孤独な戦い
初めて母の名前が出てきます。個人的には、違和感のない流れではないかと思っておりますが、どうでしょうか。
未幸は耐える。
襲い来る睡魔に。
瞼はおもりのように重く、体は磁石になったかのように、地面に吸いつけられる。
何度も眠りの海に溺れかけた。そのたびに、意識の淵にしがみつき、未幸を引きずり込もうとする何物かを蹴落とした。太ももを叩き、部屋の中を歩き回り、コーヒーを飲み、家の外を走ることで、そこに近づこうとする体に鞭を打った。
未幸が戦いを決意してから、時計は六度同じ時を刻み、太陽は地球の周りを三周した。
その日、幸子は、五日ぶりに未幸を起こしに向かった。
ここ数日間、彼女はパートが忙しく、早朝から出勤しなければならなかった。
加えて、前日、前々日と、パート仲間の送別会と慰安会が行われた。会は盛り上がり、帰りは午前様になった。ここ数日、彼女は、未幸とは一度も顔をあわせていなかった。
幸子は、未幸を心配していた。実は、彼女も、未幸に起こりつつある異変を感じ取っていた。
未幸に目立った変化があったわけではない。未幸の行動に怪しい様子があったわけでもない。ただ、何かが未幸の中で起きているような気がしてならなかった。
最初、未幸の異常に感づいたのは、洗濯物からだった。
未幸の洗濯物が極端に増えたのだ。
しかし、それだけであれば、別段おかしくはない。夏であれば汗もかく。そうなれば着替える回数も増えるから、洗濯物が増えるのは当たり前のことだ。
気になるのは、洗濯物として増えた衣服が、未幸が通常着る事がないような、おしゃれな服だったことだ。
これらの服は、幸子が若い頃に買った服であったり、親戚の女の子が着なくなったのでもらってきた服であったり、幸子がフリーマーケットに出かけたとき、未幸用に買ってきた服であったりした。
未幸は、それらの服を受け取ったとき、うれしそうに礼を言った。しかし、彼女がその服に袖を通すのは、最初の数回だけだった。後は、綺麗にたたまれ、タンスの中に眠っていた。
だが、どういう心境の変化か、未幸は、自分でそれを引っ張り出して着ている。
最初は、幸子も、自分が買ってきた服を未幸が着てくれるようになった、と喜んだものだった。
もともと化粧っ気のない娘だった彼女が、少しはおしゃれに気を使うようになったということは、母としても喜ぶべきことだった。残念なのは、自分の意思でそれらの服を着ている未幸を、幸子が見たことがないということだけだろうか。
不思議なのは、通常生活を営んでいれば、まず付着するはずのない汚れが、衣服を汚していたことだ。そして、その汚れが付着するのは、最近未幸が着始めたと思われる服だけだった。
血痕。
彼女の服に、頻繁に血の痕が見られるようになったのだ。といっても、大量の出血ではない。数滴、見えにくいところに付着している程度だ。そして、その部分も、一見すれば模様に見えなくもない。
最初は、それが血痕だとわからなかった。どこかに遊びに行ったときに飛ばした食事の跳ねだと思っていた。ただ、普通の汚れに比べ、非常に落ちにくいので印象に残ったのだ。
あるとき、幸子は料理中に誤って指を切ってしまった。彼女が、慌てて治療をしようとした際、サマーセーターに数滴、血が付いてしまったのだ。彼女は、そのときは気にせず、サマーセーターを洗濯機に入れただけだった。
ところが、その翌日、洗濯を終え、ベランダに干そうとした時、自分のセーターについた血痕が、薄く残っていることに気がついた。最初は洗いそこねかと思い、もう一日洗濯してみたのだが、ある一定以上は、落ちることはなかった。しかも、洗うたびにどす黒く変化していく。
そのときから、頻繁に未幸の衣服にこびりつき、しかも落ちにくい未幸の服の汚れは、実は血痕ではないか、と思い始めるようになった。
しかし、理由がわからなかった。
未幸の通常生活を見ても、血痕のような汚れが付着するはずはないし、未幸の体を見ても、血痕がつきそうな傷もない。
ということは、考えられるのは、返り血だ。しかし、未幸が返り血を浴びるなど、未幸自身が傷つき、出血すること以上にありえないことだ。返り血を浴びるということは、未幸が何者かを傷つけたことを意味する。服についている血痕の頻度から、偶然での返り血は考えられない。
そして何より、幸子自身、あれらの服を未幸が率先して着る所を見たことがないのだ。親が着ることを猛反対している服であればわからなくもないが、親にも見せない洋服姿を、果たして他人に見せるだろうか。
最初は、洋服を誰かに貸した。そう結論付けようとした。だが、その頻度が高すぎた。誰に貸したにせよ、血痕がついて戻ってくる回数が多すぎる。
未幸があれらの服を着ているとき、一体彼女の中で何が起こっているのだろうか。
幸子の中に、先日見たホラー番組が思い出された。
いつのまにか、体内に悪魔を飼ってしまった一人の青年。彼は、時々人を殺したい衝動に駆られる。そして、何人もの人間を惨殺してきた。逮捕後、様々な調査や検査を行ったが、彼に精神異常は見受けられなかった。彼はまだ、服役中である……。
その事件を説明する再現映像で、彼が鉈を振り下ろした時、顔や衣服に返り血が飛んだ。それを思い出し、彼女は背筋が凍る思いがした。
未幸の部屋の前に立って、母は一瞬躊躇った。
もし、部屋の中に、未幸の姿をした別の存在がいたら……? 返り血を浴びるような所業を行う化け物が、未幸の皮をかぶってそこにいたら……?
そんなことがあるはずがない。
階段を上っている最中に、勝手に膨れ上がった妄想に震え上がる。そして、その時に嫌でも思い出されるのは、あの朝の出来事だ。
朝、料理していたときに耳にした、未幸のあの悲鳴は生涯忘れることはあるまい。
あの後、取り立てて異常はなかった。しかし、あの悲鳴が幸子に残した傷跡は大きかった。ひょっとしたら、未幸自身より事態を深刻に捉えていたかもしれない。
彼女の中で、あの悲鳴の理由を勝手に作り上げ、何度も悪夢を見た。
窓ガラスを破って侵入した、見たこともない男たち。近所を徘徊する変質者。ニュースで報道された連続殺人犯。未幸を付けねらうストーカー。
ケースは様々だったが、未幸をつけ狙う存在が、幸子の中で勝手に作られていったのは間違いない。
だが、やっと彼女の中で、過去のこととして感じられるようになった。
悪夢も見なくなった。安心して朝も起きられるようになった。料理をしていても、未幸の悲鳴の幻聴に悩まされることもなくなった。だが、それでもたまにいわれのない不安を覚えることがある。
あの事件は、未幸だけではなく、幸子にも大きなトラウマを残していた。
(自分の娘に怯えていてどうするの? しっかりしなさい!)
幸子は、頭をもたげ始めた疑念を追い出すように、頭を二、三度激しく振り、ゆっくりとドアのノブに手を掛ける。そして、いつもの調子で扉を開け放った。
「ほら、いつまで寝てるの? ご飯が冷めるでしょう!」
口はそう言葉を発していたが、目の前の娘の様子に、彼女は愕然とする。
幸子の前にいるのは、ベッドに腰掛けたまま、中空を眺め、何事かをぶつぶつと呟く未幸の姿だった。
髪は乱れ、口元からはよだれ、目頭からは涙、そして鼻腔からは鼻汁がたれている。落ち窪んだ目には、生気が感じられなかった。
「未幸っ!」
未幸の側に駆け寄った母を見て、未幸は意識を取り戻したかのようだった。
相変わらず生気は弱かったが、先ほどまでの呆けた状態とは明らかに違っていた。落ち窪んだ目は、実は目の下にできた大きな隈だった。
我に返った未幸は、自分の顔の状態を瞬時に悟り、ベッドの側のティッシュペーパーで、鼻をかみ、涙を拭き、涎をふき取った。
「あー……危なかった。お母さん、ありがとう」
未幸の言葉がよくわからず、母は首をかしげる。
「な……何を言っているの? 大丈夫なの? 体はどこも痛まないの?」
「大丈夫だって。問題ないわ。ただ、ちょっと眠たいだけ」
「眠たいって……あなた、眠らなかったの?」
未幸は弱弱しく微笑むだけだった。
安心した。いや、安心していいような気がした。
幸子は、安堵に胸を撫で下ろしていいのか、少し迷っていた。未幸は至極普通だ。ただ、まったく寝ていないようだ。そのせいで妙にみすぼらしく見えた。
未幸は、ふらふらと立ち上がると、幸子に抱きついてきた。
「お母さんがきてくれてよかった」
幸子は、未幸のその言葉に、いろいろ深い意味が込められていそうな気がして、すぐに返事をすることができなかった。
「……お母さん、お願いがあるの」
「な……なあに? 言ってごらんなさい?」
「あのね、私、これから寝ちゃうかもしれない。私が起きるまで、ずっと側にいてくれるかな?」
「いいわよ。ずっと側にいてあげる。安心してお休みなさい」
幸子は、抱きついている未幸を、ゆっくりとベッドに寝かせ、そのままタオルケットを未幸の腹の部分に掛けた。
「クーラー……入れていいわよ」
幸子の言葉に、未幸はすでに答えられなかった。幸子は、未幸の寝息を耳にしながら、部屋を後にした。




