第一部 第一章 第十四話 で、て、こ、い、キャシャ~ン! アイアイサ~!
シャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャン。
極北の氷の表面をトナカイがかき、滑るようにしてあれが近づいてくる。だんだんと鈴の音が間遠になり、やがて止んだ。お迎えが来たのか。
血に染まった赤い赤い服を着たサタンが、骨だけのトナカイが曳くぼろぼろの幌馬車に乗って、決してたどり着く港のない呪われた永遠の航海へと旅立とうとしている。俺がこれを呼んだのか。それはすぐそこでカラカラと停まる。
「待ってくれ、俺はまだやらなければならないことがあるんだ。まだその馬車には乗れないんだ」
そう叫ぶ俺をサタンはのったりと振り向き、見下すように言った。
「お前にそれができるのか? そもそもそれをする資格がお前にあるのか?」
俺はその言葉に、とっさに返事することはできなかった。返す言葉を胸のうちでおろおろと探す俺を見限って、馬車は走り出した。トナカイに鞭をくれてやりながらサタンは朗々と歌いだす。
「デイジー、デイジー、教えて、おくれ~。気~が~狂いそうになるほど君が好き~」
田島令子に良く似た声で謡いながら、俺の船乗りの、鯨打ちの心をその甘い歌でさらっていく。ああ、鈴の音が細かい欠片を撒き散らし、分厚い氷を突き抜け、昏い海の底にたゆたう安寧へ向かって逃げてゆこうとしている……。
「急速潜行、潜舵下げ最大、全ベント開け! 機関全速! 手の空いているトナカイは船首に走れー。ハッチも閉じろー」
待ってくれサタンさん、俺はあんたにおねだりしたいものがひとつだけあるんだ……。
シャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャン。
俺のスマホのストラップについているダルマさんの中には鈴が入っている。その鈴が一定のリズムで鳴っていた。軽く上下動しながら俺は結構なスピードで、空を見ながら移動しているようだった。
「これでも飲んで、とりあえずは体を温めることだわ」
差し出された汚れた錫のカップには、アザラシの血に脂肪を溶かし込んだものが並々と満たされていた。その甘くねっとりした液体を俺は時間をかけ、しかし一息で飲み干すと、深く深く息を吐いた。
見回すとその狭い室内は、氷を積み上げ海獣の骨で要所を支え、内側を動物の毛皮で裏打ちして作られた粗末な薄暗い小屋の内部だった。
俺は裸で、床に厚くしかれた毛皮に重ねられるように寝かされていた。そして俺の体をぴったりと覆うようにして、薄黒く乾ききった80代後半と思われる全裸のババアが添い寝していた。
「お若いの。どうだい、もう一杯」火照った温もりでいざなうように、その見知らぬババアは、そう俺を誘った。
夜になって外では北風が荒れ狂いだした。一瞬たりとも止まない風はビヒョウともウゴゾゾゥとも聞きとれる。
俺の腕枕でババアはしんねりとしている。獣脂で作った蝋燭が一本だけ、汚れた小屋の中を薄暗く、だがそれなりの距離を保ちつつ、訳知り顔に俺たちを照らしている。
「こんな歳になっても食うもの食わなきゃ生きてけない。こんな歳になっても例えひとりぽっちでも生きたいって思っちまうあたしゃつくづく業が深いんだねぇ。ま、でもそのお陰でこうして人肌が温かいんだってこと思い出させてもらってるわけだけどさ。やるせないね」後れ毛をかきあげながらババアがもらした。
「ま、アザラシを撃ちに行った先で、たまたまあんたを見つけて犬ぞりに乗っけてここまで運んできたってわけさ。それだけの話。それ以上でも、以下でもなかったってことにしとこうや」体を反転させ、肘をつき両手で顎を支えながら続けるババア。
「体は半分凍ってたし、火傷も打ち身もひどそうだ。あんたのいたいだけここにおりんさい。贅沢いうんでなけりゃあんた一人くらいどーにでもあたしが食わせてやるからさ」
顔を正面に向けたまま艶然と笑うババアの、蝋燭の明かりを受けた金歯に嘯いた光はなんだったのか。
ぼんやりと俺は、それもいいかもしれないと思う。何もかも忘れてこのまま、極地で暖かなぬくもりに包まれて、いつか、いつの間にか死んでいくのも。数年ぶりに俺は安らかな気持ちでぬるい眠りに落ちていく。どこか遠くから誰かの声が聞こえる。「ねえ、あんた寝ちゃったのかい。なんだい幸せそうな顔しちゃってさ……」何言ってんだババア、俺はまだ寝ないよ。まだ眠るわけにはいかないんだから。なあ「生萌……」。
「起きな! いつまで夢見てんだい」
その声で俺は半ば凍りついたまぶたをこじ開けた。いつの間にか朝が来ていた。
「準備はできてるよ。とっとと起きて朝飯食って、さっさと出かけな」
ババアにせかされるまま、アザラシの乾し肉と臓物の入った血のスープを腹に詰め込んだ俺に、ババアはグリップに髑髏のレリーフをあしらった、リボルバーの銃を差し出してきた。
「これはあたしの息子が置いてったやつさ。あんたにゃ誰か大切な人間がいるんだろ。あんた男だろ。男にはやらねばならない時があるのさ。さ、これを持ってとっとと出ていきな」
何も聞かず、何も言わず、その銃を受け取り俺は流木を組み合わた戸を押し開け、白銀の世界へセグウェイを進めた。ありがとうババア。危なく俺は何もかも手放してしまうところだった。それでもとぼとぼとセグウェイを走らせてしばらく、ちらと振り返ると、遠くに小屋とババアがかすかに見えた。しょせん俺はちょっと振り向いてみただけの異邦人。ここは俺の居場所ではない。
あばよババア。縁があったらこことは違う地獄で会おうぜ。心の中でそうつぶやき、俺は別離の挨拶がわりにババアからもらった銃を空に向け引き金をしぼった。
ズキューソ!
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド
だるまさんがころぶくらいの間をおいて大きな、しかし低い響きと、足元から伝わるうねるような振動とともに雪崩がやって来て、俺を、ババアの小屋を、ババアを、すべての景色を、一切をからめとっていった。
ジムの野郎め! そう思うのがやっとの間しか俺にはなかった。
(次回予告)またしてもジムの策略にはまってしまったタフネス大地に立つ! しかし彼はその後のジムの意外な消息を、知らずにいた。やはりすべての鍵をにぎるのは指輪。アナタは婚約指輪をちゃんと補完してますか?




