第2話『夜の散歩』
夜のクラウンヘイム。
月明かりに照らされた静かな街を、黒い外套を羽織った影が、建物の上を跳びながら巡回している。
屋根から屋根へ。
壁から壁へ。
人目に触れぬよう、音もなく。
(今日も異常なし、か……)
アッシュは街の外周部に向かいながら、心の中でつぶやいた。
これが、彼のもう一つの日常だ。
昼は冒険者ギルドで雑用をこなし、夜はひたすら街のパトロール。
(もう、何年になるだろうか。五年か、そのくらいか?)
この街に、兄妹二人で流れ着いてから、ずっとそうしてきた。
理由は単純だ。
ここに、アリアが住んでいるから。
ただ、それだけだった。
アリアが平穏無事に暮らすためなら、どんなことでもやるという覚悟が、アッシュにはあった。
炎天下のドブで汚泥にまみれようと、冒険者たちから心ないことを言われようと、そんなことは物の数ではない。
泥は水で流せばいい。
暴言など、聞き流して、寝ればそのうち忘れる。
けれど、本当に辛くて悲しいことは、一度刻みこまれたら、二度と消えてなくなってはくれない。
そんな苦しみから、アリアを一ミリでも遠ざけられれば、それでいい。
本当なら、ほんの小さな小石や凹みだって、つまずいて転ぶかもしれないから、街中から撤去してやりたいくらいだった。
しかし、さすがにそこまでするわけにはいかない。
もし、誰かに正体――アッシュが吸血鬼だとバレてしまえば、すべてが終わってしまう。
アッシュは当然として、アリアの人生も。
吸血鬼の肉親ともなれば、教会に捕らえられ、拷問され、最悪の場合は磔――死ぬまで炎天下に晒され続けるだろう。
彼女が、吸血鬼でないことを、身をもって証明させるために。
(そんなことは、絶対にさせない)
目立たないように。気づかれないように。
昼間は『穀潰し』のそしりを受け。
夜は姿を見せない庇護者に徹する。
そんな日陰者としての生き方が、アッシュの選んだ道だった。
街を囲う外壁の縁に、音もなく降り立ったところで、アッシュはピクリと耳を動かした。
(魔物だ。魔力反応からして、せいぜいAランクか)
アリアが苦戦するレベルではまったくないのは確か。
それでも、このあたりの冒険者にとっては、じゅうぶんな脅威となりうる。
すなわち、
(アリアに出動命令がかかる可能性がある。危険だ)
なぜなら、16歳の彼女にとって、十分な睡眠は必要不可欠なもの。
たかだかAランクの魔物ごときのために、奪われていいものではない。
外壁から飛び降り、着地すると、アッシュは風のように駆け出した。
◆
「夜警なんて意味あんのかねえ……ここんとこ、このへんじゃ魔物どころか盗賊だって出てないのに」
「うるさいわね。黙って歩きなさい」
「クソ女がよ……」
ぶつくさと文句を垂れながら、松明を手にした新人冒険者二人組が夜道を行く。
夜警とは、街の外周を覆う柵周辺を、夜通し監視する任務のことだ。
冒険者なら、誰しもが経験し、そして二度とやりたくないと思う仕事の一つである。
ただ見張り台に突っ立っていればいいだけでなく、一定時間ごとに外縁部に降り立ち、見回らなくてはならない。
前日の雨で地面はぬかるみ、馬の糞と渾然一体となって、耐え難いほどの臭気を放っている。
新人のひとり、クルトはそれがたまらなく嫌だった。
「雨の日は本当に嫌いだ……マジでくっせえの」
「……それは私も思う」
「だろ?」
ようやく相方の新人、エレナの同意が得られ、クルトは少しだけ溜飲が下がる。
それを期に、せきを切ったようにクルトの愚痴が吐き出された。
「ダンの野郎、いつかぶっ飛ばしてやる。ちょっとランクが高いからって、いつも偉そうにしやがって」
「あんたじゃ一生かかっても無理よ」
「じゃあ、お前ならできんのかよ」
「別にぶっ飛ばしたいなんて思ってないし」
「ケッ、そりゃあいつが女好きだからだよ。女なら誰だっていいのさ、あの女たらし野郎――」
「『誰が女たらしだって?』」
「ひっ!?」
どこからともなく響いたダンの声に、クルトは飛び上がった。
(嘘だろ、聞かれた……!? 今の悪口、聞こえてた!?)
真っ青になり、冷や汗をダラダラ流しながら、クルトが必死に言い訳を始める。
「い、いや、違います。俺はただ、その、あれだけ女をたらしこめるダンさんはやっぱすげえなあって……」
「……ぷっ、くはははは!」
「……へ?」
間抜けな顔で辺りを見渡すも、そこには腹を抑えて笑っているエレナの姿しかなかった。
そう、さっきのダンの声は、エレナのモノマネだったのだ。
クルトは羞恥と怒りが顔が真っ赤になった。
「てめっ、この!」
「だって、あんた本人の前じゃいっつも縮こまってるのに、そんなにでかい態度とって面白かったから、つい」
「ついじゃねえよ。ったく、似過ぎなんだよお前の物真似」
「ま、昔はこれ一本で食っていこうなんて、バカなこと考えてたしね」
「今からでも遅くねえから転職しろ。冒険者なんて儲からねえぞ」
ふんと鼻を鳴らし、クルトが前を向いたそのときだった。
「『誰が女たらしだって?』」
「……しつけえな。同じネタこするんじゃねえよ」
再び、ダンの声が夜の闇から聞こえてきて、さすがのクルトも眉をしかめた。
(エレナのやつ、味を占めたな。二度も引っかかってたまるか)
「『誰が女たらしだって?』」
「はいはい、面白い面白い。今度本人の前でやってやれよ」
「……いや、あの、ねえ、クルト」
「あ? なんだよ」
震えた声音で漏らすエレナのほうを、クルトは不機嫌もあらわに振り返る。
「今の、私じゃない……」
「……は?」
エレナは顔面蒼白になり、歯の根をガチガチ鳴らしていた。
呼吸は浅く、全力疾走したあとのようにハッハッと息を切らしている。
「じゃあ、誰が――」
やったんだよ、と言いながら、クルトは前方を向き直る。
「『誰が女たらしだって?』」
そこにいたのは、全高3メートルはあろうかという、巨大な人面の獅子だった。
男とも、女ともつかない不気味な面貌。
もじゃもじゃのたてがみには、腐った肉片や泥が絡みつき、異臭を放っている。
尻尾は長大なヘビの形をしており、これまたその先端には、赤子のような顔が生えていた。
(人面獅子……ダメだ、終わった)
分類にして、上から二番目――Aランクの冒険者が、数人がかりでやっと仕留められるとされる――Aランクの強力な魔物だ。
最低ランク――Fランクの新人冒険者など、何人束になったところで、勝ち目は万に一つもない。
バシャッ、とエレナが腰を抜かして、ぬかるみの上にへたり込んだ。
「に、逃げろ。エレナ。俺が引きつける……!」
それでも、最期まで意地を張り通せた自分を、クルトは自分で褒めてやりたいと思った。
わななく手で剣の柄を握り、引き抜く。
もし、二人でなかったら――相方がエレナでなかったら、こんな風に見栄を切って死ぬことはできなかっただろう。
「クルト……」
「さっさと行け! 早く皆に伝えろ!」
それだけ言い切ると、クルトは雄叫びを上げながら人面獅子めがけて突っ込んだ。
ニヤリ、と人面獅子の顔が醜悪に歪められる。
(神様。どうか、エレナだけは助けてやってください。神様――!)
顔面へ迫りくる人面獅子の爪が、クルトには異様なほどゆっくりに見えていた。
頭の中に、人生を総編集した走馬灯がよぎる。
次の瞬間。
ザンッ!
「っ!?」
人面獅子の首と前足が、横合いから飛んできた斬撃によって斬り飛ばされた。
「……え、あ?」
叫び声を上げた口の形のまま、クルトは間抜けな声を出しながら、斬撃の方向を見た。
そして、二度絶叫した。
「うわああああ――!」
ズ、と地面にめりこんだ幅広の剣を、それは引っ張り上げた。
そこに立っていたのは、悪夢から抜け出してきたような怪物だった。
全身を黒い外套で覆い、顔は真っ白な仮面で隠されている。
仮面の目に当たる部分には、ナイフで乱暴に切り裂いたようなスリット。
その奥には篝火のような真紅の炎が燃え盛っている。
月光に照らされ、闇夜に映える長い灰色の髪。
ガシャン、と肩に担がれた剣をよく見れば、それは処刑人が使う剣だった。
姿形こそ人間のものだが、明らかにそれは人などではなかった。
クルトの本能が、全身全霊で叫んでいる。
「逃げろおおおお――!」
クルトは剣を放りだし、腰が抜けたままのエレナを小脇に抱えると、とんでもない速さで駆け出していった。
「吸血鬼! 吸血鬼だああああ――!」
クルトの叫びが、静謐な夜空にこだました。
◆ ◆
「また出やがったか、吸血鬼の野郎」
「近頃は大人しくしてると思ったら……」
翌日。
冒険者ギルドの広間は、ピリッと張り詰めたような緊迫感で満たされていた。
どの顔を見ても緊張しており、ダンでさえ真剣な顔つきだ。
そのダンが悔しそうにテーブルの天板を叩いた。
「チッ、吸血鬼め。俺がきのう夜警に出てりゃ、その場でぶっ殺してやったのによ。なんだって新入りのときなんかに……」
「お前でも無理だろ。人面獅子を一撃だぞ?」
「アホか。そんなのクルトのバカの見間違いだ。
じゃあ、なんで人面獅子を瞬殺できるようなバケモンが、あのバカとエレナちゃんを見逃したんだよ」
「うーむ、確かに」
「おおかた、ただの獣を勘違いしたんだろう。そうに決まってる」
すると、それまで黙りこくっていたアリアが、やおら口を開いた。
「助けてくれたのかもよ」
「え? なんて?」
ダンが耳ざとく聞きつけ、手を耳にかざす鬱陶しいジェスチャーをする。
反射的に殴りつけたくなる衝動を抑え、アリアはもう一度言った。
「吸血鬼は、クルトとエレナを、助けてくれたのかも」
「いやいや、いやいやいや、アリアちゃん。それはないって」
ダンが苦笑しながら首を振り、周囲に同意を求める。
ほかの人間も、ダンと同意見だとばかりに肩をすくめたり、顔を見合って笑った。
「おとぎ話じゃないんだから、人間を助ける魔族なんかいねーよ」
「なら、吸血鬼が人面獅子を倒した理由は?」
「魔族同士の仲間割れなんか珍しくないさ。あいつらの中にも派閥があるみたいだからな」
それなりに筋の通った反論をされ、アリアは二の句が継げなくなる。
「話は終わりか? では、これより緊急会議を開始する。議題は、人面獅子と吸血鬼についてだ!」
カイゼルひげを生やしたギルドマスターが、胴間声を張り上げた。




