第九話 卒業 前
投稿遅れて申し訳ないです!
春の少し冷たい風が、開け放たれた体育館の扉から吹き込んでくる。
校長の話も、在校生代表の送辞も、どこか遠くの出来事のように耳を通り過ぎていった。ただ、手渡された卒業証書の入った丸い筒の感触だけが、妙に生々しく掌に残っている。
「終わっちまったな」
教室に戻り、最後のホームルームを終えた後。
がらんとした廊下を歩きながら、俺は、ぽつりと呟いた。
壁に貼られた色褪せたポスター、窓から見える見慣れたグラウンドの景色。入学した時はあんなに長く感じた三年間が、嘘のようにあっという間に過ぎ去ってしまった。
明日からはもう、この制服を着て、この廊下を歩くこともない。そう思うと、胸の奥に小さな穴が空いたような、ちくりとした名残惜しさが込み上げてくる。
「……ま、感傷に浸ってる暇はないか」
俺は小さく首を振り、歩みを早めた。向かう先は、俺の高校生活のもう一つの青春が詰まった場所——ラーメン部の部室だ。
プレハブ小屋の古びたドアを開けると、換気扇に染み付いた豚骨と醤油の香りがふわりと漂ってきた。
「輪ぁぁぁぁっ!! 卒業だなぁぁぁっ!!」
ドアを開けるなり、鼓膜を突き破らんばかりの大声と共に、巨体が突っ込んできた。
ラーメン部において俺の唯一の同級生であり、悪友の中間龍磨だ。奴はすでに顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙と鼻水を流している。
「うおっ、バカ、鼻水つけんな!」
「だってよぉ! 明日からお前がいねえ部室で、誰がスープの味見すんだよぉ!」
「お前がやるんだよ! ってか俺たち一緒に卒業だろうが!」
俺と龍磨のやり取りを見て、部室の奥に並んでいた後輩たちが一斉に笑い声を上げた。
ラーメン部はマニアックな活動内容のせいか、同級生は俺と龍磨の二人だけ。あとは全員、下級生だ。むさ苦しい男子部員が五人、そして、女子部員が二人。
「先輩、ご卒業おめでとうございます」
「おめでとうございます、輪先輩、龍磨先輩」
女子部員である二年の美月と、一年の陽菜が、花束を抱えて近づいてきた。
むさ苦しい空間に咲く一輪の花、ならぬ二輪の花である彼女たちには、本当に癒されたものだ。
「ありがとう。お前らも、これからも美味しいラーメン作ってくれよ」
「はいっ。……あの、輪先輩」
美月が一歩前に出た。彼女は少しだけ頬を赤く染め、もじもじと制服のスカートの裾を握りしめている。
いつもはテキパキとなんでもこなす彼女が、らしくない態度だ。
「ん? どうした?」
「あの……私、ずっと前から、輪先輩のことが……その……」
美月の潤んだ瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。
部室の空気が、ふっと静まり返る——かに思えた、
その時だった。
「うおおおおおっ! 輪せんぱぁぁぁい!! 龍磨せんぱぁぁぁい!!」
「俺たちを置いていかないでくださいよぉぉぉっ!!」
空気を一切読まない男子後輩五人が、入口からダムが決壊したかのように泣き叫びながら、俺と龍磨に雪崩れ込んできたのだ。
「ぐはっ!?」
「お、お前ら、暑苦しい!! 離れろ、汗臭い!!」
「嫌っす! 先輩たちの魂の豚骨スープ、俺たちが絶対守り抜きますからぁぁっ!」
「だから泣くな! お前らの涙でスープが塩っぱくなるだろ!」
狭い部室の中で、男七人が折り重なるように揉みくちゃになる。涙と汗と、微かな豚骨の匂いが入り混じった、酷くむさ苦しい空間。
ふと視線を向けると、突き飛ばされた美月が、呆れたような、でもどこかホッとしたような、寂しそうな笑顔を浮かべていた。
彼女は小さく「……やっぱり、ラーメン部はこのノリですよね」と呟くと、持っていたタオルを俺の顔にバサッと投げつけた。
「輪先輩! さっさとその顔拭いてください! 卒業証書が汗まみれになりますよ!」
「お、おう、悪い……」
結局、美月が何を言おうとしていたのかは聞けずじまいだった。だが、この騒がしくて暑苦しくて、最高にバカな連中との別れが、どうしようもなく愛おしかった。
「お前ら……最高の一杯を、いつか俺に食わせろよな!」
「「「はいっ!! ご馳走様でした!!」」」
部室に響き渡る、気合の入った挨拶。
こうして、俺の高校生活と、愛すべきラーメン部との日々は、文字通り汗と涙にまみれて幕を閉じたのだった。
♦︎♦︎♦︎
——そして、夜。
昼間の喧騒と温かな余韻は、冷たい夜風と共に完全に消え去っていた。
街外れの廃工場。街灯の光すら届かない薄暗いその場所で、俺は静かに息を整えていた。
昼間の『高校生としての卒業』は終わった。
だが、俺にはもう一つ、終わらせなければならないものがある。
「……来たか、輪」
暗闇の奥から、低く、地を這うような声が響いた。
靴音が一つ、また一つと響き、月明かりの下にその男の姿が浮かび上がる。
圧倒的なプレッシャーと、鋭く研ぎ澄まされた刃のような殺気。俺の師であり、超えなければならない壁——我藤だ。
「昼間は随分と平和なツラをしてたじゃねえか。ガキのお遊びは終わったか?」
「ああ。おかげで、未練なくこっちの世界に集中できる」
俺は制服から着替えた動きやすい服の裾を絞り、拳を強く握りしめた。
我藤は短く鼻で笑うと、ゆっくりと構えをとった。それだけで、周囲の空気が重く張り詰める。肌が粟立ち、生存本能が警鐘を鳴らす。
「今日で、俺のお遊びの指導も終わりだ。お前が生き残れるだけの力を持ったか……試してやる」
我藤の目が、獲物を狩る獣のそれに変わった。
「来い、輪。——『卒業試験』を始めようか」
夜の静寂を切り裂き、俺のもう一つの卒業が、今、幕を開けた。
次話は明日更新予定でございます




