夫が外で家族を作っていたので、私は五年分の帳簿を王宮に提出しました
結婚して五年目の春、夫が外で家族を作っていたことを知った。
私には「まだ子どもは考えられない」と言っていた夫が、王都郊外の小さな邸宅で、愛人と幼い息子を囲み、父親の顔をして笑っていたのだ。
その光景を見た瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
怒りよりも先に、妙に腑に落ちてしまった。
ああ、そういうことだったのか、と。
子どもがいらなかったわけではない。
公爵家の跡継ぎを急ぐ必要がないわけでもない。
ただ、私との未来がいらなかっただけなのだ。
*
私はセレーナ・アルヴェン。
侯爵家の長女として生まれ、十九歳でエルヴェ公爵家に嫁いだ。
夫となったラウル・エルヴェ公爵は、王都でも評判の美丈夫だった。
明るい金髪に、甘く整った顔立ち。舞踏会では多くの令嬢が彼に視線を送った。
結婚式の日、彼は私に優しく微笑んだ。
「セレーナ。君となら、良い公爵家を築いていけると思っている」
その言葉を、私は信じた。
熱烈な恋ではなかった。
けれど、政略結婚とはそういうものだと思っていた。
互いに敬意を持ち、家を守り、いつか穏やかな情が育てばいい。
そう思っていた。
けれど、結婚して半年ほど経った頃、ラウルは食卓でふいに言った。
「子どもは、まだ考えられない」
私は手にしていたナイフを止めた。
「まだ、というのは」
「しばらくは二人でいいだろう。公爵家のことは急がなくてもいい」
「跡継ぎのこともありますが」
「弟の子を養子に迎えることもできる。君が焦る必要はない」
焦っていたわけではなかった。
ただ、私は妻として、いずれ母になるのだと思っていただけだ。
「承知いたしました」
私がそう答えると、ラウルはほっとしたように笑った。
「君は物分かりがよくて助かる」
その言葉に、私は小さく微笑み返した。
今ならわかる。
あれは感謝ではなかった。
私が何も知らず、何も疑わず、都合よく黙っていることへの安堵だったのだ。
*
エルヴェ公爵家は由緒ある名門だったが、内情は思っていたよりも整っていなかった。
領地収入はある。
森も鉱山もあり、街道沿いには宿場町も持っている。
それなのに、帳簿には不明瞭な支出が多かった。
高すぎる交際費。
用途の曖昧な修繕費。
名目だけの寄付金。
請求書と実際の品目が合わない宝飾品。
嫁いでからの私は、公爵夫人として家計と領地の帳簿を整えることにした。
私はもともと、父から領地経営を学んでいた。
父は私を跡継ぎにするつもりだったからだ。
だから数字を見るのは苦ではなかった。
むしろ、崩れた帳簿が少しずつ整っていくことに、私は静かな喜びさえ覚えていた。
使用人の給与遅配をなくし、領地の橋の修繕費を確保し、冬の備蓄を増やした。
古い契約を見直し、無駄な支出を減らし、徴税官の報告と実際の収入を照らし合わせた。
ラウルは、そんな私にほとんど関心を示さなかった。
「好きにすればいい。君は数字が得意なのだろう」
彼にとって私は、妻というより、都合のよい管理人だったのだと思う。
*
最初に違和感を覚えたのは、結婚二年目の冬だった。
帳簿に、王都郊外の孤児院への寄付金が載っていた。
それ自体は悪いことではない。
公爵家が慈善事業に支出するのは、珍しいことではなかった。
けれど、その寄付金は毎月同じ日に、同じ金額で支払われていた。
しかも、領収書に記された孤児院の名前は、私の知る名簿にはなかった。
私は帳簿の余白に、小さく記した。
『寄付金。支払先要確認』
次に、王都屋敷の臨時侍女雇用費が増えた。
しかし、王都屋敷の侍女長に確認すると、新しい侍女など雇っていないと言う。
さらに、別邸管理人の人件費として、不自然に高い支出が続いた。
その別邸は、公爵家の所有一覧には載っていない。
極めつけは、宝石商から届いた請求書だった。
『真珠と紅玉の首飾り。一式。エルヴェ公爵家御用』
私は、その首飾りを持っていない。
ラウルから贈られたこともない。
けれど支払いは、公爵家の交際費として処理されていた。
私は、そこでようやく理解した。
これは、ただの杜撰な帳簿ではない。
誰かが、何かを隠すために名目を変えている。
孤児院への寄付金は、子どもの乳母代。
王都屋敷の臨時侍女雇用費は、愛人宅の女中の給金。
別邸管理人の人件費は、郊外の邸宅の維持費。
外交交際費は、愛人への宝石やドレス。
すべて、別の名目に改竄されていた。
けれど、改竄は完璧ではなかった。
金額。
支払日。
支払先の商会。
運搬記録。
請求書に残った筆跡。
数字は嘘をつかない。
ただ、嘘を隠すことがあるだけだ。
*
私はすぐには問い詰めなかった。
証拠が足りなかったからだ。
それに、ただ夫が愛人を囲っているというだけなら、社交界ではよくある醜聞で終わってしまう。
けれど、公爵家の資金を不正に使い、領地の修繕費や慈善費の名目で愛人と子どもを養っているとなれば、話は違う。
私は五年分の帳簿を整えた。
年度別。
支払先別。
改竄された名目別。
本来の用途と、実際の用途。
領収書、請求書、商会の納品記録、御者の出入り記録、侍女たちの証言。
すべてを写し、照合し、分類した。
その間、ラウルは何も知らずに私へ笑いかけた。
「セレーナ、来月の夜会には一緒に出てくれるだろう」
「もちろんです」
「君がいると、公爵家は安泰に見える」
「そうですか」
「ああ。君は本当に頼りになる妻だ」
私は微笑んだ。
頼りになる妻。
その言葉が、これほど空虚に聞こえたことはない。
*
すべてが決定的になったのは、春のある午後だった。
私は王都の商会を訪れた帰り、偶然、ラウルの馬車を見つけた。
王宮へ向かう道ではない。
社交場でもない。
馬車は郊外の静かな邸宅の前で止まった。
窓辺には、淡い金髪の女性がいた。
名はイレーネ。
元は男爵家の娘で、数年前から社交界にはほとんど顔を出していない。
彼女の隣には、三歳ほどの男の子が立っていた。
ラウルは馬車を降り、その子を抱き上げた。
少年は嬉しそうにラウルの首に腕を回す。
イレーネは、そんな二人を愛おしげに見つめていた。
それは、どこから見ても家族の姿だった。
私は馬車の中から、その光景を見ていた。
泣きはしなかった。
叫びもしなかった。
ただ、胸の奥で何かが静かに終わった。
その夜、私は机に向かい、最後の書類を書き上げた。
『エルヴェ公爵家における不正支出に関する報告書』
宛先は、王宮監査院。
*
数日後、ラウルは珍しく私の執務室を訪れた。
「セレーナ、話がある」
「どうぞ」
私は帳簿を閉じた。
ラウルはどこか落ち着かない様子で椅子に座る。
「遠縁の子を、養子に迎えようと思う」
「遠縁の子、ですか」
「ああ。まだ幼いが、血筋は問題ない。公爵家の跡継ぎとして育てる」
「お名前は?」
「……ノエルだ」
私は彼をまっすぐに見た。
「イレーネ様のお子ですね」
ラウルの顔色が変わった。
「知っていたのか」
「はい」
「いつから」
「帳簿に名前が出る前から、数字が教えてくれました」
「数字?」
「孤児院への寄付金。王都屋敷の臨時侍女雇用費。別邸管理人の人件費。外交交際費。すべて名目を変えて処理されていましたが、支払先を追えば、イレーネ様の邸宅にたどり着きます」
ラウルは立ち上がった。
「君は、私を調べていたのか」
「私は公爵家の帳簿を管理していただけです」
「夫を疑うとは」
「疑わせるような帳簿を作ったのは、あなたです」
部屋の空気が冷えた。
ラウルは怒りを抑えるように唇を結んだ。
「そこまで知っているなら話が早い。ノエルを養子に迎える。君には母親として振る舞ってもらいたい」
「お断りいたします」
「セレーナ」
「私は、私との子を望まなかった夫の愛人の子を、公爵家の跡継ぎとして迎えることに同意しません」
「ノエルに罪はない」
「その通りです。だからこそ、不正な金と嘘で公爵家に入れるべきではありません」
「私は公爵だ。家のことは私が決める」
「でしたら、公爵として王宮に説明なさってください」
「何?」
私は引き出しから、封をした書類を取り出した。
「五年分の帳簿です」
ラウルの顔から血の気が引いた。
「まさか」
「すでに写しを王宮監査院へ提出しました」
「セレーナ!」
「原本はこちらにあります。改竄前後の記録、支払先の照合、商会の納品証明、すべて揃えてあります」
「やめろ。そんなものを出せば、エルヴェ家は」
「終わるのは、不正をしていた部分だけです」
「同じことだ!」
ラウルが声を荒げた。
私は、初めて少しだけ笑った。
「五年、私はこの家を守ってきました。あなたが愛人に宝石を贈る裏で、私は領地の橋を直しました。あなたが郊外の邸宅に金を流すたび、私は使用人の給金を遅らせないよう調整しました。あなたが外で家族ごっこをしている間、私は公爵家の名を保つために働いてきました」
「セレーナ……」
「ですが、もう終わりです」
私は静かに告げた。
「私は、あなたの便利な妻ではありません」
*
王宮監査院の馬車がエルヴェ公爵家に到着したのは、その翌朝だった。
先頭に立っていたのは、監査官エリオット・フェルゼン卿。
灰色の瞳を持つ、王宮でも有名な切れ者だった。
「セレーナ公爵夫人。報告書を拝見しました」
「必要な資料は、こちらに揃えてあります」
私は机の上に、分類済みの帳簿と証拠書類を並べた。
フェルゼン卿は、一冊目の帳簿を開いて、わずかに目を見開いた。
「年度別、支払先別、改竄名目別……ここまで整理されているとは」
「監査しやすいほうがよろしいかと思いまして」
「これほど整った告発資料は初めてです」
「告発資料ではありません」
「では?」
「公爵夫人としての業務記録です」
フェルゼン卿は、ほんの少しだけ笑った。
「承知しました。業務記録として、拝見いたします」
監査は十日に及んだ。
不正は、私が把握していた以上に深かった。
愛人宅への支出だけではない。
イレーネの親族が関わる商会への不自然な発注。
存在しない修繕工事。
領地備蓄費からの流用。
そして、その一部には王家から支給された北部街道整備の補助金も含まれていた。
もはや、夫婦の問題ではなかった。
公爵としての責任が問われる問題だった。
*
イレーネが屋敷に乗り込んできたのは、監査が始まって五日目のことだった。
彼女は美しい人だった。
淡い金髪に、潤んだ青い瞳。
泣けば誰もが守ってあげたくなるような、儚げな雰囲気をまとっている。
「セレーナ様、どうかラウル様を許してください」
応接間に入るなり、彼女は涙を浮かべた。
「ラウル様は、ただ私たちを守ろうとしてくださっただけなのです」
「公爵家の金を使って、ですか」
「そんな言い方……」
「では、どのような言い方が正しいのでしょう」
イレーネは唇を震わせた。
「ノエルには罪がありません」
「その通りです」
私は頷いた。
「ですから、ノエル様には正しい保護が必要です。不正な金と嘘の上に立つ跡継ぎとしてではなく」
「私は、あの子の幸せを願っただけです」
「ならば、他人の人生を踏み台にするべきではありませんでした」
イレーネの目に、怒りが浮かんだ。
「あなたにはわからないわ。愛されていない妻には」
その言葉は、きっと私を傷つけるためのものだった。
けれど、不思議と痛みはなかった。
私はもう、その場所を通り過ぎていた。
「ええ。私は夫に愛されませんでした」
私は静かに言った。
「ですが、五年間この家を支えた私の仕事を、誰にも否定させません」
「ひどい人」
「そうかもしれませんね」
私は微笑んだ。
「ですが、泣けば誰かが譲ってくれる時代は、もう終わりです」
イレーネは何も言い返せなかった。
*
監査の結果、ラウルは公爵位を一時停止され、王宮で審問を受けることになった。
エルヴェ家は取り潰しこそ免れたが、当主権はラウルの弟へ移された。
不正に流用された資金は回収され、イレーネの邸宅は差し押さえられた。
ノエルは、王宮の管理下で教育を受けることになった。
彼に罪はない。
だからこそ、大人たちの欲と嘘で人生を歪められるべきではない。
私は離縁を認められ、持参金の返還と慰謝料を受け取った。
そして、母方から相続予定だった小さな領地を正式に任されることになった。
それだけでも十分だった。
私はまだ二十四歳。
失ったものはある。
けれど、すべてを奪われたわけではない。
これから先の人生を、自分で選べる。
そのことが、何より嬉しかった。
*
最後にラウルに会ったのは、王宮の廊下だった。
彼は以前よりもやつれて見えた。
けれど、その目にはまだ、どこか私が許してくれると期待する甘さが残っていた。
「セレーナ」
「ラウル様」
「私は間違えた」
「はい」
「君がどれほどこの家を支えてくれていたのか、何も見ていなかった」
「はい」
「もう一度、やり直せないだろうか」
五年前なら、泣いていたかもしれない。
三年前なら、怒っていたかもしれない。
一年前なら、まだ迷っていたかもしれない。
けれど今の私は、ただ静かだった。
「無理です」
「なぜ」
「あなたは今も、私が戻れば自分が救われると思っているからです」
ラウルは息を呑んだ。
「私は、あなたを救うために生きているのではありません」
「セレーナ……」
「どうか、これからはご自分の帳簿をご自分でつけてください」
私は一礼し、彼の横を通り過ぎた。
もう、呼び止める声を待つことはなかった。
*
離縁から三か月後。
私は王宮監査院に招かれた。
フェルゼン卿は、私の前に一通の辞令を置いた。
「セレーナ様。王宮監査院で、会計監査の補佐をしていただけませんか」
「私が、ですか」
「あなたほど帳簿を読める方は、そう多くありません」
「私はただ、五年分を見続けていただけです」
「それができる人は、もっと少ない」
フェルゼン卿は穏やかに言った。
「あなたの記録は、多くの領民を守りました。橋の修繕費も、備蓄費も、使用人の給金も、あなたが帳簿を見ていたから失われずに済んだ」
私は言葉を失った。
ラウルは一度も、そんなふうに言ってくれなかった。
私がしていたことは、当然だと思われていた。
けれどこの人は、私の仕事を見てくれていた。
「お受けします」
私がそう答えると、フェルゼン卿は静かに頷いた。
「よろしくお願いいたします、セレーナ補佐官」
*
王宮監査院での日々は、忙しかった。
けれど、不思議と心は軽かった。
誰かの機嫌をうかがいながら食卓につく必要はない。
戻らない夫を待つ必要もない。
愛されていない理由を、自分の中に探す必要もない。
私は私の力で仕事をし、正当に評価された。
フェルゼン卿は、上司として厳しい人だった。
けれど、決して人を道具のようには扱わなかった。
「セレーナ補佐官、この支出をどう見ますか」
「名目は孤児院の修繕費ですが、支払先が宝飾商です。調べるべきです」
「同感です」
「こちらの契約は、相場の三倍です」
「では、商会の背景を洗いましょう」
彼と仕事をするのは、楽しかった。
互いに同じ帳簿を見て、同じ違和感に気づき、同じ方向を向いて調査を進める。
それは、私が結婚生活で一度も得られなかった感覚だった。
隣に立つ人が、自分を見下さない。
自分の働きを当然と思わない。
それだけで、人はこんなにも息がしやすくなるのだと知った。
*
ある冬の日、仕事を終えると、フェルゼン卿が監査院の玄関で待っていた。
「お疲れさまでした、セレーナ補佐官」
「ありがとうございます。追加の報告書でしょうか」
「いえ。今日は仕事ではありません」
そう言って、彼は小さな包みを差し出した。
中には、銀の栞が入っていた。
飾り気は少ない。
けれど、細やかな蔦模様が彫られていて、とても美しかった。
「帳簿に挟むには、少し上等すぎますね」
「あなたには、帳簿以外の本にも目を向けていただきたいと思いまして」
私は思わず瞬きをした。
フェルゼン卿はいつも通り落ち着いた顔をしている。
けれど、その耳がほんの少し赤かった。
「セレーナ」
「はい」
「私は、あなたの五年を哀れだとは思いません」
その言葉に、胸の奥が静かに震えた。
「あなたが守ってきたものを、尊いと思っています。あなたが積み重ねてきたものを、私は心から尊敬しています」
私は、栞を握りしめた。
かつて夫は、私の働きを当然のものとして受け取った。
けれどこの人は、私が積み上げてきたものを、ちゃんと見てくれている。
「ですから、これからの時間を、あなたが少しでも穏やかに過ごせるよう、私に隣で支えさせていただけませんか」
それは、若い令嬢が夢見るような情熱的な求婚ではなかった。
花束も、甘い言葉も、劇的なひざまずきもない。
けれど、私にはそれで十分だった。
いいえ。
それが、よかった。
「フェルゼン卿」
「はい」
「私は、一度結婚に失敗しております」
「存じています」
「かなり慎重です」
「望むところです」
「帳簿に不審な点があれば、すぐ確認します」
「むしろ安心です」
私は小さく笑った。
こんなふうに笑える日が来るとは、五年前の私は思っていなかった。
「では、まずはお茶からお願いします」
「喜んで」
フェルゼン卿が、そっと手を差し出す。
私は少しだけ迷ってから、その手を取った。
*
それから一年後、私はエリオット・フェルゼン卿と結婚した。
結婚式は、ささやかなものだった。
王宮の小さな礼拝堂で、親しい人たちだけを招いた。
豪奢な宝石も、派手な宴もなかった。
けれど、私の隣に立つ人は、誓いの言葉を口にする時、まっすぐに私を見てくれた。
「あなたの過去も、仕事も、誇りも、すべてを尊重します」
その言葉を聞いた時、私はようやく、長い間こわばっていた心がほどけていくのを感じた。
私は誰かの都合のよい妻ではない。
誰かの嘘を支えるための道具でもない。
私は、私のままで、大切にされていいのだ。
*
さらに二年が過ぎた。
春の朝、私は自分の領地にある小さな屋敷の庭で、帳簿を開いていた。
隣では、エリオットが揺り籠をのぞき込んでいる。
中では、生まれたばかりの娘がすやすやと眠っていた。
「セレーナ」
「はい」
「この子は、あなたに似て賢そうだ」
「まだ眠っているだけですよ」
「眠り方に品がある」
「親馬鹿ですね」
「否定はしません」
私は思わず笑った。
こんな未来があるとは思わなかった。
夫に「まだ子どもは考えられない」と言われ、外で家族を作られていたと知ったあの日。
私は、自分の人生がそこで終わってしまったように感じた。
けれど、終わってなどいなかった。
私はまだ若く、まだ選べた。
仕事も、家も、隣に立つ人も、これから育てていく家族も。
すべてを、もう一度、自分の手で選ぶことができた。
エリオットが、私の帳簿をのぞき込む。
「また仕事ですか」
「領地の春の収支だけです」
「無理はしないでください」
「ええ。今は、この子が起きるまで」
娘が小さく身じろぎした。
私は帳簿に栞を挟み、そっと閉じる。
銀の栞には、今も細い蔦模様が光っている。
五年分の帳簿は、かつて私を裏切りから救ってくれた。
けれど今、私を支えているのは、証拠だけではない。
私の仕事を尊重してくれる夫。
私の腕の中で眠る小さな命。
そして、自分の人生を諦めなかった過去の私。
夫が外で家族を作っていたことを知った時、私はすべてを失ったのだと思っていた。
けれど、本当に失ったのは、私を大切にしない人の隣に立つ義務だけだった。
そして残ったのは、五年かけて積み上げた私自身の力。
その力が、私をここまで連れてきてくれた。
私は娘の小さな手に指を添え、静かに微笑んだ。
もう、誰かの嘘のために生きることはない。
これからは、私を大切にしてくれる人たちと、正しい幸せを積み上げていく。
帳簿の一行一行を重ねるように。
今日も、明日も、その先も。




