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第一話 理想と覚醒

俺は、ハッピーエンドが好きだ。

物語の結末は、誰もが笑顔で終わるべきだと思ってる。

誰かが犠牲になったり、理不尽に涙を流したまま幕を閉じるなんて、そんなのはただの悲劇だ。クソ食らえだと思う。

もし俺に、世界中の誰も彼もを幸せにする魔法みたいな力があるなら、俺は迷わず使うだろう。

……まあ、そんな神様みたいな力なんてないことは分かってるから、考えるだけ無駄だとは思うけどな。

でも、もし俺の手の届く範囲で誰かが泣いているなら

そこに手を伸ばせば届く距離に、最悪なバッドエンドが転がっているなら。

それは、手を伸ばさない理由にはならないと思うし、俺は――手を伸ばしたい。

なんて、自分のキャパシティも考えずにそんなことを願ってしまう俺は、たぶん少しだけ偽善者で、そしてどうしようもなく強欲なんだろう。


♦︎♦︎♦︎


「……ぐっ、くぅ……! あと、ワンセット……!」

「部長、マジですか……もう足、感覚ないです……!」


 放課後のグラウンドに、苦悶の混じった荒い呼吸音が響く。

 ここは運動部の練習場ではない。いや、実質的にはそこらの運動部よりも遥かに過酷な地獄だ。

 俺、環輪(たまき りん)が部長を務める「ラーメン部」。その実態は、校内でも都市伝説化している。

『食べるために、削れ』。それが我が部の鉄の掟だ。

 至高の一杯を、身体が最も欲する枯渇状態で迎え入れ、かつ摂取した数千キロカロリーを罪悪感なく筋肉へと変換する。

 そのためのメニューは狂気じみていた。毎日タイヤ引き10キロ、坂道ダッシュ100本、そして仕上げの体幹トレーニングなどなど。

文化部という枠組みにありながら、体力測定では常に学年トップを独占する俺たちを、生徒たちは畏怖を込めてこう呼ぶ。「この学校で最もストイックな文化部もどき」と。


「終わりだ! 今日もいい追い込みだったな」

「ぶ、部長……お疲れ様でした……引退しても、ラーメン道は不滅ですよね……?」

「当たり前だ。受験勉強もカロリー消費の一環だと思えばどうってことない」


芝生に大の字になって空を見上げる後輩たちにタオルを投げ渡し、俺は充実感と共に大きく息を吐いた。


 今日で部活は引退だ。明日からはペンを握り、偏差値という名の戦場へ向かう。

 心地よい疲労感と、筋肉が熱を持っている感覚。これが俺の日常であり、青春のすべてだった。

着替えを済ませ、商店街へと向かう帰り道。

夕暮れの空は溶けた茜色に染まり、精肉店からはコロッケを揚げる香ばしい匂いが漂っていた。

 買い物客の笑い声、自転車のベルの音。

平和だ。あまりにもありふれた、愛すべき日常の風景。


だが――違和感は、唐突に訪れた。

なんだ? 空気が、重い?

 アスファルトから伝わる振動ではない。もっと大気そのものが、何かに怯えて震えているような、重苦しい圧迫感。

 肌にまとわりつく湿度が、急激に不快なものへと変質していく。

 通りを歩く人々も、一人、また一人と足を止め、訝しげに周囲を見回し始めた。


「ねえ、なんか変な音しない?」

「耳鳴りか? 甲高い音が……」

 その直後だった。

 頭上で、巨大なガラスをハンマーで叩き割ったような、鋭利で硬質な破砕音が炸裂した。

 商店街中の視線が一斉に空へ向けられる。

 そこには、あり得ない光景があった。

 夕焼けの空に、黒い亀裂が走っていたのだ。まるで空という絵画に、カッターナイフで乱暴に傷をつけたかのように。

 亀裂は不気味な紫電を放ちながら、空間を軋ませて強制的に押し広げられていく。


「な、なんだあれ!?」

「空が……割れてる?」


 呆然と立ち尽くす人々の頭上で、その()()からどす黒い塊が吐き出された。

 重力に従い、隕石のような速度で落下してくる。

 ズドンッ!!

 商店街の中央、アーケードの屋根を突き破り、その塊はアスファルトを粉砕して着地した。

 強烈な衝撃が走り、粉塵が舞い上がる。爆風に煽られ、露店の商品が散乱した。

 俺はとっさに近くの電柱の陰に身を隠し、目を凝らした。

 砂煙の向こうから、ゆらりと立ち上がった影。

 それは、生物としての輪郭を冒涜するような異形だった。

 全身を漆黒の毛皮で覆い、手足には剃刀のごとき爪。頭部には目も鼻もなく、ただ巨大な口腔と、額にある真紅の瞳だけがギラギラと輝いている。

その口から放たれる衝撃波だけでショーウィンドウのガラスが弾け飛び、通りに降り注ぐ。

 パニックが連鎖した。人々は我先に逃げ惑い、将棋倒しになり、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がる。

 逃げろ。本能が警鐘を乱打する。あれは人間が対峙していい存在じゃない。

 俺は踵を返そうとして――動きを止めた。

 怪物の足元。瓦礫の山となった屋台の陰で、幼いおそらく兄妹が腰を抜かして震えている。

 怪物の真紅の瞳が、ゆっくりと、愉悦に歪むようにその二人を見下ろした。

 死を告げる爪が振り上げられる。


「――させるかッ!」


 思考するより先に、身体が弾けていた。

 恐怖で竦みそうになる足を、数千回のスクワットで鍛え上げた大腿四頭筋が無理やりねじ伏せる。

 俺は爆発的な加速で瓦礫の山を駆け抜け、兄妹の前に滑り込んだ。


「こっちだ、化け物!!」


 手近にあった看板を拾い上げ、怪物の顔面めがけて全力で投擲する。

 看板は怪物の額に当たり、僅かな音を立てて弾かれた。ダメージはない。だが、注意を逸らすには十分だった。

 怪物が苛立ちを含んだ唸り声を上げ、俺を標的に定める。


「お前ら、今のうちに走れ! 振り返るな!」


 兄妹が走り出したのを確認すると同時に、俺は逆方向へ疾走した。

 背後で風が唸る。漆黒の爪が、俺の居た空間を切り裂いた音だ。

 速い。車並かそれ以上か。

 だが、こちとら並みにきたえてないわッ。路地裏の障害物走なら負けねえ!

 肺が焼けるように熱い。だが、この痛みは慣れ親しんだものだ。

 俺は倒れた軽トラックの荷台を飛び越え、アーケードの鉄骨を蹴って跳躍し、立体的に逃げ回った。

 トラックから漏れる大音量のラジオ、鉄パイプを叩きつけた金属音。あらゆる音を利用し、怪物の聴覚を撹乱する。

 奴が翻弄されている間に、逃げ遅れた人々が避難していく。

 よし、いいぞ。このまま時間を稼げば、警察か自衛隊が――。

 甘かった。

 腹部に、鉄球を打ち込まれたような重い衝撃が走る。


「が、はっ……!?」


反応すらできなかった。怪物の長い尻尾が、俺の身体を鞭のように薙ぎ払ったのだ。

身体が宙を舞い、コンクリートの壁に叩きつけられる。

 呼吸が強制的に止まる。肋骨が数本、持っていかれたのが分かった。視界が明滅し、手足に力が入らない。

 地面に崩れ落ちた俺を見下ろし、怪物が嘲笑うように近づいてくる。

 巨大な口腔から滴る涎が、アスファルトを溶かして白煙を上げていた。

――ああ、死ぬのか。

こんな、わけのわからない化け物に食われて。

俺の人生、ここでバッドエンドかよ。

視界の端で、避難したはずの兄妹が、遠くから俺を見て泣き叫んでいるのが見えた。


あの子たちは助かった。なら、いいか。


『――ふざけるな』


心の奥底で、誰かが叫んだ。

俺はハッピーエンドが好きなんだ。

俺が死んで誰かが泣くなら、それはハッピーエンドじゃねえ。

俺も助かって、あいつらも助かって、それで笑ってラーメン食って帰る。

 それが俺の欲しかった結末だろ。

 立てよ、環輪。お前の身体は、なんのために鍛えてきた?

 ただカロリーを消費するためか? 違うだろ。

 理不尽をねじ伏せるためだろッ!!

 心臓が早鐘を打ち、全身の血流が奔流となって駆け巡る。

 熱い。傷ついたはずの体内から、マグマのような力が湧き上がってくる。

 痛みが遠のく。スローモーションのように、世界が鮮明になる。

 俺はふらりと立ち上がった。

 怪物が爪を振り下ろす。その軌道が、はっきりと見えた。


「う、おおおおおおおおっ!!」


 吼えると同時に、俺は踏み込んだ。

 アスファルトが砕け散る。限界を超えた筋肉繊維が断裂する感覚さえ、今はどうでもいい。

 振り下ろされる爪を紙一重で躱し、懐に潜り込む。

 全身のバネ、体重、そして湧き上がる謎の熱量。その全てを右の拳一点に集中させる。

 繋がった。イメージが、力が、拳を通して怪物へと衝突する。


「ぶっ飛べェッ!!」


 拳が怪物の腹部にめり込んだ瞬間、凄まじい衝撃波が爆発した。

 撥ねられたような勢いで、怪物の巨体が吹き飛ぶ。

 商店街の奥まで転がっていった怪物は、痙攣した後、黒い霧となって霧散していった。

 静寂が戻る。

 俺は拳を突き出した姿勢のまま、荒い息を吐いていた。

 右腕からは湯気が立ち上り、皮膚の下で何かが脈動している。


「……勝った、のか……?」


緊張の糸が切れた途端、視界がぐらりと揺らいだ。

 限界を超えた身体が悲鳴を上げ、地面が急激に迫ってくる。

膝から崩れ落ちそうになった俺の前に、音もなく影が降り立った。


「見事だ。覚醒したばかりの『原石』にしては、上出来すぎる」


 涼やかな、それでいて芯のある声。

 顔を上げると、瓦礫の山の上に一人の青年が立っていた。

 夕闇の中でも輝くような金髪に、この惨状には不釣り合いなほど仕立ての良いロングコート。

 彼はふわりと宙を滑るようにして、俺の目の前に着地した。

 その所作には、重力すら彼に遠慮しているかのような、優雅で絶対的な余裕があった。

 瓦礫と粉塵に塗れたこの場所で、彼だけが別世界の住人のように汚れ一つない。


「誰だ、あんた……警察じゃ、ないよな」

「俺はレイ。君が今倒した『破壊者』を狩ることを生業とする、執行者だ」


 レイと名乗った男は、霧散していく怪物の痕跡を一瞥し、俺に向き直った。

 その瞳は、宝石のように美しく、同時に底が見えないほど深い。まるで、実験動物を値踏みするかのような、冷徹さと好奇心が入り混じった視線。


「破壊者?」

「ああ。突如現れ、この世界を喰らい、侵食する獣だ。君も見た通り、奴らに通常兵器は通用しない。倒せるのは、理を書き換える力――『創造力』を持つ者だけだ」

 レイは懐から、一枚の黒いカードを取り出した。

 そこには銀色の文字で『天令学園』と刻まれている。

 カードを取り出しただけなのに、周囲の空気がビリリと震えたような気がした。


「君にはその資格がある。いや、資格以上の才覚があると言っていい。あと少しで、俺たちのようなエージェントを育成するための学校、通称『()()』の選抜試験が行われる。俺の推薦枠として、君を招待しよう」


 レイはカードを俺の胸ポケットに滑り込ませた。

 その指先は氷のように冷たく、けれど確かな力を感じさせた。


「……試験……? なんだよそれ、俺はただの受験生で……」

「普通の受験生は、素手で破壊者を消し飛ばしたりしないさ」


 レイは俺の肩に手を置き、真っ直ぐに俺の目を見据えた。

 その瞳に射抜かれ、俺は動けなくなる。


「君が今日、その力を使ったのは偶然じゃない。君の中には、君が思う以上の『何か』が眠っている。それを磨くか、腐らせるかは君次第だ」

「…… 」


「だが一つだけ言っておく。もし君が、理想を叶えたいならば、その力は、鍵になるかもしれないよ」


「俺の……理想……」


 レイの言葉が、脳裏に焼き付く。

 誰も泣かせない力。理不尽なバッドエンドをねじ伏せる力。

 それが、手に入るというのか。


「じゃあね、また会おう」

「待ってくれ、俺は――」


 問いかけようとしたが、口が動かなかった。

 緊張の糸が切れた反動か、強烈な睡魔と疲労が津波のように押し寄せてきたのだ。

 レイの姿が陽炎のように揺らぐ。

 視界が暗転していく中、俺は胸元のカードを無意識に強く握りしめていた。

 もっと力が欲しい。

 大切な日常を、ラーメンの味を、誰かの笑顔を守れるだけの力が。

 意識が、深い闇へと落ちていった。

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