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「手をどかしてよ」
「わたし、話の途中なのよ。聞いてから帰ってくれないかしら」
どこが途中なのだろうか、思わず、訊こうと口を開いてしまう。
わたしは、ムッとした表情で森山さんに顔を向けた。
「用があるなら、さっさと言って」
「伴野さんて、近くで見ると、顔が日に焼けすぎているなぁーって思って。夏はまだ二ヶ月も先なのに、どこで焼いてんの? あまり焼くと、ヒフがんになると思うわ」
これのどこが話の途中なのよっ。
質問も何なわけ?
ただ思ったままを言っただけなのかもしれないけど、腹が立つ。
「よけいなお世話よ」
わたしが言った後で、タイミングよく河西の高笑いが聞こえる。
なんで、河西に笑われないといけないのよ?
悲しくなった。
「どうかしたの、敏之くん」
森山さんが、心配そうに河西の顔を覗き見る。彼は、笑うのをやめた。
「おれの思っていたことと、利香の考えていたこと、ちょっと違かったなーって思ったんだ。笑ったわけ理由は少し違うけどな」
たったそれだけのことで、あんなに笑える?
河西、そんなこと、本人がいる前で言うせりふじゃないよっ。
こんなやつを好きになりかけていた自分に腹が立つ。
好きだった。彼のほんの些細なしぐさに引かれていく、わたし。気づけば、河西を目で追っていた。
わたしが怒っていることさえ気づきもせずに、ふたりは微笑合っていた。
もう、河西の笑顔にも腹が立ち始めてくる。
好きになるのも、嫌いになるのも……。
ほんの、小さなきっかけにすぎない。
わたしは、この瞬間、河西のことが好きから、嫌いに反転した――。
「わたしたちが伴野さんを見て、笑った理由のこと?」
「そー」
「どうして、敏之くんは笑ったの?」
ほわんほわんした口調で、森山さんが尋ねた。
「だって、おれ、利香以外の女子のことなんて眼中にねぇし。伴野が同じクラスだなんて初めて知ったからさ。あの時の笑いで利香もやっぱりこんな人知らなかった、そう思ったのかなーって解釈して、じゃあふたりでこんなやついたっけかーって感じで、笑っちゃえって思って、それでだよ」
「伴野さんに悪いわよぉ。ねぇ?」
どう転んでも、わたしに悪いなんて思ってない表情だった。
ふざけないでよねっ。
「河西がわたしのこと、知らなかったなんてこと、もういいわよ。笑いたかったらそれで結構!」
「変なやつ。さ、もう、こいつに用はないだろ。利香、帰ろうぜ」
帰るですってぇ……っ。
いきなり、話の途中だからって呼び止められた挙句、笑いものにまでなって。
このままでは、気がすまないわ。
それに、生徒手帳は、森山さんのものでしょう。拾ってあげたのに、わたしにはひと言もなしなわけ? それって、失礼じゃない。
あーっ。また、腹が立ってきた!
そんなわたしの葛藤を知らず、河西は森山さんを促し、民家が立ち並ぶ道を歩き出す。もう少しで、車がかろうじて通れるくらいの細い道幅の手前を。
「待ってよ。敏之くん。……あっ……」
彼を追いかけようとした森山さんは、地面に落ちていたガチャ玉を踏み、バランスを崩して倒れた。
ふん。いい気味!
河西の横で、物静かにわたしと彼の会話を聞いているだけなんて……だから、バチがあたったのよ。自分のことなのに、他人にまかせるなんてさ。この子って、なんにも考えていないのかしら。それにしても、どうしてこの人たちって、わたしに対してなんであやまらないのかしら。 絶対に、おかしい。
「大丈夫か?」
すでに、わたしと森山さんから十mくらい離れた距離にいた河西は、急いでしりもちをついてしまっている彼女へと駆け寄ってくる。
「利香、平気か?」
「……うん」
河西は森山さんに手を貸し、彼女を立ち上がらせると、わたしに非難のまなざしを向けた。
「お前、利香のそばにいて手を貸してやらねーなんて、サイテーな女だな」
わたしを見下げ、開いてるのかよくわからない細い目で、河西は睨んだ。
「はぁ?」
河西は、太い眉毛をピクリと動かせた。
「こんな女、ほっていて、帰ろうぜ」
「うん」
短く答え、森山さんはわたしをまっすぐ見据えた。
「彼、わたしのことしか考えてないの。ごめんなさい」
おっとりしとた口調だった。彼女の言った言葉が、わたしの心の中に入り込んでくる。
『彼、わたしのことしか考えてないの』
わたしは、彼女の言葉を心の中でくり返しつぶやいてみた。
……いいなー。……って、ちょっと、わたし、なにを考えてんのよ!
このふたりに対するわたしの怒りは相当なものだけど、わたしは彼女たちがうらやましく思えた。
「こいつにあやまることないよ。もともとはこの女が利香の生徒手帳を……」
なんですってぇ!
もう、言わないでおこうと思っていた心の中、それがプッツリと切れた。
わたしは、彼をまっすぐ見つめた。
「まだ盗んだって言いたいの? あんたの方がよっぽど最低な男よ。それにねぇ、森山さんが転んだのだって、河西が急かせたのに原因があると思うわ。責任転嫁しないで」
「……こ、こいつ……。すげー生意気!」
「その言葉、そっくりそのままお返ししてあげるわよっ」
「なっ、なんだよ。もう、言っておくが、生徒手帳のことはお前が盗んだって思ってない。……結構、ひねくれたやつだな。利香が言っただろ。 お前は悪くないって。なのに、まだ気にしてんのか。こえーなー」
わたしがひねくれているとしたら、あんたは何なのよ? 生徒手帳云々って言ったから、そう言葉を返したのに。なんなのよっ。
考え方の違いなのか、わたしと河西はかみ合っていない気もした。
「だったら、さっき『もともとはお前が利香の生徒手帳を』だなんて言わないでよ。誤解して当然でしょ。河西って、森山さんと仲がいいクセに、女の子の気持ちに疎いのね」
最後のひと言が余分だった。気づいた時には、すでに遅かった。
河西くんは、わたしを一べつ瞥するとため息をこぼす。
「……お前、絶対、男できねーぞ。こんな女とはりあってると、イライラしっぱなしだしよぉ」
「おおきなお世話よ! あんたみたいな最低な男に彼女がいるなんて、信じられないわねっ。森山さん、よくこんな礼儀知らずのやつとつきあってられるわよ」
ああ、また、わたしったら……。言わなければよかった。
声を張り上げると、わたしたちのそばを通りすぎていった女子のグループが、驚いて振り返った。制服のリボンから、一年生だとわかる。わたしが、そのうちのひとりを見て、キッと睨みをきかせると、あわてて前を向く。つられたのか、その子に続き、他のメンバーも一斉に前を向く。
「自分が最低なやつなんて思っていねぇよ。お前のほうがそうなんじゃねぇのかぁ~」
ばかにしたような笑いで、河西がわたしを見る。自分の名前を言われたのに、隣にいる森山さんは、心ここにあらず、という感じでボーッとしていた。
しかし、いつのまにか、彼女はわたしを見ていた。
「伴野さんって、彼氏いないの?」
森山さんの質問は突拍子もないものだった。
おっとりとした口の聞き方のせいなのか、わたしは彼女に苛立ちを感じた。
「は? なんなの、いきなり。……仲良くもないあなたに教えたくないわ」
一瞬だけ吹いた風が、森山さんの髪をふわりと浮かせた。彼女の耳が見え、耳たぶから小さな三日月の形をしたピアスが姿を現して髪の毛に隠れた。
「そんな言い方ねぇだろ。利香が聞いてんだから、答えてやれよ」
わたしの好きな人がだれでもいい、って思ってる口調だった。ただ、河西は彼女の疑問を解消してあげたいだけかもしれない。
「あんたに指図される筋合いはない」
「うふふ。やっぱりいいわ。だって、いそうにもないものね」
な、なんですって……。むかつく。
ばかにした目つきのまま、森山さんは興味が失せた顔でわたしを一瞥する。それから、河西へ視線を移した。
「行きましょ」
「ああ」
短い会話をふたりだけですると、一度もわたしに顔を見せず、森山さんたちは離れていった。