第五話
徹夜明け特有の断眠ハイに任せて石段を駆け上がり、がんらがんらと鈴を鳴らして男を呼び出す。
「だァからうるせェってえの……。マジでモゲるからやめろそれ……」
昼だというのにまだ寝ていたのか、相も変わらず低いテンションで現れた男に対し、美紗緒は昨夜の顛末を一方的にまくし立てる。
男は終始気のない相槌を打つばかりであったが、最後に差し出された御札を見るや、いきなり表情を変えた。
「こりゃあ、熊野牛王の起請文じゃねえか……。なんつう罰当たりな……」
「きしょうもん?」
聞き慣れない単語をオウム返しにする美紗緒に対し、男はうへぇ、と呆れ顔で、
「神様に奉る、一種の宣誓書みてえなもんだ。とりわけ熊野大社の牛王宝印に書いた起請文は一級品でな。約束を違えると、契約者は勿論、熊野の神使であるカラスが三羽も死んで地獄に堕ちるっつう、霊験灼かなシロモンよ」
御札をつまみ上げ、
「ったく、カラスの絵が描いてあるってェだけで夜鳴き烏の呪いに遣うたァ、これだから素人はおっかねェや。お前さんもよく無事だったな」
よくは分からないが、どうやら相当に危険な橋を渡っていたらしい。
「アンタねぇ、なにが『死ぬこたァねえ』よ! 思いっきり死ぬかと思ったっての!」
「悪ィ悪ィ。まさかこんなんなってるとは思ってなくてよ」
存外素直に、しかし軽々しく謝罪して、男はカラカラと笑いながら、
「まァでも、呪詛も返ったことだしこれにて一件落着よ。お前さんも、これで好きなだけ居眠りできるさ」
告げられた言葉に、美紗緒は思わず安堵の息を漏らす。
男の言を信用して良いかはまだ微妙なところだが、これで眠れぬ夜を過ごすこともなくなるかと思うと、少しは憂鬱が晴れる。
だが、ひとつだけ。
さっきの男の台詞に、引っ掛かる点があった。
「……ねぇ。呪詛が返ったって、どういう意味?」
美紗緒の尋ねに、男はバリバリと髪を掻きながら、
「あァ? どうもこうも、そのまんまの意味だよ。人を呪わば穴二つってな? 呪術に失敗したら、その効果は術者へと跳ね返る。起請文で過剰に効果強めちまってるし、下手したらテメェの放った呪詛に憑り殺されるかもな」
ざまァみやがれ、と邪悪な笑みと共に告げられた説明に、美紗緒は我知らず呼吸を止めていた。
気が付いた時には、唇が動いていた。
「……助けて」
「ハァ? だァからお前さんはもう大丈夫だっての」
「違う! その、アタシを呪った人を助けて!」
美紗緒の懇願に、男は異国の言葉を耳にしたかのように不思議そうな顔をして、
「なァに寝ぼけたこと抜かしてやがる。お前さんを呪おうとした相手だぞ?」
「だからって――死ぬかもしれないなんて言われて、放っておけない!」
主張を、男は鼻で笑う。
「だいたい、なんで俺に助けを求めるんだよ。自分で言うのもなんだが、随分うさん臭ェナリしてんだろ。案外、“エンキリサマ”ってのも騙りかもしんねえぞ?」
もっともだ。美紗緒は未だに、男を打ち捨てられた神社に住んでる若い浮浪者、という線を疑っている。
しかし、それでも、
「……アンタ、昨日木の枝に何かしてたでしょ」
昨夜、絶体絶命の窮地に追い込まれた美紗緒が九死に一生を得たのは、まず間違いなくあの木の枝のおかげだった。半狂乱に陥っていた心を静め、眼前の脅威に立ち向かう力をくれたのだ。
美紗緒の指摘に、男は「目敏いねぇ」と片目を眇める。
「……確かに? あの棒っきれに禍祓いの守護吹き込んどいたなぁ俺だよ。だがそりゃあ、お前さんが黒河縁のモンだからだ。あいつにゃあ多少なりとも借りがあるからな」
ごろりと板の間に寝転んで、ふわあふと大あくびをかました挙句、
「縁も所縁もありゃしねえ、外法なんざに手ェ出す莫迦は、とっととおっ死んじまえばいィんだよ」
それでは困る。
美紗緒の推測が正しければ、呪いを仕組んだ犯人はおそらく、原田との噂を聞いた女子生徒の誰かだ。
向けられた悪意には腹が立つ。呪いという遠回しかつ陰気臭い手口もいけ好かない。それでもなお、なにも死ぬほどの悪事を犯したとは思えないのだ。
頑として動こうとしない男を睨み付け、美紗緒も腹を括る。
そっちがその気なら、こっちにも考えがある。
上着に着てきたパーカーのジッパーを下げ、放り投げる。
下に着ていたTシャツもまくり上げ、一息に脱ぎ捨てる。
突然の美紗緒の奇行に、男も目を剥いて、
「――おいおいおい! 一体なにしてやがる!」
「るっさい! こっち見んなバカ!」
スウェットのパンツも下ろし、下着だけの姿になる。
「助けてくれないなら、今すぐこの格好で麓の交番飛び込んで、アンタに乱暴されたって訴えてやる!」
「ハァあ!?」
我ながら滅茶苦茶だとは思う。これではまるっきり脅迫である。
だが、少なくとも同学年の子の命がかかっているのだ。もはや手段は選んでいられない。
半裸で身構える美紗緒に対し、男は珍獣でも見るかの如き視線を向けて、
「……度し難いねェ、まったく」
呟き、男は浅く俯いた。
ガシガシガシと激しく鳥の巣頭をかき回し、ぐーだのがーだの猛獣の如く低く唸り、ちっちっと爆竹のような舌打ち、はああぁぁ……と長いため息をついて、
「……ババアがババアなら孫も孫だ。赤の他人の世話焼いて、厄介事に首突っ込んじゃあ、守人の神様アゴで使いやがる」
男が起き上がる。反射的に身構える美紗緒を鼻で笑いつつ、放り投げたスウェットを投げて寄越す。
「――この借り、安かねェぜ?」