第四話
帰宅後、美紗緒は夕食を摂るよりも先に登山でかいた汗を流そうと、浴室へ向かった。
これがいけなかった。
日頃の寝不足がたたってか、湯船に漬かったままうとうとしてしまい、危うく自宅で溺死するところだったのだ。母親が気付いてくれなかったらば、最悪最寄りの病院の霊安室で永眠していた可能性もある。
これには両親も堪えたのだろう、夕食の後、二人揃って真剣な面持ちで、悩みがあるのならどんな些細なことでも話してくれ、と懇願された。どうやら、「カラスの声が聞こえる」という発言をノイローゼからくる幻聴か何かだと勘違いしたらしい。
どうにかして娘の胸襟を開かんと試みる両親を、あれやこれやと言葉を尽くして説得、やっとのことで自室へとたどり着いた時には、日付が変わりそうな時刻であった。
もう鼻血一滴でやしない。明日明後日の週末は、学校も休みだから昼間も寝ていられる。ベッドに倒れ込み、いっそのこと幻聴なら良いのに、と強く思う。それとも、両親の言うように自分はノイローゼになってしまっているのか。どんなにタフを気取っていても、無意識下ではイジメのストレスとやらを感じているのだろうか。
急激に思考が鈍る。眠くて眠くてたまらない。瞼が重い。
スイッチをオフにしたかのように、一瞬で意識が断ち切れる。
――がぁ、と。
カラスの鳴き声がして、美紗緒は目を覚ました。
まただ、と思う。毎夜毎夜の繰り返しですっかり摩耗してしまったのか、苛立ちよりも先に悔しさを覚え、美紗緒は子供のように大声で泣き喚きたくなる。
だが、そんな情けない気分もすぐに吹き飛んだ。
なにかが、おかしい。
いぃん、と鼓膜に痛みすら感じるほどの張り詰めた無音の中、美紗緒はおそるおそる、上体を起こす。
室内の空気が重く、緊張している。
音を立てぬよう、そっとベッドを下りる。
何かに導かれるように窓際へと近付き、そろそろとカーテンを開け放つ。
「――ひ、」
思わず声が出た。
窓の外、夜空に、電線に、屋根の上に、視界を埋め尽くすほど膨大な数のカラスが、鳴き声一つ立てずにこちらを凝視しているのだ。
宵闇にあってなお黒い影に、血のように赤い瞳だけが、鈍く輝いている。
二百近い視線に射貫かれて、美紗緒の背筋に筆舌し難い悪寒が走る。本当に驚いた時、人は悲鳴すら上げられないのだな、と場違いな思いが脳裏をよぎる。
唐突な目眩。なぜ、と思い、呼吸を忘れていたのだと気付く。絞り出すようにして息を吐き、喘ぐようにして吸う。
「う、あ……」
面白いぐらいに震える膝を、全精力を傾けて叱咤し、一歩、後退る。
同時、
――がぁ。
ただの一声で、腰が抜けた。下腹部に鈍痛、水分を摂っていたら間違いなく漏らしていたところだ。
異常は続く。
――がぁ。
――がぁ。
鳴き声に応じるように、カラスたちが次々に唱和に加わっていく。
――がぁ。がぁ。ガァガァガァ!
――ガァガァガァガァ、ガァガァガァガァガァガァガァガァ!
火が点いたように鳴き喚くカラスたちの狂騒に、美紗緒は頭を抱えるようにして耳を塞ぐ。
半ば恐慌に陥りながら、芋虫の如く這いつくばって、少しでも窓から距離を置こうと身を捩って、
――ダン!
突然響いた鈍い音に、ひとたまりもなく身を強ばらせる。
見たい。見たくない。恐ろしい想像が脳裏をよぎる。意思の力を総動員して、視線を向ける。
最悪の予想が当たる。
それは、滑空してきたカラスが、窓ガラスにぶち当たる音だった。
肉を叩きつける低い音が、幾度となく窓を叩く。
一打のたびに、窓ガラスが激しく震える。
一打のたびに、肉打つ音が強く、大きくなっていく。
ビシ、と不吉な音を立てて、ガラスにヒビが入った。
割れる。
このままでは、割れてしまう。
あいつらが、入ってくる。
数十羽のカラスが雪崩れ込んでくる。腕を、足を、はらわたを、目玉を、全身いたる所を啄まれて、あいつらに食い殺される。己の至る無残な末路が、手にとるように想像出来る。
――逃げなくては、殺される、死にたくない、嫌だ、食われる、助けて、父さん、お願い、嫌、お母さん、逃げなきゃ――
無我夢中で床を這っていた美紗緒の耳に、がらん、と鳴き声以外の音が鳴った。
余程呆けていたのだろう。裏山から自室にまで持って帰ってきていた、裏山で拾った木の棒だった。
引ったくるようにして手に取る。節槫立った枝の堅さが、泣きたくなるほど心強い。
縋り付くようにして、何とか立ち上がる。武器となるものを手にしたせいか、心なしか底無しの恐怖も多少和らいだ気がする。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、と呪文の如く呟きながら、はたと気付く。
部屋を出て、それでどうする?
あいつらが入ってきて、自分どころか、両親にも襲いかかったら?
自問に、恐怖の嵐に苛まれるばかりであった心の中に、ぽつんと意思の熱が灯る。
――だめだ。
自分だけならば兎も角、両親を巻き添えにするなど、考えられない。
――そんなの、許さない。
穿たれた熱は周囲の恐怖に燃え移り、瞬く間に巨大な炎となる。
――やってやる!
ずずっ、と鼻を啜り上げる。眦を伝う涙を乱暴に拭い、奥歯を砕けんばかりに噛み締める。
腹を括った途端、あれほど苦痛だった恐怖と入れ替わりに、猛烈な怒りが沸き上がってきた。
どうしてこの私が、顔も知らない誰かの逆恨みのせいで『腹を下して公衆トイレを探しているほうがズッと幸せ』って思いをしなくちゃならないのだ。
「戦ってやる!」
決意を叫び、未だしつこく窓を叩くカラスどもを真っ正面から睨み付ける。
木太刀を握り、構えは正眼。
深呼吸を一つ。二つ。三つ。
最後の一つを鋭く吐き切り、四つ目で限界まで肺に酸素を溜め込む。
亀裂はもはや窓ガラス全体に及んでいる。決壊するのも時間の問題だ。
狙うはそこだ。
入ってきた瞬間を突く。
急激に集中が高まっていく。狂乱が、嘘のように遠くなる。
……今!
「切えぃ――」
裂帛の気合と共に放った直突きが、ガラスを割って侵入してきた一羽を捉えた。
どつっ、と泥を刺すような妙な手応えと共に、カラスがゲェ、と耳障りな悲鳴を漏らす。
構わず突き込む。敢えて引かず、窓ガラスへ向かって突進する。
「――やァっ!」
衝撃、
直後。
一際大きな声が響きを置いて、闇が弾けた。
わ、と反射的に顔を庇い、視線を戻した瞬間には、あれだけいたカラスの姿はキレイさっぱり消えていた。
止めていた息を吐き出す。どっと汗が吹き出す。
助かった、と思い、遅まきながら気付く。
枝の先端に、何やら紙のようなものが突き刺さっている。
う、と眉を顰めつつ、紙を取り外して見てみれば、
「……なに、これ」
それは、無数のカラスが描かれた奇妙なお札であった。
その後、夜が明けるまで一睡も出来ず、両親にはクマと戦う夢を見て寝ぼけてガラスを割ってしまったと釈明し、ますます懸念が膨れ上がった両親を説得するのに昼までかかって、美紗緒は家を出た。
お札と木太刀を手に、裏山へ向かう。
もう一度、あの男に会わねばならない。