第9話『日陰の吸血鬼』
『今の斬撃、刀剣によるものではない。生爪の感触!
なるほど、つまり貴様か。
貴様が件の吸血鬼だな!?』
シャルラッハが問いかけるも、男――アッシュは片眉を上げるだけだった。
『件の? なんのことだかわからん。聞いていた前提で話をするな』
『呵呵呵! 愚かよのう、自ら吾輩の土俵に乗って来るとは! それほど妹が大事か、吸血鬼!
おまけに今は朝! とうてい力など発揮できまい! なにをしにきた!? 妹の前で死にに来たのか!?』
シャルラッハが泉中に触手を展開する。
数十メートルにまで伸長された触手に覆われた泉の中は、さながら海の恐怖を具現化した地獄。
けれど、アッシュは触手の隙間から覗く水面を見上げ、心地よさそうに目を細めた。
『暗いな。ここはいい。ここなら――日の光も届かない』
グググ、とアッシュの身体が膨れ上がったかと思うと、
「【|君を解体しよう。骨も肉も血の海に《ブルートメア・クノッヘン》】」
ドバッ!
炸裂。
アッシュの身体が爆散した。
莫大な量の鮮血が水中に撒き散らされ、泉の中は見る間に真っ赤に染め上げられる。
『なんのつもりか知らんが、逃げ場はないぞ! 食らえ!』
闇雲に吸盤から水流を噴出するシャルラッハ。
硬い岸壁を斬り刻む、圧縮された水の刃は、アリアたちへも降り注ぐ。
だが、それらはすべて硬質化した血のドームによって阻まれた。
『バカな! たかが血液が、我が「水流刃」を防ぐだと!?』
『防ぐだけじゃない』
ザクザクザクッ!
『斬ることもできる』
連続する血の斬撃が、シャルラッハの触手を次々に切断していく。
まるで、巨大なサメの群れに襲われているかのようだ。
八本ある足が、根本まで寸断されるまでに、ほんの数秒とかからなかった。
(兄さんの血身形態……久しぶりに見たけど、やっぱりすごい)
吸血鬼の得意技は血液魔法。
文字通り、血液を操る魔法だ。
中でも、己の肉体をすべて血液に変換する血身魔法は、物理攻撃をほぼ完全に無効化できるという、破格の防御性能を誇る。
しかし、その真価を発揮できるのは、主に水中。
希釈された血液が広がることで、戦場のすべてが射程圏内となり、自由自在に血の刃を出現させ、相手を攻撃できる。
『ぐっ……!【|我が身は母なる海へと回帰する《フルウグス・フェイダ・ミスタグル》】!
苦悶の声を漏らしたかと思うと、シャルラッハの身体がすうっと透き通っていく。
『兄さん! 奴は空間系の隠遁を使う! 追いかけないと……!』
『その必要はない』
吸血鬼の格好をしたアッシュが、アリアたちの前に現れる。
『もう、奴の体内には――』
『馬鹿め! 実体化したな!』
虚空から、とつぜん触手が伸び、アッシュの巨躯を捕らえる。
目にも留まらぬ速攻。
アリアでさえ、警告を発することすら叶わなかった。
次元の彼方から再び現れ出たシャルラッハは、そのままアッシュの全身を引き千切ろうとして……。
『な……にい……!?』
千切れない。千切れない。千切れない……!
アッシュの何十倍も大きな海王大蛸の触手による引き裂きを、吸血鬼は素の筋力のみで耐えていた。
恐るべき馬鹿力。
物理法則、生物としての原則すら無視している。
血も凍るような冷たい目つきで、アッシュが必死に踏ん張る海王大蛸を見下ろした。
『日陰で吸血鬼に勝てると思ったか?』
ブヂン!
「ぎゃああああ――!」
力任せに触手を引き抜かれ、シャルラッハは絶叫する。
これが、種の違い。格の差。
生半可な努力などでは、決して覆らない絶対的な実力の壁を見せつけられ、シャルラッハの戦意は完全に失われていた。
『てっ! 提案! 提案がある! 吸血鬼!』
もはや遁走もできないと悟ったか。
シャルラッハは触手の大半をなくした無残な姿で、アッシュの足元に這いつくばる。
アッシュがどうでもよさそうに眉根を寄せる。
『提案?』
『貴様の実力は心の底から理解した! 吾輩などではとうてい及ばぬ!
だが、その力、もっと振るうにふさわしい場所があるのではないか!?』
『なにが言いたい』
次の言葉次第で、お前を殺す。
言外にそう突きつけられ、シャルラッハは真っ青になりながらも、必死に訴えかけた。
『魔王軍に来い! 今の貴様は日陰者だ。そうだろう!?
日の当たる場所では病人並みにしか動けまい!
かといって、素性を晒せば教会の不死狩りどもが飛んでくる!
八方塞がりだ! ゆえに侮られ、蔑まれ、泥をすすって生きておるのだろう!
だが、魔王軍に来れば、貴様は成り上がれる! 褒めそやされる! 皆に認めてもらえる!
貴様ならば、魔王軍七十二神将入りなど容易かろう!
ともすれば皇道十二神将の位も狙えるはずだ!
どうだ、悪い話ではあるまい? 吾輩が口添えすれば、ヴォルガン様もきっと受け入れてくださるぞ!』
一気に言い切り、ゼエゼエと息切れしたように身体を上下させるシャルラッハ。
『兄さん……』
奇しくも、シャルラッハの提案は、アリアの願いを叶えるものだった。
だからアリアは、兄を引き止める言葉が出てこなかった。
どうして言えようか。
このまま、抑圧され続けろと。
日の当たらない場所で、踏みつけにされながら生きてくれなどと。
「…………」
アッシュは黙ったまま考え込んでいる様子だった。
それを行幸と見たか、さらにシャルラッハは畳み掛ける。
『妹が心配か?
ならば、その娘もヴォルガン様に人狼にしていただくといい!
そうすれば、兄妹仲良く魔族として暮らしていける! 輝かしい栄光の日々がお前たちを待っているぞ!』
『……貴様の上役、ヴォルガンと言ったな。そいつは人狼なのか?』
『! あ、ああ! そうだ! 貴様と同じく、元人間の身でありながら、我々側に寝返るという英断を下したお方だぞ!
貴様となら、話も合うだろう。魔族でありながら、人として暮らしていた辛さも分かち合える――』
『魔族でありながら?
ふざけたことを抜かすな。俺は人間だ。今までも。これからも』
そこで言葉を切って、アッシュは侮蔑に満ちた眼差しでシャルラッハを睨めつけた。
『日陰者で結構。俺はアリアや、周りの人たちが無事でいてくれればそれでいい。
だいたい、言うに事欠いて――俺の妹に、魔族になれだと?
どういうつもりだ? 助かりたいんじゃないのか?』
『まっ、待て! まだ話は――』
「【私は育つ。君を喰らって、君の中で。やがては赤い花を咲かすだろう《マイン・ブルート・プラッツェン。トーデスブルーメ・エクスプロジオ》】」
ボッ!!
シャルラッハの巨体が、内側から弾け飛び、青い血煙が盛大に舞った。
増血。
アッシュは海王大蛸の体内に忍び込ませていた自らの血液を、爆発的に増加させ、シャルラッハの肉体を内部から破壊したのだ。
『なにが提案だ、バカバカしい。聞いて損した』
珍しく口調を荒らげ、独りごちるアッシュ。
その気炎の激しさに、アリアは思わず息を呑む。
だが、彼女のほうへ振り向いたときには、すでにアッシュはいつもの優しい――少なくとも、アリアにはそう見える――顔に戻っていた。
『上がろうか、地上へ』
その言葉に、アリアの悩みに対するアッシュの回答がこもっていた。
万感の思いをこらえ、アリアはなんとか笑みを作る。
『……うん。ありがとう、兄さん』
『当然のことをしたまでだ。兄としてな』
そう言って、アッシュはアリアと意識を失ったままのエレナを抱きかかえ、日の差す水面へと浮上していった。
◆
「……エレナは、大丈夫そう?」
アリアが心配そうに兄の顔を覗き込んだ。
泉の岸辺に寝かせたエレナの胸元に手を当て、真剣な面持ちでなにかを確認しているアッシュ。
やがて、彼はすっとエレナから手を離した。
「……命に別状はない」
「本当!?」
「ああ。心臓が止まっていただけだ」
「別状あるくない!?」
「問題ない。今動かした」
当然のように言ってのけるアッシュ。
嘘ではないだろうと思いつつ、アリアはエレナの胸に耳を押し当てる。
ドクン、ドクン……。
アッシュの言葉通り、エレナの心臓は弱々しいながらも脈動を取り戻していた。
アリアの目尻に、真珠のような涙が浮かぶ。
「よかった……」
「アリアちゃーん! 大丈夫ー!? エレナちゃんは!?」
バカでかい声量で叫ぶ声が聞こえたかと思うと、何人かの冒険者と一緒に、ダンが水場へ駆けつけてきた。
うるさいのが来た、と言わんばかりに眉をひそめるアリアへ、ダンが矢継ぎ早に質問を投げかける。
「びしょ濡れじゃん! どうしたの!? てかエレナちゃんは!? 大丈夫なのこれ!?」
「……大丈夫だから。私はちょっと腕折られただけ」
「いや重傷じゃん! 早く治さないと! なににやられたの!?」
「水妖馬と、海王大蛸」
「海王大蛸!? Sランクが出やがったのか!
で、倒したの? もしかして」
「うん……」
兄さんが、と言いかけたアリアだったが、横合いのアッシュに目配せされ、やめた。
「すっげえええ! Aランクの水妖馬と、海王大蛸を同時に相手して倒しちまったのかよ!
さっすがうちのエース! 最強だな!」
「もしかして、この泉がやたら青黒いのって、海王大蛸の血か?」
「どんだけデカかったんだ……半端ねえな『氷姫』」
次々に称賛の声を寄せられるアリアだったが、その表情は浮かないままだった。
本来、それを受け取るべき人物が、ずっと無視され続けていたから。
ひとしきりアリアを褒めちぎったあと、ダンは思い出したかのようにアッシュへ水を向けた。
「……で、お前は? なんで濡れてんだ?」
「アリアが戻ってこなかったから、助けに行こうとしたら水妖馬に捕まった」
すると、ダンがポカっと軽くアッシュの頭を殴りつけた。
「馬鹿野郎が! お前なんかが行ったってなにもできやしねえんだ!
素直にアリアちゃんや俺らに任しときゃいいんだよ!」
「悪い」
「謝るなら、アリアちゃんに言えよな! ったく……」
思わず立ち上がりかけたアリアの肩を、アッシュが必死に押さえつけていると、ダンはそっぽを向きながらつぶやいた。
「……ま、男気は買ってやるよ」
その言葉に、アッシュは珍しく口元を緩めた。
「感謝する」
「調子に乗るなよ!? てめえのはただの蛮勇だ!
もう、これっきりにしろよ! 次は本気でぶん殴るからな!」
「わかった」
再び座り込んだアリアの肩から手を外すと、アッシュは思い出したように口にした。
「人面獅子から続く魔物の襲撃についてだが……どうやら皇道十二神将の一匹が一枚噛んでいるらしい」
「……よし、あとで作戦会議だ。詳しく聞かせろ」
ダンが表情を引き締めた。
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