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自作自演  作者: かえで


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11/14

孤独な戦い

初めて母の名前が出てきます。個人的には、違和感のない流れではないかと思っておりますが、どうでしょうか。

 未幸は耐える。

 襲い来る睡魔に。

 瞼はおもりのように重く、体は磁石になったかのように、地面に吸いつけられる。

 何度も眠りの海に溺れかけた。そのたびに、意識の淵にしがみつき、未幸を引きずり込もうとする何物かを蹴落とした。太ももを叩き、部屋の中を歩き回り、コーヒーを飲み、家の外を走ることで、そこに近づこうとする体に鞭を打った。

 未幸が戦いを決意してから、時計は六度同じ時を刻み、太陽は地球の周りを三周した。


 その日、幸子は、五日ぶりに未幸を起こしに向かった。

 ここ数日間、彼女はパートが忙しく、早朝から出勤しなければならなかった。

 加えて、前日、前々日と、パート仲間の送別会と慰安会が行われた。会は盛り上がり、帰りは午前様になった。ここ数日、彼女は、未幸とは一度も顔をあわせていなかった。

 幸子は、未幸を心配していた。実は、彼女も、未幸に起こりつつある異変を感じ取っていた。

 未幸に目立った変化があったわけではない。未幸の行動に怪しい様子があったわけでもない。ただ、何かが未幸の中で起きているような気がしてならなかった。

 最初、未幸の異常に感づいたのは、洗濯物からだった。

 未幸の洗濯物が極端に増えたのだ。

 しかし、それだけであれば、別段おかしくはない。夏であれば汗もかく。そうなれば着替える回数も増えるから、洗濯物が増えるのは当たり前のことだ。

 気になるのは、洗濯物として増えた衣服が、未幸が通常着る事がないような、おしゃれな服だったことだ。

 これらの服は、幸子が若い頃に買った服であったり、親戚の女の子が着なくなったのでもらってきた服であったり、幸子がフリーマーケットに出かけたとき、未幸用に買ってきた服であったりした。

 未幸は、それらの服を受け取ったとき、うれしそうに礼を言った。しかし、彼女がその服に袖を通すのは、最初の数回だけだった。後は、綺麗にたたまれ、タンスの中に眠っていた。

 だが、どういう心境の変化か、未幸は、自分でそれを引っ張り出して着ている。

 最初は、幸子も、自分が買ってきた服を未幸が着てくれるようになった、と喜んだものだった。

 もともと化粧っ気のない娘だった彼女が、少しはおしゃれに気を使うようになったということは、母としても喜ぶべきことだった。残念なのは、自分の意思でそれらの服を着ている未幸を、幸子が見たことがないということだけだろうか。

 不思議なのは、通常生活を営んでいれば、まず付着するはずのない汚れが、衣服を汚していたことだ。そして、その汚れが付着するのは、最近未幸が着始めたと思われる服だけだった。

 血痕。

 彼女の服に、頻繁に血の痕が見られるようになったのだ。といっても、大量の出血ではない。数滴、見えにくいところに付着している程度だ。そして、その部分も、一見すれば模様に見えなくもない。

 最初は、それが血痕だとわからなかった。どこかに遊びに行ったときに飛ばした食事の跳ねだと思っていた。ただ、普通の汚れに比べ、非常に落ちにくいので印象に残ったのだ。

 あるとき、幸子は料理中に誤って指を切ってしまった。彼女が、慌てて治療をしようとした際、サマーセーターに数滴、血が付いてしまったのだ。彼女は、そのときは気にせず、サマーセーターを洗濯機に入れただけだった。

 ところが、その翌日、洗濯を終え、ベランダに干そうとした時、自分のセーターについた血痕が、薄く残っていることに気がついた。最初は洗いそこねかと思い、もう一日洗濯してみたのだが、ある一定以上は、落ちることはなかった。しかも、洗うたびにどす黒く変化していく。

 そのときから、頻繁に未幸の衣服にこびりつき、しかも落ちにくい未幸の服の汚れは、実は血痕ではないか、と思い始めるようになった。

 しかし、理由がわからなかった。

 未幸の通常生活を見ても、血痕のような汚れが付着するはずはないし、未幸の体を見ても、血痕がつきそうな傷もない。

 ということは、考えられるのは、返り血だ。しかし、未幸が返り血を浴びるなど、未幸自身が傷つき、出血すること以上にありえないことだ。返り血を浴びるということは、未幸が何者かを傷つけたことを意味する。服についている血痕の頻度から、偶然での返り血は考えられない。

 そして何より、幸子自身、あれらの服を未幸が率先して着る所を見たことがないのだ。親が着ることを猛反対している服であればわからなくもないが、親にも見せない洋服姿を、果たして他人に見せるだろうか。

 最初は、洋服を誰かに貸した。そう結論付けようとした。だが、その頻度が高すぎた。誰に貸したにせよ、血痕がついて戻ってくる回数が多すぎる。

 未幸があれらの服を着ているとき、一体彼女の中で何が起こっているのだろうか。

 幸子の中に、先日見たホラー番組が思い出された。

 いつのまにか、体内に悪魔を飼ってしまった一人の青年。彼は、時々人を殺したい衝動に駆られる。そして、何人もの人間を惨殺してきた。逮捕後、様々な調査や検査を行ったが、彼に精神異常は見受けられなかった。彼はまだ、服役中である……。

 その事件を説明する再現映像で、彼が鉈を振り下ろした時、顔や衣服に返り血が飛んだ。それを思い出し、彼女は背筋が凍る思いがした。

 未幸の部屋の前に立って、母は一瞬躊躇った。

 もし、部屋の中に、未幸の姿をした別の存在がいたら……? 返り血を浴びるような所業を行う化け物が、未幸の皮をかぶってそこにいたら……?

 そんなことがあるはずがない。

 階段を上っている最中に、勝手に膨れ上がった妄想に震え上がる。そして、その時に嫌でも思い出されるのは、あの朝の出来事だ。

 朝、料理していたときに耳にした、未幸のあの悲鳴は生涯忘れることはあるまい。

 あの後、取り立てて異常はなかった。しかし、あの悲鳴が幸子に残した傷跡は大きかった。ひょっとしたら、未幸自身より事態を深刻に捉えていたかもしれない。

 彼女の中で、あの悲鳴の理由を勝手に作り上げ、何度も悪夢を見た。

 窓ガラスを破って侵入した、見たこともない男たち。近所を徘徊する変質者。ニュースで報道された連続殺人犯。未幸を付けねらうストーカー。

 ケースは様々だったが、未幸をつけ狙う存在が、幸子の中で勝手に作られていったのは間違いない。

 だが、やっと彼女の中で、過去のこととして感じられるようになった。

 悪夢も見なくなった。安心して朝も起きられるようになった。料理をしていても、未幸の悲鳴の幻聴に悩まされることもなくなった。だが、それでもたまにいわれのない不安を覚えることがある。

 あの事件は、未幸だけではなく、幸子にも大きなトラウマを残していた。

(自分の娘に怯えていてどうするの? しっかりしなさい!)

 幸子は、頭をもたげ始めた疑念を追い出すように、頭を二、三度激しく振り、ゆっくりとドアのノブに手を掛ける。そして、いつもの調子で扉を開け放った。

「ほら、いつまで寝てるの? ご飯が冷めるでしょう!」

 口はそう言葉を発していたが、目の前の娘の様子に、彼女は愕然とする。

 幸子の前にいるのは、ベッドに腰掛けたまま、中空を眺め、何事かをぶつぶつと呟く未幸の姿だった。

 髪は乱れ、口元からはよだれ、目頭からは涙、そして鼻腔からは鼻汁がたれている。落ち窪んだ目には、生気が感じられなかった。

「未幸っ!」

 未幸の側に駆け寄った母を見て、未幸は意識を取り戻したかのようだった。

 相変わらず生気は弱かったが、先ほどまでの呆けた状態とは明らかに違っていた。落ち窪んだ目は、実は目の下にできた大きな隈だった。

 我に返った未幸は、自分の顔の状態を瞬時に悟り、ベッドの側のティッシュペーパーで、鼻をかみ、涙を拭き、涎をふき取った。

「あー……危なかった。お母さん、ありがとう」

 未幸の言葉がよくわからず、母は首をかしげる。

「な……何を言っているの? 大丈夫なの? 体はどこも痛まないの?」

「大丈夫だって。問題ないわ。ただ、ちょっと眠たいだけ」

「眠たいって……あなた、眠らなかったの?」

 未幸は弱弱しく微笑むだけだった。

 安心した。いや、安心していいような気がした。

 幸子は、安堵に胸を撫で下ろしていいのか、少し迷っていた。未幸は至極普通だ。ただ、まったく寝ていないようだ。そのせいで妙にみすぼらしく見えた。

 未幸は、ふらふらと立ち上がると、幸子に抱きついてきた。

「お母さんがきてくれてよかった」

 幸子は、未幸のその言葉に、いろいろ深い意味が込められていそうな気がして、すぐに返事をすることができなかった。

「……お母さん、お願いがあるの」

「な……なあに? 言ってごらんなさい?」

「あのね、私、これから寝ちゃうかもしれない。私が起きるまで、ずっと側にいてくれるかな?」

「いいわよ。ずっと側にいてあげる。安心してお休みなさい」

 幸子は、抱きついている未幸を、ゆっくりとベッドに寝かせ、そのままタオルケットを未幸の腹の部分に掛けた。

「クーラー……入れていいわよ」

 幸子の言葉に、未幸はすでに答えられなかった。幸子は、未幸の寝息を耳にしながら、部屋を後にした。

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