第二話
まぁ、聞いてくれるというのだから、と拝殿に上がろうとして、美紗緒はふと思い止どまる。
冷静になって考えてみればこの状況、山奥のうら寂しい神社で不審者と二人きりという構図である。
いざという時の用心として、杖代わりの木の枝を強く握り締める。白樺中学校女子剣道部、二年にして副将を張る“姫夜叉”美紗緒の異名は伊達ではない。素手ならばいざ知らず、帯刀していればそこいらの男に遅れを取るなど有り得ない。下手に襲いかかってこようものなら逆に玉の一つや二つ叩き潰してやろうと心に決める。
男はしかし、そんな物騒な決意などどこ吹く風で、
「……んで? あにがどーしたって?」
板の間にごろりとねそべり、マンガに視線を落としながらの尋ねである。
やる気がないにも程がある男の態度に、美紗緒は精一杯の自制心をかき集めつつ、口を開く。
「カラス」
「……あ?」
「カラスが、うっさいの」
話は二週間ほど溯る。
その日、剣道部の活動を終えて帰宅した美紗緒は、部活の疲れもあってか、着替え、夕食、風呂を手早く終えるとすぐさまベッドに潜り込んだ。
元々寝付きの良い美紗緒である。某あやとりと射撃の得意な少年の如く、スリーカウントで夢の中へ直行する。
夜も更け、三時を過ぎた頃であろうか。
――がぁ、と。
不意に、カラスの鳴き声が聞こえた。
ちょうど眠りの浅い時間帯だったのか、目を覚ました美紗緒は、それでも瞼を開けぬまま、ベッドに横たわってうとうとと微睡んでいた。
――がぁ。
また聞こえた。先程の鳴き声とはトーンが違う。寝ぼけた頭で、うるさいなぁ、と至極当たり前の文句を思い浮かべる。
――がぁ。
三度目。また違うトーン。
その日は、それっきり声は聞こえなかった。
翌朝目覚めた時には、鳴き声のことなどすっかり忘れ去っていた。
だが。
次の日も、その次の日の夜も、鳴き声は聞こえてきた。
「はじめはね、近所のゴミでも漁ってんのかな、って思ってたんだけど……」
毎晩毎晩、どれだけ熟睡していようとも、カラスの鳴き声で目が覚める。
無視を決め込んで寝直そうとするのだが、うつらうつらとし始めたところでまた声がして起こされる。以後、寝直そうとする、起こされる、の繰り返しである。
加えて、日を重ねる毎に鳴き声の数が増えていくように感じるのだ。
さすがにおかしいと思った美紗緒は、両親にこの異常を訴えたのだが、
「お父さんもお母さんも、そんな鳴き声は聞いてないって言うの」
一応と気を利かせてくれた父が、屋根や軒下に巣を作っていないか調べてくれたのだが、これも空振りに終わった。
そうこうしている間にも、鳴き声は続き、増殖していく。
無論、美紗緒も対策を講じた。しかし、どれだけ耳栓を詰めてもイヤホンで音楽を流していても、あの耳に残る鳴き声に叩き起こされ、安眠を妨げられるのであった。
一週間が経過して、美紗緒はついに武力をもって敵を排除することに決めた。
その夜、美紗緒は愛刀である竹刀を抱き、ジャージを重ね着鎧とし、瞳を守るための伊達眼鏡を装備して、ベッドの上で息を潜めてにっくきカラスどもの襲来を待ち構えていた。
草木も眠る丑三つ時、つい睡魔に負けてうとうとしかけた辺りで、
――がぁ。
聞こえた声に、眠気が吹き飛ぶ。
そろそろと窓ガラスに近付き一拍、意を決してカーテンを開け放つ。
だが。
自室の窓から見える範囲の木々や電線には、カラスのカの字も見当たらない。転落せぬよう気を付けて屋根の方も見上げてみたのだが、どこを探しても、在るべき奴らの影も形もありはしなかった。
混乱する美紗緒をあざ笑うかのように、がぁ、と嗄れた鳴き声が響いた。
事ここに至って、流石の美紗緒も気味が悪くなってきた。
元来、お化けや幽霊といった所謂“此の世ならぬもの”の存在など端から信じていない美紗緒だったが、今回ばかりは鳴き声だけという控えめさも相俟ってか、妙に生々しい恐怖を覚えるのであった。
無理を押して両親の部屋で寝させてもらうだとか、友人の家に泊まる手も考えたのだが、彼らをこの異常に巻き込んでしまうかも、と考えると、どうしても実行には移せなかった。
その間にも、鳴き声はますます増殖し、音量を増していく。連日連夜の理不尽な騒音に、美紗緒の睡眠不足は限界近く、生活のサイクルもガタガタであった。
そんな時だった。
家庭菜園で採れた野菜を届けにきた祖母は、美紗緒を一目見るなり異常を看破、なにがあったどうしたの、と問うてきた。はたして信じてくれるだろうか、と一抹の不安を抱えながらも現在の窮状を伝えたところ、オバアは「そういうことならば」と薦めてくれたのだ。
「学校の裏山にある神社に行って、エンキリサマに相談しなさいって。それで……」
「で、今に至る、と……」
相談の冒頭から今の今まで、男は一切マンガ雑誌から顔を上げずに、
「そりゃあ、夜鳴き烏の呪いだな」
今日の天気の話題でも口にするかのように、耳慣れない単語を口にした。
「まじないって……。あの、おまじないのこと?」
「んな可愛らしいもんじゃねえよ。あれだ、呪詛とか、“のろい”って言った方が分かりやしィか?」
はらりとページを捲り、男はなおも言葉を続けて、
「昨今のカラスってのは、なんでか縁起が悪いって言われてんだろ? 本来、カラスってのはヤタガラスを筆頭に吉を運ぶ吉鳥だったんだが、西洋やら大陸やらの文化が入ってくるに従って、凶兆の報せを運ぶモノとしてイメージが上書きされちまったんだよ」
さらにページを捲り、男は言う。
「夜鳴き烏ってのも、そんな凶事を暗示する呪いの一つ。まァ、歴史が浅い分、呪いのランクとしてはビギナー向けってとこだな」
「ば、ばっかじゃないの? 呪いとか、そんなの、あるはず……」
そう返しつつも、ひとたまりもなく動揺する美紗緒に対し、男がようやく顔を上げた。
その口元に、痩せた三日月のような、なんとも厭らしい笑みを浮かべつつ、
「お前さん、誰かの恨み買ってんな?」
答えられず、むっつりと押し黙る美紗緒を見、男は何とも愉しそうにニタニタと笑う。
「まァ、その程度の呪いなら死ぬこたァねえよ。精々、呪い掛けてる暇人が早く飽きてくれるのを祈るんだな」
「……その寝不足で困ってるんだってば」
「だったら、こんなトコで油売ってねえで昼寝でもしてやがれ。夜中だけだろ、聞こえんの」
正論だった。あまりに正論過ぎて、ぐうの音もでなかった。
それだけに、余計に腹が立った。
これ以上男と会話しているとまたぞろ堪忍袋の緒が切れてしまいそうで、美紗緒はすっくと立ち上がる。
板の間をドスドスと音を立てて出口へ向かいながら、
「帰る!」
「おう、帰ェれ帰ェれ――と、ちょい待て」
不意の呼び止めに、美紗緒は振り向き様にギロリとメンチを切る。
見れば、男は置いてきた木の枝を手に、ブツブツと何事か呟いていて、
「忘れモンだ。神域に拾ってきた棒っきれなんざ置いてくんじゃねえ」
ぽい、と放り投げられた大枝を片手でキャッチ、美紗緒は憤然と社を後にしたのであった。