第7話『水辺に潜むもの』
老婆のようなしゃがれた声音は、獲物をいたぶる快楽に満ちていた。
『「銀氷姫」とやら。お前さん、この娘と親しいんだろう? え? だから助けに来たんだろう? とっくに調べはついてるんだよ』
水妖馬のたてがみの中から、眠ったように目をつぶっているエレナが引っ張り出されてきた。
かすかに口から泡がこぼれているのを見て取り、アリアは安心して念話で問い返した。
『私が来なかったら、どうするつもりだったの?』
『そりゃあ、この娘を食い殺して、別の水場で罠を張るだけさね。
……おっと! 動くんじゃないよ。少しでも妙な真似をしたら、この娘はお陀仏だからね』
ぴくりとアリアの指が動いたのを、目ざとく水妖馬が
とがめた。
アリアは全身から力を抜いたまま、質問を続けた。
『もしかして、昨日の飛竜も、私を殺すための刺客ってやつ?』
『当たり前さあ。今、ここいら中の魔族たちが、あんたの首を狙ってるんだよ、「銀氷姫」
ヒヒッ、人気者は辛いねえ』
そう嘲笑したあと、水妖馬はアリアの均整のとれた肢体を眺め回した。
『……見てくれがいいねえ。あんた、男にゃ困ってないだろう? そうだろう?』
『まあ、困ってはいないね』
嘘ではなかった。
水妖馬が苛立たしげに歯ぎしりをする。
『やっぱり、そうだと思った! このあばずれめ。ああ、憎たらしい憎たらしい。この小娘。どうしてくれようか。
目玉をくり抜いて、脳みそを引きずり出そうか?
腹を引き裂いて、はらわたで絞め殺してやろうか?
さあ、どっちがいい? 好きなほうを選びな』
『んー、どっちも嫌。ていうか、選ぶのは私じゃなくてあなたの方だよ、お婆さん』
『……は? あんた何言ってるんだい。怖くて気が触れたのかい?』
歯茎をむき出しにして威嚇する水妖馬に、アリアは涼しげな目つきで言い渡した。
『今すぐ、私とエレナを陸まで送って。
そうすれば、楽に殺してあげる』
『……驚いたね。このあばずれ。頭の中になにも詰まっちゃいないみたいだ。
胸も尻も小さいし、食ったものはいったいどこにいってるんだろうね』
『え、顔? ごめん、目が悪くて見えないかもだけど』
『もういい、死にな! 水場で水棲系に歯向かったこと、後悔させてやるよ!』
アリアの四肢を引き裂かんと、水妖馬のたてがみにぐっと力がこもる。
だが、次の瞬間。
「【|みんなみんな凍ればいい《ケトレ・スルジヤ》。|だって私が暑いんだもの《メドラ・リ=ョート》】」
パキン――――。
『……あ?』
凍結。
深さ十数メートルはある泉の水が、瞬時に凍りついた。
その中にいた水妖馬も同様にだ。
魔法。
それは、神々がかつて地上にいた時代の出来事を再現するための『力ある言葉』による記述の連なりを言う。
『ザラフ神話』と名付けられ、体系化された一節を抜き出し、魔力をこめて詠唱することで、神代の奇跡を実現できるのだ。
だが、誰もが同じことを、同じようにできるわけではない。
アリアの魔法の神話再現率は、詠唱文の長さに対して、あまりにも高すぎた。
ややあって、事態を把握した水妖馬が、必死に氷の牢獄から脱出しようともがき出す。
『な、て、てめえ! くそったれ、出せ! 出しやがれ!』
『あーやだやだ、下品下品。見た目だけじゃなく言葉遣いも醜いのね、お婆ちゃん』
『っ――――!』
自分とエレナの周囲だけは、凍らせずにいたアリアが、邪魔なたてがみを取り去ると、優雅に水中で脚を組んだ。
『私の二つ名、知ってるでしょ? 「銀氷姫」』
言って、アリアは妖艶に唇を指でなぞった。
『――水場で氷雪系に勝てるとでも思った?』
『ひっ! い、いや。助け――!』
「【哀れな蛙は】――」
少女は歌うようにささやいた。
「――【踏まれて死んだ《シュラック》】」
バキャッ!
水妖馬の体が、粉々にかち割れた。
まるで、巨人の手のひらで握りつぶされたかのように。
同時に、凍っていた泉の水も元に戻る。
(戦ったあとは、ちゃんと環境直さないと、あとで兄さんに怒られちゃう)
バラバラになった水妖馬の死体が、ゆっくりと湖底へ消えていく。
(……ふう。終わった)
張り詰めていた緊張がゆるみ、アリアは内心でため息をついた。
(水中戦、嫌いなんだよね。服濡れるし、耳痛くなるし。
……ていうか、この水、臭っ! さっさと出よっと)
ゆらゆらと沈みゆくエレナの身体を抱きとめると、アリアは水上へと泳いでいこうとした。
だが、そのとき。
『確かに。水場で水魔法使いと争うなど、実に愚かなことだ』
不意に、どこからともなく水底に巨大なシルエットが出現したかと思うと、長い触手がアリアたち目掛けて殺到した。
(っ――!)
しかし、二度も同じ手を食うアリアではない。
「【身を裂く寒気】――!」
とっさに生成した氷の剣で、丸太のように太い触手をスパスパと斬り捨てる。
『ほう。いい反応だ』
声の主は、泉のどこかに潜んでいた巨大な海王大蛸だった。
大木のように太く、強靭な触手が八本、それぞれが意思を持っているかのように水中を這い回っている。
汚濁した水中で金色の光を放つヤギのような横長の目が一対。
その瞳には、確かな知性と悪意が滲んでいた。
(こんな図体で、いったいどこに隠れて……いや、そんなことはいい。
さっきの馬とは明らかに別格! 水中戦は不利、すぐ浮上しないと……!)
そう思い、泉から脱出しようかと一瞬考えたアリアだったが、すぐに思い直す。
(……って考えるところまで、たぶん相手は読んでる。
水面付近には、もう罠が張られてるはず……だったら!)
「【隧道を抜けるとそこは氷の国だった】」
パキパキパキ!
アリアと海王大蛸の間に、氷でできたトンネルが築かれる。
アリアは足元の氷を踏み台にし、その通路を一気に突き進んだ。
(あえて懐に……!)
「【|寒さは彼らの身を裂き、骨をも砕いた《ナスル・ジャイード・サイファ》】――!」
ザクッ!
アリアの身の丈をも超える氷の大剣が生成され、海王大蛸の顔面を刺し貫いた。
続いて。
「【|一の刃が千の槍。あなたの中で育ちなさい《ラフム・ダーヒリカ・サイファ》】!」
ドシュッ!!!
海王大蛸の表皮から、数十本もの氷柱が飛び出し、その巨体を内側から破壊しつくす。
しかし、
(手応えが……っ!?)
大剣から伝わってきたのは、まるで水飴に指を突っ込んだような曖昧な感触だけ。
生き物を貫いたものではない。
擬態。
その言葉が頭をよぎった瞬間、アリアの目の前で、殺したはずの海王大蛸が、ゆらりと幻影と化して消え去った。
『見事な手並みだ。たったの数小節で、あれほどの再現度の魔法……。
水妖馬ごときでは、歯が立たぬのも道理』
出どころのわからない、海王大蛸の声が響く。
あれほどの巨体が、小柄なアリアよりも素早く動けるとは考えにくい。
(こうなったら、消費は大きいけど、また全体凍結を……!)
瞬時に凍結魔法を使用したアリアだったが、
「【|みんなみんな凍ればいい《ケトレ・スルジヤ》】――」
(っ……!? 凍らない……!?)
一瞬だけ、アリアの周囲が凍りついたが、すぐに元の水へ還ってしまう。
戸惑っているうちに、今度は四方八方から触手が伸びてきた。
拘束。
さしものSランク冒険者も、魔法を封じられていたのでは、文字通り手も足も出ない。
四肢をいましめられたアリアの目の前に、海王大蛸の巨躯が、じわりと滲み出るようにして出現した。
こちらが本体なのだろう。
『……いつから、どこにいたの?』
『いつからなにも、最初からだ。
吾輩は蛸。水中での隠形には一日の長がある』
(水妖馬のとき、泉の水、ぜんぶ凍らせたのに感知できなかった……。
ってことは、空間系の隠遁? それとも完全に水と同化してた?)
敗北を悟ったアリアは、せめて情報をと思い、問いを投げる。
『あなた……何者?』
『問われたならば答えよう。吾輩の名はシャルラッハ』
海王大蛸ことシャルラッハが、うめくように笑った。
『魔王軍七十二神将が七十位。「怪嘯」シャルラッハである……!』




