第七話 真夜中の特訓
意識が浮上すると、ひどく無機質な白い天井が視界に広がった。
身体を動かそうとして、筋肉の奥底から込み上げるような鋭い痛みに顔を歪める。指先一つ動かすのにも、まるで全身に鉛を括り付けられているような錯覚を覚えるほどの倦怠感だった。
「……ようやく気がついたか」
静謐な空間に、氷のように冷たい声が響いた。
痛む首を僅かに動かして視線を向けると、壁際に腕を組んで立っている男の姿があった。仕立てのいい白の制服に、鋭い琥珀色の瞳。俺をこの学園の入り口まで案内した執行者、レイだ。
「レイ……ここは?」
「天令の医療棟だ。お前は丸二時間、死んだように眠りこけていた」
丸二時間。その言葉を聞いて、俺は自分が置かれている状況を急速に理解し始めた。
俺はあの大理石のホールで行われた儀式の最中に、自らの内側から溢れ出した漆黒の鎖を制御しきれず、完全に意識を飛ばしたのだ。
「悠真は無事なのか。周りの連中にケガは……」
「お前の友人は無傷だ。他の生徒たちも、クウア様が即座に防壁を展開したおかげで危害は及んでいない。だが、ホールは修復に数日を要する有様だ」
レイは淡々と事実だけを告げた。その瞳は俺を咎めるでもなく、ただ得体の知れないものを観察するように細められている。
「あれは創造神とのパスによる恩恵というより、あれは自己を破滅に導く呪いの類だ」
冷酷な評価だった。だが、反論の余地はない。俺自身、あの圧倒的な質量の前に何一つ手出しができず、ただ振り回されただけだったのだから。
「じゃあ、俺は合格取り消しなのか」
「本来ならな。記憶を消去されて元の世界に放り出されても文句は言えない事態だ。だが、お前は運が良かった。クウア様が、お前のその歪な力に興味を持たれた」
レイは壁から背を離し、ベッドの脇まで歩み寄ってくる。
「四月の入学までに、その力を最低限制御できるようになること。それが、お前がこの学園の門を正式に潜るための絶対条件だ」
俺は無言で頷いた。ここで追い出されるわけにはいかない。理想の結末を掴み取るための力を求めた結果がこれでは、あまりにも惨めすぎる。
「本来なら推薦者である俺が基礎を教えるところだが、生憎と執行者の任務が立て込んでいてな。それに、お前のような荒削りな力は俺のスマートな戦術には合わない」
レイが入り口のドアへ視線を向けた。
「だから、適任者を呼んだ。お前の特別教官だ」
重々しい音を立てて、病室のドアが開かれた。
そこに立っていたのは、無精髭を生やし、草臥れたコートを羽織った男だった。その姿には、見覚えがある。
「よォ。まさかあの時のガキが、ここまで厄介な代物を抱え込んでるとはな」
低く、腹の底に響くしゃがれ声。以前、俺の高校で遭遇した荒くれ者の執行者、我藤だった。
「ご指名に預かった我藤だ。レイから押し付けられた時は面倒な貧乏くじだと思ったが……あの暴走の跡地を見て気が変わった。あのイカれた代物、俺が直々に躾てやる」
我藤はベッドに近づき、肉食獣のような鋭い眼光で俺を見下ろした。その全身からは、レイとは全く異なる、血と泥にまみれた実戦特有の気配が漂っている。
「だが、お前はまだ学生だ。昼間は現実世界で高校生をやらなきゃならねぇ。俺も執行者としての任務がある。だから、俺がお前を指導できるのは夜だけだ」
我藤の言葉が、病室の空気を一段と重くした。
「昼は学校に通い、夜は俺と特訓だ。睡眠時間なんてろくに取れねぇし、骨の二、三本は折れる覚悟をしておけ。四月までの九ヶ月間、俺の指導に耐え抜いてみせろ。できなきゃ死ぬか、記憶を消されるかだぞ。どうする?」
突きつけられたのは、過酷な二重生活の宣告だった。
普通の高校生としての日常と、文字通り命を削る非日常の往復。だが、俺の心に迷いは一切なかった。誰かを守り、理不尽な悲劇を退けるためには、あの暴力を完全に飼い慣らす必要がある。
「……やってやるよ。あんたが、俺のしぶとさに音を上げるくらいにな」
俺が真っ直ぐに見返して宣言すると、我藤は口角を深く吊り上げた。
「ハッ言ってくれるじゃねぇか。なら、とっとと起き上がれ。今夜からさっそく地獄の底を案内してやる」
♦︎♦︎♦︎
その日の深夜。
俺たちは現実世界に戻り、街外れにある人気のない山奥の廃工場跡地に立っていた。
周囲には我藤によって人払いと防音の結界が張られており、木々のざわめきすら届かない、外界から完全に隔絶された空間が作られている。空気は肌寒く、吐く息が白く濁った。
「いいか、まずはその力を一本だけ、手のひらから出してみろ。長さは十センチでいい。それ以上は引き出すな」
工場の中央に立ち、我藤が短く指示を出した。
俺は頷き、目を閉じる。意識の奥底へと深く潜り込み、あの儀式の時に触れた黒い深淵へとアクセスを試みる。
途端に、心臓の鼓動が早鐘のように打ち始め、全身の血が沸き立つような錯覚に襲われた。皮膚のすぐ下を、熱く重い何かが這いずり回る。
右手へと意識を集中させる。十センチ。たったの十センチだけ、形にする。
気合いと共に、右手のひらから力を解放した。
だが、それは俺の甘い目論見を容易く打ち砕いた。
手のひらから溢れ出した漆黒の鎖は、十センチに留まることなく一気に肥大化し、大蛇のようにのたうち回った。俺の制御を完全に無視して空間を薙ぎ払い、足元のコンクリートを紙屑のように粉砕する。
その尋常ではない引力と質量に引っ張られ、俺の体はあっけなく宙を舞い、背中から冷たい地面に激しく叩きつけられた。
「かはっ……」
肺から空気が強制的に押し出され、視界が明滅する。
「おいおい、十センチって言っただろうが。なんだその馬鹿デカい鉄塊は」
地面に這いつくばって咳き込む俺を見下ろし、我藤が呆れたように頭を掻いた。暴走した鎖は、主である俺が意識を乱したことで霧散し、空気中へと溶けて消えていた。
「いいか、お前のソレはただの武器じゃない。」
「わかっ、てる……。でも、言うことを……!」
「聞かねぇなら、体に叩き込むまでだ」
「まずは、その力に振り回されないだけの基礎体力と耐久力からだ。あの馬鹿げた質量を操るには、まずお前自身の器を広げる必要がある。死なない程度に痛めつけてやるから、歯を食いしばれよ」
我藤が一切の容赦なくその拳を振り下ろす。
俺が咄嗟に横へ転がって躱すと、先程まで頭があった場所の地面が大きく抉り取られる。舞い上がった土砂と凄まじい風圧だけで、立ち上がろうとした体が再び吹き飛ばされた。
「ほら、休んでる暇はねぇぞ! 立てッ!」
夜の闇の中に、我藤の容赦ない怒声が響き渡る。
全身の骨がきしむような痛みの中で、俺は必死に地面を蹴って立ち上がった。相手は本物の執行者だ。少しでも気を抜けば、本当に命を持っていかれる。
恐怖よりも、自らの力の無さに対する不甲斐なさが勝っていた。この理不尽な暴力に耐え抜き、己の力を支配下に置かなければ、何も守れない。
「まだまだ……これからだろっ!」




