコウに向かって走ってきた。

「ミユキ……、やっとわかってくれたんだね? 僕の気持ちが……」

 コウは勘違いをしていた。

 ミユキが、走り出した方向を変え、彼に飛び込んできたのではない。コウは、ミユキすら認識できぬ速度でミユキを追い抜いていたのだ。

 サトルの闇の計画によって体力を奪われたミユキと、かつての第二位の人格のノリオすら屠ったコウとでは、人格の力が違いすぎた。

 ミユキは、突然眼前に出現したコウの存在に、完全にすくみあがってしまい、立っているのさえ困難な状況になってしまった。

 コウは、崩れ落ちそうになるミユキを抱きとめる。

「は……、離して!」

 ミユキは、コウの腕の中で暴れた。コウの体を激しく蹴りつけ、顔を激しく叩く。だが、コウにとっては、痛くも痒くもなかった。

 ただ、コウは、ミユキが今の状況を理解できず、混乱しているのだとおもい、強く抱きしめようとした。

「怖がらなくていいんだよ。怖がらなくて……。僕が守ってあげる。もう大丈夫だから……」

 だが、ミユキは、コウが強く抱きしめたその瞬間、カエルが潰されたような声を出すと、口から血や臓器を吐き出し、コウの腕の中で崩れ落ちる。そして、腹部を強い力で締め付けられ、眼球が飛び出したミユキのなきがらは、そのまま霧のように消えていく。

 目の前で起きた惨劇。ミユキの体が、砕け散って消滅してしまった……!

 コウは、先ほどまでミユキを抱きしめていた両腕を見ていたが、徐々に、自分の身に起こりはじめたことがわかってくる。

 ミユキは消えた。

 コウがミユキを殺してしまった。もっとも無残な方法で。 

 先ほどサトルがやろうとした、ミユキの首をはねるという殺し方のほうが、よほど苦しめることなくミユキを殺すことができただろう。結果的に、彼は最悪の苦痛をミユキに与え、そしてこの世から消し去ってしまったのだ。

 ミユキの吐き出した血と臓器とにまみれたコウの、お世辞にもりりしいともかわいらしいともいえぬ双眸が、徐々に見開かれていく。全身の毛穴が開き、冷や汗が噴きだす。体の様々な器官が、ミユキの体が破裂した時の感触を、繰返し感じ続ける。

 崩壊のリフレイン。

(僕は、とんでもないことをしてしまった……。ミユキを消してしまった……)

 コウは、狂気の雄叫びを上げる。

 だが、遥か遠くから彼の耳に届いてきた叫び声は、『未幸』のものだった。

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