第6話『銀氷姫の物思い』
夜が明けて、しばらく経った野営地は、すでに普段通りの活気を取り戻していた。
冒険者たちは手際よく、朝食や昨晩の後始末をすませている。
焚き火の火を消す者。
荷物を背負う者。
武器の再点検をする者。
ガヤガヤと騒がしくしながらも、各々が手を止めることはない。
そんな中、アリアだけは、のんびりとした足取りで野営地を横切っていた。
「ふわ……」
とろんとした目のまま、小さくあくびをし、立ち止まって背伸びをする。
体にぴったりと張り付くシャツの形状が、アリアのしなやかなボディラインを強調し、普段は目立つことのない、胸元のかすかな膨らみをあらわにした。
シャツの裾がスカートから飛び出し、縦長のへそと、つるりとして引き締まった下腹部がちらりと覗く。
この場にアッシュがいたら、『はしたないからやめろ』とやかましく叱ってきたことだろう。
「おい、『氷姫』のお目覚めだ」
「普段のビシッとしてるところもいいけど、寝起きの無防備な感じもたまんねえな」
出立の準備をする手を動かしながら、むくつけき冒険者たちの目は、アリアに釘付けになっていた。
それが面白くないのは、ほかの女冒険者たちだ。
「ふん、なにさ。どいつもこいつもアリアアリアって」
「確かに見てくれはいいかもしれないけど、協調性ってもんがまるでないよ。あれじゃダメだね」
「ダンのバカが甘やかすからああなんのよ。ったく、兄貴はどんな教育してるんかしらね」
「あんなひ弱な『穀潰し』の言うことなんて、あたしだって聞きゃしないよ」
朝食の後片付けをしながら、ぶつくさと陰湿な陰口を叩く女衆のもとに、つかつかとブーツのかかとを鳴らしながらアリアがやって来た。
「ねえ、おばさんたち。エレナ知らない?」
「おばっ……誰がおばさんだい! こっちゃまだ三十路にもなっちゃいないんだよ!」
「ぶっ飛ばされたいの!?」
アリアの挑発的な暴言に、女冒険者たちがにわかに殺気立つ。
しかし、アリアは眉一つ動かさずに同じ質問を繰り返した。
「どうでもいい。エレナは?」
「エレナ? さっき水浴びに行くって言ってたけど、まだ戻ってないね」
「あの子は本当にしっかりした子だよ。気立てもいいし、気も利くし。
どっかの誰かさんに、爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだね」
「ふーん、わかった。ありがと」
面と向かって投げつけられた皮肉も完全に無視し、アリアはさっさと歩き去っていった。
「……なんなのよ、あのガキ!」
「本当にムカつくね!」
「いつか思い知らせてやる……!」
顔を見合わせ、再び陰口を再開した怒り心頭の女冒険者たち。
すると、アリアがくるっと振り返って一言言い放った。
「思い知らせる? 誰が? 私に?」
ふ、と口の端を吊り上げ、アリアは可憐に微笑んだ。
「楽しみにしてるね」
そのときは。
全力で迎え撃つ。
言外にそう告げると、その迫力に女冒険者はたじたじとなった。
それを見届けると、アリアは颯爽と立ち去った。
◆
(どうすれば、兄さんをもっと日の当たる場所に立たせてあげられるんだろう)
水場へ向かう道すがら、アリアは考え事にふける。
それは、アッシュが吸血鬼に成り果ててから、アリアがずっと悩み続けていることだった。
彼が人間であることをやめたのは、10年ほど前。
アリアは当時6歳で、記憶も曖昧だが、こんなやり取りがあったことだけを覚えていた。
◆ ◆ ◆
村が、炎上していた。
家々から立ち上る炎が、夜空を赤々と染めている。
熱い。息が苦しい。煙が目に染みて、涙が止まらない。
悲鳴。怒号。崩壊していく建物の轟音。
地面には、物言わぬ骸と化した人々が転がっている。
それらを拾い、引き千切り、貪る亡者どもの群れ。
アリアとアッシュの生まれ育った村は、一夜にしてこの世の地獄と化していた。
他ならぬ魔王軍の手によって。
『勇敢な子どもよ。背後にいるのは妹か?
その娘をよこせ。そうすれば、お前だけは助けてやろう』
闇が人の形をしたような男だった。
その姿を見ているだけで、こちらの心の奥底まで覗き込まれているような、居心地の悪さと寒気が全身を襲ってくる。
そんな仄暗いオーラを纏った吸血鬼が、アッシュに取引を持ちかける。
この地獄を生み出した張本人なのか、あるいは無関係なのか。
いずれにせよ、この男が魔族であることには変わりない。
アッシュはアリアの前に立ちはだかり、決然と言い切った。
『ふざけるな。誰がお前なんかにくれてやるものか!』
幼いアリアからしても、兄が虚勢を張っていることはわかった。
その証拠に、彼の手足はガクガクと震え、口元は恐怖で引きつっている。
それでも、兄が今際の際まで兄でいてくれたことに、アリアの胸はいっぱいになった。
――ああ、そうとも。
その喜びはまだ、枯れていない。一滴足りとも、潤いを失っていない。
毎朝起きるたび、毎晩寝るたびに思い出し、噛み締め、幸せに浸ることができる。
アッシュの答えに、吸血鬼は高らかに笑った。
『素晴らしい。認めよう、お前は誰よりも勇敢な戦士だ!
そのような男こそ、我が眷属となるにふさわしい……!』
言って、男は無造作にアッシュの首筋に食らいついた。
ぎゃっと短く悲鳴を上げたのち、体を痙攣させるアッシュを、アリアはただ呆然と眺めていることしかできなかった。
やがて、吸血鬼はアッシュを地面に置き、口元を丁寧にハンカチで拭いてから、大仰に両手を広げた。
『我が名はカインドレイク・ブラックベイル。
娘よ、兄にこう伝えよ。
いずれ私を殺しに来い。さもなくば、こちらから迎えに往くとな――』
◆ ◆ ◆
記憶はそこで途切れている。
その後、目覚めた兄は吸血鬼となっていて。
村を襲った魔王軍を単身で壊滅させたのちに、また意識を失った。
村人の中で、生き残りはアッシュとアリアの二人だけ。
遅れて駆けつけた冒険者や騎士団も、アッシュが吸血鬼になっている姿は見ていない。
その先はよくある話だ。
故郷を魔族に滅ぼされ、憎しみのままに魔王討伐を志す冒険者となった孤児が二人。
ただ、ありふれたパターンと少し違うのは、両者にはすぐに死んだりせず、それどころか目を見張る才能があったことだ。
片や、昼は最弱の昼行灯。しかし、夜は最強の吸血鬼。
片や、生まれながらにして、剣と魔法に愛された少女。
これまで、どれほどの難関を乗り越え、人々の脅威を打ち倒してきたか、枚挙にいとまがないほどだ。
だが、アリアは不服だった。
自分が受ける称賛の、その何十倍、何百倍もの栄誉を受けるべき人物が、あろうことか『穀潰し』などと呼ばわれ、侮蔑の対象となっていることが。
(Sランク冒険者になったくらいじゃ、教会にまで無理は効かせられない。
だったら、神官でも目指してみようか? 聖女にでもなれば、兄さんをかばってあげられるかも。
でも、私に聖属性の才能はないし……)
いろいろと思索を巡らせていると、灰色の岩が点在する荒れ地の中に、唐突に水場が現れた。
周囲を岩に囲まれた、小さな泉。
水は濁り、淀んではいるが、煮沸すれば飲めなくはないだろう。
水浴びするだけなら、なんの問題もない。
だが、アリアは疑念に首をかしげた。
(……エレナの持ち物がない)
さっき、女冒険者のひとりが言っていた。
エレナが水場から戻ってきていない、と。
もし、水くみや水浴びの最中になにかに襲われたのなら、なにかしらの痕跡が残っているはずだ。
それがないということは、
(入れ違いになっただけ? それとも……)
もう一つの可能性を念頭に置きながら、アリアは慎重に水の中を覗き込んだ。
緑色の水面に、アリアの端正な顔立ちが映る。
しばらく見つめていたが、水が汚くて、奥の方までは見通せない。
と、そのときだった。
ぐにゃり。
水面に映ったアリアの顔が笑った。
「っ――!」
それと同時に、泉の縁からヌメヌメした毛の束のようなものが伸びてきて、彼女の足首を捕らえた。
とっさにレイピアを抜こうとするが、テントに置いてきてしまったことを、腰に手をやってから思い出す。
(うわ、最悪――!)
ドボン!
一瞬で水中に引きずり込まれたアリアの周囲で、大柄な影が蠢く。
それは、一見すると馬の水死体のようだった。
全身に水草のような毛が生え、胴体はほとんどが腐り落ち、あばら骨が見えている。
唇はなく、臼歯がほとんど露出しており、白濁した目はどこを見ているのかもわからない。
しかし、豊かなたてがみは、まるで生き物のように動き回り、見る間にアリアの全身を縛りつけた。
『ヒ、ヒ、ヒ。こうしてしまえば、呆気ないものよねえ、人間なんぞ』
水の中だが、念話で馬の水死体――水妖馬が話しかけてくる。




