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第三話 覚悟と心

白い靄が、家庭科室前の廊下を異界へと塗り替えていく。

 その中心に立っていたのは、一見するとどこにでもいそうな、線の細い()()だった。

 制服はこの学校のものだが、どこか古めかしい。俯いた顔は前髪で隠れ、表情は読み取れない。

 だが、その輪郭はテレビのノイズのように絶えず揺らぎ、存在そのものが不安定であることを告げていた。


「……ねぇ」


 少年が口を開く。それは、擦り切れたカセットテープのような、掠れた声だった。


「きみ、僕を助けてよ」


 懇願。あるいは、呪詛。

 その言葉に含まれる重圧に、俺は喉を凍らせた。

 助ける? 何を? どうやって?

 目の前にいるのは、明らかに生きた人間ではない。理屈の通じない化心体という概念だ。

 俺が、そして星名星羅が、何も答えられずに硬直していた、その数秒間。

 それが、少年を絶望させるには十分な時間だったらしい。


「……そう」


 少年がゆっくりと顔を上げる。

 そこには、目も鼻もなく、ただ漆黒の闇が広がる空洞があった。


「まだ、僕は救われないんだァッ!!」


 少年の絶叫が、物理的な衝撃波となって炸裂した。

 廊下の窓ガラスが一斉に粉砕され、破片が雨のように飛び散る。

 俺は咄嗟に腕で顔を庇い、踏ん張った。

 硝子の雨が降り止んだ時、そこにいたのは、もう青年ではなかった。

 悲哀に満ちた姿は膨張し、歪み、肉と怨嗟を継ぎ接ぎしたような異形へと変貌していた。

 天井に届くほどの巨躯。右腕だけが異常に肥大化し、赤黒い血管が樹木の根のようにビキビキと脈打っている。


「くっ……狂化が進んでる!」


 星羅が俺の前に立ち、脂汗を流しながら叫ぶ。

 彼女は片手で何かの印を結ぼうとしているが、指先が震えて定まらない。


「聞いて! 実習監督者が近くにいるはず。この規模の異変なら、絶対に感知して駆けつけてくるわ。それまで耐えるのよ!」


 それは俺への指示であり、同時に恐怖に呑まれそうな自分自身への言い聞かせのようにも聞こえた。

 彼女は早口でまくし立てる。


「ねぇ、何かこの学校の怪談とか噂、知らない!? 知ってるでしょ、あなたここの生徒なんでしょッ! 化心体は元になった伝承が弱点になることがあるの!」

「う、噂って言われても……!」


 俺は必死に記憶を探る。だが、オカルトなんて、一番縁遠い世界だ。


「わかんねぇよ! 俺はそういうの詳しくないんだ!」

「使えないわねッ!」


 星羅が焦燥を露わにする。

 マズい。何をしでかすか分からない化け物を前に、思考が空回りする。

 俺は星羅の背中に叫んだ。


「あんたのスターレイみたいなので倒せないのか!?」

「倒せる見込みがあったら、とっくにやってるわよ!」


 彼女の悲鳴に近い返答。

 そうか。物理的な攻撃は破壊者には効いても、人の心から生まれた化心体には相性が悪いのか、あるいは――単純に、今の彼女の火力では足りないのか。


「アァァ……アァァァァッ……」


 異形が呻き声を上げる。

 肥大化した右腕が、さらに一回り大きく膨れ上がる。筋肉繊維がブチブチと千切れる音、骨が軋む音が、ここまで聞こえてくる。


「僕を助けてくれないなら……あなたたちなんか、イラナイ」


 殺意の塊。

 その巨大な腕が、ハンマーのように振り上げられた。


「逃げ――」


 俺が叫ぼうとした瞬間には、もう腕は振り下ろされていた。

 速い。巨体に見合わない、理不尽な速度。

 死ぬ。

 そう直感した。

 ドゴォォォォンッ!!

 轟音と共に、廊下の床が爆ぜる。

 だが、俺には痛みはなかった。

 瓦礫と土煙が晴れた時、俺は無傷で立っていた。


「……え?」


 俺の目の前に、誰もいない。

 さっきまで俺の前に立っていた星羅の姿がない。

 視線をずらす。

 遥か後方、吹き飛ばされた家庭科室の扉の向こう、壁を突き破って反対側の壁にめり込んでいる黒い制服の姿が見えた。


「星羅ッ!?」


 彼女が、俺を突き飛ばしたのか?

 あまりにも一瞬の出来事だった。彼女は自分の身を守る魔法ではなく、俺を庇う選択をした。


「かはっ……ぐ……ぅ……」


 瓦礫の中で、星羅が苦しげに血を吐く。

 彼女はふらつく足取りで、それでも立ち上がろうとしていた。

 制服はボロボロに破れ、白い肌には痛々しい擦り傷が刻まれている。


「なんで……なんで俺をッ?」


 俺の問いに、彼女は血のついた唇で笑ってみせた。強がりと、誇り高い意志を乗せて。


「私たちの役目は……一般人を守ることよ。それが、()()()であっても……それは変わらない!」


 彼女は震える手を掲げ、多数の球を展開する。


「それに、あなたはまだ……身体強化もまともにできていない素人じゃない。私はエリートなんだから……あなたを守りながら戦うことくらい、できるのよッ! ――『流星雨(スターレイ)』!!」


 彼女の指先から、再び光の雨が放たれる。

 だが、威力は先ほどより遥かに弱々しい。

 光弾は巨体に吸い込まれるように命中するが、その分厚い皮膚を焦がすことさえできなかった。まるで、焼けた鉄板に水鉄砲を撃っているようだ。

 何も起こらなかった。

 いや、最悪の結果だけが起こった。

 異形の虚ろな顔が、ゆっくりと星羅の方へ向く。


「……ジャマヲ、スルナ」


 ターゲットが、変わった。

 巨体が、傷ついた星羅へ向かって動き出す。

 彼女はもう、避ける力も残っていない。膝をつき、迫りくる死をただ見上げている。

 助けたい。

 俺の足が、恐怖で竦む。

 行っても無駄だ。俺の拳じゃ、あいつには届かない。星羅ですら通じなかったんだ。俺が行ったところで、二人まとめてミンチになるだけだ。


『――違うだろ』


 脳裏に、声が響いた。

 それは幻聴か俺自身の魂の叫びか。


『お前の理想はなんだ』


 ハッピーエンドが好きだと言った。

 誰も泣かない結末を望むと言った。

 そのために、手を伸ばしたいと願ったはずだ。

 俺には、その理想へと向かう覚悟ができていなかった。

 力があれば救えると思っていた。

 違う。

 救うために力を使うんじゃない。

 救うという「意志」が、力を形にするんだ。


()()

 その言葉が、熱を持って心臓を焼く。

 その力を行使する覚悟。

 人を救う覚悟。

 そのために、傷つき、泥に塗れ、それでも前に進む覚悟。

 今、理解した。

 そして今、覚悟は決まった。

 

 心臓が爆発的に脈打ち、全身の血液が沸騰するような感覚が戻ってきた。

 昨日のあの熱だ。いや、昨日よりももっと熱く、確かな芯の通った熱量。


『――飛べ』

 俺は地面を蹴った。

 コンクリートが踏み込みの圧力で粉砕される。

 一歩で数メートル。弾丸のような速度で、巨体と星羅の間に割って入る。

 振り上げられた巨大な拳が、星羅を押し潰そうとしていた、その刹那。


 俺は星羅の前に着地し、仁王立ちになった。


「――バカっ、なんで来たのよッ!」


 背後で星羅が叫ぶ。

 俺は視線を逸らさず、迫りくる絶望の拳を見据えて笑った。


「救うためだ」


 それ以外の理由なんて、必要ない。

 俺は右拳を引き絞る。

 全身のバネ、筋肉、そして魂のすべてを右腕一点に集中させる。

 イメージしろ。

 目の前の怪物を殴るんじゃない。

 この理不尽そのものを、ぶち砕くイメージだ。

 バッドエンドという分厚い壁を突き破り、その向こう側にある青空を掴み取るように。


「おおおおおおおッ!!」


 異形の巨大な拳が、俺を押し潰そうと迫る。

 俺はその圧力に屈することなく、真っ向から右拳を突き出した。

 インパクトの瞬間。

 俺の拳と、怪物の拳が衝突する。

 質量差は歴然。普通なら、俺の腕がひしゃげて終わりだ。

 だが、俺の拳には、物理法則を超えた「意志」が乗っていた。

 空間が歪むほどの衝撃波が発生した。

 俺の拳が怪物の皮膚に触れた瞬間、そこから黄金の亀裂が走った。

 衝撃は表面で止まらない。怪物の巨大な腕を貫通し、その巨体全体へと波及する。


「消えろぉぉぉぉぉぉッ!!」


 俺が咆哮と共にさらに踏み込むと、怪物の巨体が内側から弾けた。

 肉片が飛び散るのではない。

 黒い霧となり、光の粒子となって霧散していく。

 巨大な腕も、醜悪な肉体も、俺の一撃によって消し飛ばされた。

 後に残ったのは、しぼむように小さくなっていく影だけ。

 それは、元の青年の姿へと戻り、床に崩れ落ちた。

 俺は荒い息を吐きながら、青年のもとへ駆け寄る。

 その体は、足元から徐々に透け始め、消えようとしていた。


「……はぁ、はぁ……」


 俺の手が震えている。

 殴った感触は残っている。

 俺が、殺したのか?

 たとえ人ではなくとも、化心体という概念だとしても。

 心を持ち、助けを求めていた者を、俺はこの手で消滅させたのだ。


「……とう」


 消え入りそうな声が、俺の耳に届く。


「えっ」


 俺は顔を上げた。

 青年は、透けていく身体の中で、穏やかに微笑んでいた。

 さっきまでの怨嗟に満ちた表情ではない。憑き物が落ちたような、安らかな顔だった。


「ありがとう。僕を……救ってくれて」


 その言葉に、俺は言葉を詰まらせた。


「なんで……俺は君を、消してしまったんだぞ」

「いいんだ。これでやっと……僕は、終わることができる」


 彼は満足そうに目を細めた。

 ずっと、誰かに止めてほしかったのかもしれない。

 狂った心のまま暴れ続けることよりも、こうして力づくで幕を下ろされることを、彼は望んでいたのかもしれない。


「ありがとう……やっと……」


 最後まで言い切ることなく、青年の姿は光の粒となって空気に溶けた。

 後には、静寂だけが残された。

 俺は自分の拳を見つめた。

 痛みはない。だが、そこには彼を殴った感触と、彼を「終わらせた」という重みがずしりと残っていた。

 苦しい。

 人を救うというのは、ただ笑顔にするだけじゃない。

 時には、その痛みを終わらせるために、罪を背負うことでもあるのだ。

 だけど。

 俺は拳を強く握りしめた。

 覚悟はした。

 胸の奥が軋むように痛い。だが、この痛みから逃げてはいけない。

 俺が選んだ道だ。俺が望んだ力だ。

 この苦しみを背負い、それでも手を伸ばし続けると、俺はこの拳に誓ったのだから。

次話明日18時投稿予定です。

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