紅
私は知っている――愛する貴方が、コソコソと女と会っていることを。
泳がせていたのは、敢えてのことだって。貴方はきっと気がついていない。そもそも私が浮気に気がついているとは、知らないのでしょうけど。
彼とは付き合って三年。節目とも言われる年でもある。恋から覚めるが早いか、愛に目覚めるが早いか。その分岐点。
彼は二個下の、後輩だ。
明るくて人懐こい、誰からも好かれるような人。嫌な顔をせず、書類を受け取ってサッと仕事をこなす。
そんな彼には、ファンクラブと呼ばれるものが存在した。
それぐらいに、出来る男。
何よりも、端正な顔立ちをしているのに柔らかく微笑むものだから……それはもう、自分の武器を知っているのだろう。
「上原先輩」
「なに」
「これってどういうことですか?」
「そんなのも分からないの?」
対して私は、可愛げもない。
なんなら、上司にしたくないナンバーワンとさえ言われる。威厳を保つためには、どうしたらいいのか。それを考えた結果が、この強い女だったのだが。
別に、好かれたいとは思ってないからどうでもいい。
それなのに、この彼は臆することなく付いてくる。もし犬ならば、喜んで尻尾でも振っているいるだろう。
その度に、コソコソと陰で囁かれる。
「上原先輩って、どんな人も従えるんだね」
「原くんの弱みでも握ってるんじゃ……」
聞こえてるわよ。
でも、そこは女だ。わざと、私に聞こえるようにしてきている。そんなのは、考えなくても理解できる。
分厚めのファイルを机に置いて、こちらもわざと音を立てた。
噂話をしていた彼女たちは、肩を震えさせて散っていく。
仕事しろ。仕事を。
「今日この後って、時間あります?」
「なんで」
今し方、持ってきたファイルを開く。
なんてこともないような内容で、必要だからという理由で確認作業をしている。
「今日、華金ってやつじゃないですか」
「……」
めんどくさい。
それに仕事を進めたいのに、わらわらと寄ってくる女がめんどくさい。うるさく喚くな、とすら思う。
だからこそ、ここでそういう話はよしてほしい。
現に、周囲の女どもは聞き耳を立てている。
もし二人で飲み会だというのであれば、阻止しようと試みているのだろう。
そんなのは、バレバレだ。
小さくため息をついて、横に座る彼に視線を移した。
「いいじゃないですか」
まさに、おやつを強請る子犬。
彼は、私がこの顔に弱いことを知っているのだ。
弱みでも握られているんじゃ? どっちが握っているんだか。
眉を歪ませ、顔を逸らす。
この顔を見ていたら、縦に首を振ってしまいそうで仕方がない。
私は怒っているんだから。
「原くん?」
「はい!」
「今仕事中」
話しかけるな。
線引きをしっかり引かれて、彼は諦めたようだ。
ほっと肩の力を抜けば、就業のチャイムが鳴り響いた。
彼が言ったように、華金。
早く帰って溜めていたドラマを観ようとする人や、飲みにいく人。今日は、残業をしたい人はいない。
私もできれば、したくない。いや、今日がというよりも、残業が。
「上原先輩」
また来た。君も懲りないね?
「仕事終わりましたよね?」
「だから?」
鞄にまとめ、サッと立ち上がる。
それに着いてくる彼は、本当に飼い主に従順な犬だ。
私が身長が低いせいなのもあり、背伸びをしても彼の頭に触れられない。上から見下ろされているのに、圧を感じないのは、彼の人柄の良さだろうか。
……でも、私は知っている。そんな彼も、裏の顔がある。ふわふわと見せる笑顔が、悪魔のような笑顔になる瞬間を。
「ねぇ。聞いてんの?」
誰も居なくなったエレベーターホール。
壁に曲げた腕をついて、顔寄せてくる。笑顔は消えて、真っ直ぐ私をいるこの瞳。
いつものように顔を背けたら良いのに、この瞳に捕まったら反らせない。
「……聞いてる」
「美優は、俺のこと何で無視すんの」
「べつに。仕事だったんだもの」
うそ。仕事以上に、貴方に嫉妬している。
ふわふわとした柔らかい笑みをばら撒いて、いろんな女の視線を掻っ攫っていくのに。
しかも、どこぞの知らぬ女と会っているのだ。
許せるわけがない。
でも、まだ証拠が不揃い。泳がせておくが吉。
「美優」
大きな体を屈めて、耳朶をはむ。低音の声が耳に直接吹き込まれ、脳が痺れる。
甘く囁かれたのは、私の名前だけ。それなのに、ズンッと痺れが溜まる。
「行くよな」
有無を言わさぬ物言い。この声には、抗えない。
「……いく」
その言葉で良しとしたのか、解放をされた。
近づいていた温度が消え、いつも見せる柔らかな微笑みを浮かべた彼と目が合う。
うっ。
「早くして」
ここでこれ以上は、嫌だ。自分がおかしくなる。
◇
休日を経て、また職場。
なぜ、週休二日しか休みが無いのだろう。もっとゴロゴロとさせて欲しい。
こんなにも身を粉にして働いているのだから、少しぐらいゆっくりしてもバチは当たらないだろう。
帰ったら、プリンでも食べようかな。
そんなつまらないことを考えていた矢先、例のエレベーターホールで彼が女と抱き合っていた。
真っ赤なネイルをして、七センチはありそうなピンヒール。身長は元から高いだろうその女は、彼の肩に顔を埋める。
まぁ、昼間っから。堂々と?
職場では、二人の関係性を隠してきた。
彼がフリーだと考えて、告白をしてくるなんてことはしょっちゅう。さらに、こうやって抱きつかれて……なんてこともある。
でも、これは違う。
女の勘がそう、訴えている。
コソコソと女と会っているのを知っている、というのも先週の休日に指を絡ませて女とデートをしていたのを目撃している。
驚きのあまり、少し付いて回った。
何事もなく過ぎていくので、杞憂かと身を翻そうとした。その時――彼女の唇と合わさった。
紛れもなくこれは、浮気。
しかもこれが、女が無理に……というのであれば話は別。目撃したのは、彼からキスを落としたのだ。
怒りを通り越して、涙が溢れてきた。
それを無理に拭って、何とか家に帰ってきた。一人になれば冷静になるかと思ったが、そんなことはなかった。
怒りに変わり、どう女を突き止めようか。そんなことに変わっていた。
ふっと離された彼女は、紛れもなくあの時の女。
やっぱりね。
カツカツと、音を立てて歩みを寄せる。
現場を押さえたら、もう言い逃れはできないはずだ。
どんなにあの目をされても。
どんなに柔らかい笑みをされても。
どんなに低く溶ける声で囁かれても。
許してあげないんだから。
怒りに任せていて、関係性を隠していることなんてすっかり忘れていた。
「ちょっと?」
ハッとなった女は、私の顔を見るなり青白くなる。
そうなって当然。
私に至っては、彼女とは反対に怒りで真っ赤に染まっていることだろう。
女の顔はどうでも良い。
ブスだとも思わないし、若い方がいいとも思わない。
そんなことよりも、浮気に至った経緯が知りたい。
睨み上げれば、彼は悦に浸るような顔をしている。それは睦言の時とは比べられないほど、悦びに満ちている。
うっすらと開いた口は、赤い舌で唇をなぞった。
なに?
この人が何を考えているのか、全くわからない。
「美優。ここじゃ話せないだろうから、今夜……ゆっくりと」
◇
シックで落ち着いた部屋。
黒単色ではなく、差し色に白を使っているからか暗くない。
そんな部屋で、机を挟んで腰を下ろしている。
朝見たような表情ではなく、唇は引き結んで。
子犬の尻尾は、だらんと垂れ下がっている。いかにも反省してます風の姿勢をとっている。
ますます、彼の思考が読めない。
「ごめん」
謝るなら、やらなければよかったんじゃないの?
そう思うのに、声にならない。
怒りなのか、はたまた、分からない彼への恐怖心か。
突き止めてやる、なんて思っていたはずなのに。その先なんてまるで考えていなかった。
突き止めて……別れたかった? そんなことはない。
だって、愛してる。
絶対に離してやるものか。
徐に立ち上がって、ワインを持ってきた。
大きな手には、二つのワイングラスとボトル。空気を含ませて注がれたワイングラスを一つ、私の前に置かれた。
そんな気分じゃない。
ジトっと舐めまわし、喉を嚥下させた。
「取り繕うっていうの?」
「違う」
「じゃあ、どうして――」
そう言いかけて、目を見開いた。
見下ろす彼の瞳には、光が無い。絶対零度の表情が、背筋を凍らせる。
罪を犯したのは、彼なはずなのに。
まるで私が悪いみたい。
息を吸うのも制御されているようで、苦しくなってくる。金縛りのようで、体は動かせない。
「飲んで」
ようやく動きを許されたと思えば、それだ。
上司にしたく無いナンバーワンって、誰のことだったっけ。絶対に、私じゃない。
重たい右腕を動かして、ワイングラスをとる。
震える唇をつけて、ワインに口をつけた。
味なんてこの状況で、分かるはずもなく喉を走らせて、胃に落とし込んだ。
これ以上は、文句ないだろう。
握ったグラスを投げるようにして、中の液体を彼にぶちまけた。
真っ白で丁寧にアイロンをかけられたシャツ。
擦り寄られて彼女の香りでも移っているのだろうそのシャツは、赤いシミを作っている。
赤紫の液体は、じわじわと広がっていく。
心を蝕む嫉妬のよう。
うん?
ポタリ、ポタリ……唇から滴るのは、生温かい液体。
自分の唇を拭えば、ワインよりも赤い血。
咽びかえる程の血生臭さに、襲われる。
目の前が霞、白いフィルターをかけられていく。
その先で、ふわりと笑う悪魔の笑み。
「美優、愛してるよ」
形のいい唇が、ワイングラスにつく。全て煽り嚥下をしたかと思えば、大きな手のひらで頬を包まれた。
この温かな、手のひらが好きだった。
「美優」
この低音に響く声が、大好きだった。
どこまでも離さない瞳が、愛おしい。
「どこまでも、一緒だから。嫉妬を見せる君は、世界一美しい」
その声を聞いて、私の瞼は落ちた。




