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だれもいなくなった教室の中で、わたしはあせっていた。見えなくなった視界で、床にひざをつきぞうきんがけをするように探していた。
「なにやってんの、お前」
足音が聞こえ、わたしの頭上で声が落ちる。
顔をあげ、だれなのかと見たけれど、ぼやけてしまってわからない。ただ、声で男の子だというのは把握した。
「あ!」
途端、はっとする。どこに落ちたのかわからないそれを踏まれたら大変だ。
「な、なんだよ」
「ばかっ。そこから動かないでよ」
「もしかして、コンタクトでも落としたのか」
「そうよ。だから、動かないでって言ってるじゃないの」
クククッ、と笑い声が聞こえる。彼は、いつのまにかわたしの目の前に屈んでいた。
「なによ」
「ピリピリするなよ。ちょっと動いちゃだめだぜ。お前の上着のポケットについてるから」
「え?」
彼は、わたしの目の近くで自分の指先を見せた。そこには、なくしたコンタクトがピトリとくっくいている。
「あ、ありがとう」
わたしは、彼の指からコンタクトを受け取った。
「じゃあな」
そう言って、彼は教室から出て行った。廊下から、もうひとりの足音が聞こえた。
「おーい、河西ー」
もしかして、いまのは河西? そっか、河西が助けてくれたんだ。それから、わたしは彼のことが気になりだした。だけども、彼の横には森山さんが側にいた……。
近くの空ではオレンジ色が、遠くに見える山の向こうでは濃い灰色が広がっている。
学校の帰り道、仲の良い美由紀ちゃんと途中まで一緒に帰るのがいつものパターン。
「……でね、今ちゃんに折りたたみのカサを貸してあげたの。彼女、わたしっちの近所でしょ。そしたら、今ちゃんの家に着いたら、いきなりわたしが貸してあげたカサをよこしたのよ。ひどいと思わない?」
美由紀ちゃんはそう言うと、わたしに意見を求めた。彼女の左肩にあるバッグの取っ手には、小さな猫のキーホルダーがついていて、歩くたびに鈴の音が聞こえる。
なんで、ひどいのかしら? カサを借りて返すのはあたりまえでしょ。
「どうして、ひどいの?」
わたしの言葉に、 美由紀ちゃんは落胆した。
「だって、カサは今ちゃんが差していたから濡れているのよ。わたしだって、カサを持っていたし。やっぱり、乾かしてから返えしてほしかったのよ」
えー、そうかなぁ。べつにそのまま返してもいいと思うんだけどさ。
美由紀ちゃんは、ムッとした表情だった。
「もう、りょこたんだって、わたしと同じ立場だったら頭に来ると思うわ」
「そうかなぁー。わたし、今ちゃんと仲良くないし……。カサなんて、貸さないもの」
あきれたような瞳で、美由紀ちゃんはわたしを見ると、深いため息をついた。
「そういう意味じゃなくて、たとえばの話。今ちゃんとりょこたんが仲良かった場合よ」
美由紀ちゃんは、バッグについている猫のキーホルダーを握る。途端、鈴の音が耳に届かなくなった。
「だから、わたしは今ちゃんとあまり話したことないし、たとえばって言われてもわからないわよ」
あーあ、美由紀ちゃんって時々へんなこと言うのよね。こんなことを話して何があるのかしら。
「そうよね。ごめんね、りょこたん」
美由紀ちゃんは、つぶやくように言った。
「うん、いいよ」
あやまるくらいなら、最初から言わなければいいのに。美由紀ちゃんって、つまらない話することあるのよねー、まったく。なんかいい話でもないかな。あ、そうだわ。
「今ちゃんのことは、もういいじゃない。それより、今日のドラマいいのあるよねー」
美由紀ちゃんは、ブスッとした顔だったけど、 ドラマと聞いて彼女は明るい表情になる。彼女は、ドラマ好きで語らせたら何時間にも及ぶ。
「そうよね。今日はなんてったって……、あー、もうここに来ちゃったわ。りょこたん、あしたこの続きを話ましょうね」
「うん。美由紀ちゃん。バイバイ」
Yの字の交差点で立ち止まると、美由紀ちゃんは右へ、わたしは左の道に別れて進む。
別の道から、美由紀ちゃんが持っていた、猫のキーホルダーについていた鈴によく似た音が聞こえた。