第十話 卒業 中
月明かりすら届きにくい薄暗い空間で、俺と我藤は十メートルほどの距離を空けて対峙していた。
冷たい夜風が二人の間を吹き抜けた、その時だった。
「箱の界『閉』」
我藤が低く響く声でそう唱え、片手を天に向けて軽く掲げた。
直後、空気がキィンと鳴った。
見上げると、何もないはずの夜空が突如として透明な壁で塞がれていた。それは上空だけではない。前後左右、四方の空間すべてが、まるで分厚いガラスのような透明なシャッターで仕切られ、俺と我藤の周りを隔離する巨大な『箱』を形成したのだ。
外の風の音はパタリと止み、無機質な静寂だけが箱の中に満ちる。
「……すげえ。それ、教えてくれないんすか?」
何度見ても幻想的な力だ。思わず俺が尋ねると、我藤は面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「これは学校で習え」
「へいへい」
俺は肩をすくめてみせた。我藤の言う『学校』とは、俺がこれから足を踏み入れる世界——能力者たちの育成機関のことだろう。
我藤は顎をしゃくり、俺を真っ直ぐに見据えた。
「ルールはただ一つ。おれの手を地面につかせたら勝ちだ」
「へ? 前よりキツくなってんじゃないですか!」
思わず素っ頓狂な声が出た。以前の特訓では『一撃でも当てれば』だったはずだ。手を地面につかせる、つまり体勢を完全に崩させるとなると、難易度は跳ね上がる。
「仕方ねぇだろ。お前も強くなってんだ」
「強く? えへへ……じゃない、前は一撃でも当てられたらよかったのに」
「今なら余裕だろ」
「余裕なわけ……!」
軽口を叩き合いながらも、俺の全身の筋肉はすでに臨戦態勢に入っていた。額にじわりと汗が滲む。
「とりま、覚悟はいいか? 後悔のないように来いッ」
「いきますッ!」
地面を蹴り飛ばす。
コンクリートの床が砕ける音と共に、俺は一気に我藤の懐へと飛び込んだ。
まずは打撃戦だ。
右のジャブから入り、左のフック、沈み込んでからの右アッパー。息をつく間もない連撃を放つ。
だが、我藤はその場から一歩も動かない。
顔面へ迫る俺の拳を首を僅かに逸らして躱し、ボディへの膝蹴りを掌で軽く下に叩き落とす。
「シィッ!」
鋭い呼気と共に、今度は回し蹴りを放つ。さらに空いた手で掌底を顔面へ叩き込もうとするが、それすらも我藤の腕に絡めめとられるようにして弾かれた。
鎖の調節の特訓により、俺の身体強化は以前よりも格段に良くなっていた。力の流れはスムーズになり、無駄な動きも減った。打撃のスピードも威力も、一般人の限界をとうに超えている自覚はある。
だが、現役の『執行者』である師匠には、赤子の手をひねるように難なくいなされてしまう。我藤の足元は、スタート位置からミリ単位すらズレていなかった。
なら、と俺は大きくバックステップを踏み、一気に距離を取った。
打撃が通じないなら、俺の『能力』を叩き込むしかない。
深く息を吸い込み、集中する。両手に意識を込め、体内の創造力を一点に集めていく。
——その過程で、ふと数日前の特訓の記憶が脳裏をよぎった。
♦︎♦︎♦︎
「はぁ……はぁ……今度は、23本……」
荒い息を吐きながら、俺は地面に膝をついていた。俺の周囲には、具現化された細く脆い鎖が23本、力なく散らばっている。
「一本でいいのに、意識がまばらになってんのか?」
我藤が呆れたようにため息をついた。俺の能力は『鎖』を創り出すことだが、まだ出力のコントロールが甘く、威力を高めようとすると余計な本数に分散してしまうのだ。
「少し休憩だ」
「……はい」
「ちょっとばかし、お手本を見せてやる」
我藤がふらりと前に出た。
「でもどうやって? 鎖は俺にしか出せないんじゃ……」
「お前に俺の『創名』を言ってなかったな。俺のは『非等価の硬貨』ってんだ」
「コイン……?」
「俺の創造力量の1割までを、こいつに込められる」
我藤は片腕をスッと前に出した。
その指先が、十メートルほど先にある放置された巨大なコンクリート土管に向けられる。
「ま、見てろって」
パチン、と。
指を弾くような小さな動作が見えた。
直後。
凄まじい爆発音が鼓膜を劈き、突風が俺の体を吹き飛ばしそうになった。
砂煙が晴れた後、そこにあったのは、木っ端微塵に粉砕され、跡形もなくなった土管の残骸だった。
「……は?」
「ま、こんなもんだ」
俺はポカンと口を開けたまま固まった。我藤の指先にコインが創造されたのは理解した。だが、逆に言えばそれしか理解できなかったのだ。
コインが撃ち出される軌道はおろか、飛んでいく影すら全く見えなかった。あまりにも速く、そしてあまりにも理不尽な威力だった。
「いや、見せられても凄すぎてよくわからんよ……」
「んー。この辺の感覚は人によって変わるんだがな。俺は『ホース』をイメージしてるんだ。分かるだろ。水が出るやつだ」
「それぐらいわかりますよ」
「流石にな。ホースの先端をよ、指でつまむと、水がより強く、より遠くまで飛ぶようになるだろ。あれだ」
「……圧縮するイメージ、ですか?」
「おー、そうだ。よし、ものは試しだ。やってみろ」
♦︎♦︎♦︎
ホースの先端を、つまむ……!
集中。
両手に向かって激流のように流れる創造力。それを23本に分散させていた以前とは違う。
極限まで意識を狭め、出口を一つに絞り込む。
体内で暴れ回るエネルギーを強引に押さえつけ、圧縮し、凝縮する。
両手が熱を帯び、バチバチと見えない火花が散るような感覚。限界まで圧を高めたその瞬間——。
放つッ!!
両手を思い切り前方に突き出した。
空気を切り裂く轟音と共に、俺の手のひらから『一本の鎖』が射出された。
それはもはや鎖というよりも、極太の鋼鉄の槍、あるいは一筋の閃光だった。
周囲の空気を巻き込み、螺旋状の衝撃波を纏いながら、一直線に我藤へと突き進む。透明な箱の中の空気がビリビリと震え、床のコンクリートが余波だけで一直線に削り取られていく。
紛れもなく、俺がこれまで放った中で最高の一撃。
あまりの反動に、俺自身が後ろに数メートル吹き飛ばされ、尻餅をついた。
土煙が舞い上がり、我藤の姿を完全に覆い隠す。
静寂。
「……やりすぎたか? 無事ですか、ししょ……」
いくら我藤でも、今のをまともに受けたらタダでは済まないのではないか。
焦って声をかけた、その直後だった。
「いいじゃねぇか。これなら加減する必要はねぇな」
土煙を払うように、低く、楽しげな声が響いた。
晴れゆく視界の中、我藤はやはりスタート位置から一歩も動いていなかった。ただ、突き出された俺の鎖の先端を、右手一本でガッチリと受け止めていたのだ。我藤の足元のコンクリートだけが、衝撃でクレーターのように陥没している。
「嘘だろ……」
「調子乗りましたッ! やめてくださ——」
本能が死の危険を察知し、悲鳴を上げた瞬間。
我藤の手のひらに、銀色の光がチラリと見えた。
——ドスッ。
鈍い音と共に、俺の腹部に重い衝撃が走った。
内臓がひっくり返るような痛み。息が詰まり、目の前が真っ白になる。
……え?
床に転がりながら、俺の視界の端で、一枚のコインがチャリンと冷たい音を立てて転がった。
見えなかった。
飛んでくる軌道すら、一切。
腹を抱えて悶えながら、俺は我藤という男の底知れない恐ろしさを、身をもって知ることになった。




