最強・夢想を求める精神への批判
ジョジョの奇妙な冒険という少年漫画があるが、アニメ化をきっかけに世界にも広まったようだ。私もジョジョは昔から好きだった。
ジョジョの奇妙な冒険は、作品が一部、二部、三部…という風にそれぞれ独立したパートで構成されているのだが、パート全体を貫く要素も入っている。
ジョジョの奇妙な冒険で、重要な要素が「スタンド」と呼ばれる一種の超能力だ。これは、その人物が分身のようなキャラクターを出現させるのだが、この分身が「スタンド」と言われている。スタンドはそれぞれに特殊な能力を持っており、このスタンド同士のバトルがジョジョの奇妙な冒険の醍醐味になっている。
それで、ファンの間では、「どのスタンドが最強か?」というよくあるオタク話が持ち上がるのだが、それに対する答えは「空条承太郎のスタープラチナ」というのが、ファンの間でも一致した答えとなっている。これは作者の荒木飛呂彦もそう言っているようなので、これに対する反論はそれほどみかけない。
ここまでは、普通のオタクのオタク談義であり、私もその気になればオタク談義に一枚噛むくらいはできるし、そういう話も嫌いではない。ただ、いつも気味が悪いというか、間違っているなと思うのが、「誰が最強か?」というのを、一種のネタというか、そういう話をして盛り上がろう、という雰囲気では話すのではなく、本気で議論したがる人々だ。
少し説明しないといけないが、さっき言ったように「ジョジョ」の最強のスタンドは「空条承太郎のスタープラチナ」という事である程度一致している。
しかし作中で、空条承太郎が、ネズミのスタンド(ネズミが特殊な変化をしてスタンドを持つようになった)に殺されかけるシーンがある。そのシーンを取り上げて「最強のはずの承太郎がネズミに殺されかけているじゃないか!」と本気で言う人がいる。
この手のずれた人というのはネット上で一定数いるが、私はいつも(くだらないな)と思って見ている。もっとも、私がこうした人をここでわざわざ取り上げるのは、こうした人は少数派ではなく、意外に多数いて、社会の一定部分を占めていると思われるからだ。
空条承太郎に関して言えば、確かに、承太郎は作中、最強のキャラクターと言ってもいいが、しかしあまりにも最強で全く、敵を寄せ付けず相手を圧倒しているばかりだと、エンターテイメント作品としては面白くない。だから、作者の荒木飛呂彦が承太郎がピンチに陥るシーンを作って、話を盛り上げようとするのは当たり前の話だ。
要するに承太郎がいくら最強だと言っても、それはあくまでもエンターテイメント作品の内部での最強であり、それは作者の荒木飛呂彦がうまくコントロールしている。本当に承太郎が最強で一度もピンチに陥る事なく、相手を倒すだけならそもそも「ジョジョ」という作品は今のような人気は出なかったろう。
そういうわけでいくら承太郎が最強だと言っても、それはネタというか、楽しめるオタクトークの範疇でしかないのだが、「いやいや、承太郎は最強と言うがたががネズミに殺されかけているじゃないか!」と本気で言うズレた考えの人は実際に存在する。
私はこうした考えの人は意外に多いと見ている。最近だと政治家の小野田紀美という人が人気があるらしいが、少し前には、亡くなった安倍元首相が人気があった。
安倍元首相が生きていた当時に「安倍さんがいる限り日本は大丈夫」みたいな書き込みをしていた人がいて、私は(正気なのかな)と疑ったが、その後、安倍元首相は山上という人物に殺害されている。
安倍元首相とか小野田紀美とかいう人は、彼らの業績や政治手腕が評価されているわけではなく、(すげえ、かっけー)(最強じゃん)みたいなノリで評価されているのだろうと私は見ている。これは簡単に言って、人間を神格化するという事だ。
全然ジャンルは違うが、少し前のひろゆき人気も同じようなものだったと私は考える。ひろゆきという人物が色々な人間を「論破」していく。(ひろゆきかっけー、ひろゆき無双)みたいな感じの人気だったと記憶している。
またこれもジャンルは違うが、ネットで人気の格闘家「朝倉未来」も同じようなものだったろう。朝倉未来は、元は不良で、路上で喧嘩をしていたという事で「路上の伝説」なんて言われており、朝倉未来が快進撃を続けている間は(朝倉未来カッケー)というノリで受けていた。
しかし、朝倉未来が強い外国人選手に敗北するようになるとファンの間にも動揺が走り、「最強のはずの朝倉未来が負けた事」をどう受け止めればいいか、困惑していた。
他にも「異世界に転生して無双する」といったライトノベルやアニメが人気だという事もある。いちいちあげていくときりがないが、現代の大衆の一部はこんな風に「最強」だの「無双」だのに対する強い憧れを持っているようだ。
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こうした傾向の本質は一体、なんだろうか。私はそれは、「宗教を失った現代人が作り出した疑似宗教」だと考えている。
現代は宗教が否定されている。それは過去の迷妄だったという事になっている。現代は科学・合理・経済の世界であるらしい。
しかしながら、リアリズムとしての人間は誰しも、死にゆく当たり前の個体でしかない。かつては、あの世とか天国とか地獄とかが想定されて、人間が死にゆく存在であるという事から目を逸らさせる体制ができていた。
現代の人々はこうした体制を過去の迷信と否定しているものの、とはいえ、死にゆく個体としての自己をまっすぐ正面から見つめる勇気も持てないので、結果として、宗教には見えない宗教のようなものがまん延する事になる。
これに関しては老人も若者も大差はない。老人がナショナリズムに走り、永続する(と考えられている)国家とか社会とかいう概念に死にゆく自分を接続させて、なんとか老いや死から目を逸らせようとする事実と、若者が「推し活」と称して、ステージの上に個としての人間を越えた超越的な偶像を見たがる事は、本質的に同じ事柄に過ぎない。
現代の社会はこんな風にして、死から目を逸らさせる体制が出来上がっている。そしてこのような体制、知性を眠らせる事が大衆にとっての救済ともなるので、こうしたイデオロギーは日毎に強化されている。
文章の前半で述べた「最強・無双」を求める精神というのも、大衆が、人生の虚しさや自身にやがて訪れる死から目を背けようとして起こってくるものの一つだ。
このような「最強・無双」を求める精神というのを私は批判する。というのはそこでは人間の長所である知性が眠っているからであり、最強や無双を求めれば求めるほどその人間は自身の精神の弱さを露呈しているに過ぎないからだ。
とはいえ、私はこうした精神を批判はすれど、否定はしないつもりである。
なぜなら、私が中心に置く「文学」の価値観からこの「最強・無双を求める精神」を眺めると、それは文学というものの一部、より詳細に見ていけば、その前半部を占めるからである。
これはどういう事か。ドストエフスキー「罪と罰」を例に考えてみよう。「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは自身を「一線を踏み越え、人を殺す事も許される」と自身の存在を自覚するのだが、実際に殺人を実行すると、思いもかけなかった良心の呵責に悩まされる。彼は孤独に殺人の記憶に耐える事ができず、最後にはソーニャという女性を頼り、罪を自白してしまう。
「罪と罰」の最初の部分で、彼が超人思想を案出し、「自分は人を殺す権利を持つ」と考える部分は、今の大衆が「最強・無双はありうる」と考える精神とある程度一致していると私は考える。
ただ違いは、「罪と罰」では自分はそのような最強・無双ではないと自覚していき、自身の罪と弱さを自覚し、人々の中に戻っていく過程が作品の後半で描かれるが、「最強・無双カッケー」と言っている人々にはこのような反省はいつまでもやってこないという事である。
この、最強・無双である主体が自身の弱さ、醜さを自覚していくという過程は文学の王道だと私は考えている。これは多くの文学作品に見られる。最古の文学と言われるギルガメッシュ叙事詩もそうであるし、人間の弱さ、人間の相対性の自覚として考えるなら「オイディプス王」もそうだろう。もっとも、これに関して深掘りすると長くなるので、これ以上はやめておく。
まとめると、「最強・無双を求める精神」というのは迷妄であり、間違った傾向であると思っているが、しかしそれはその後にやってくる反省とセットになって一つの物語だと私は考えている。ただ、この物語の後半部分をこの社会が本質的に受け止められるとは思ってもいないので、私はこの後半部分に関しては個人的に構想していくしかないと考えている。




