第19話『受付嬢の妄想』
翌朝。
ギルドの給湯室で、手鏡を見ながらクレアはくさくさしていた。
(うわー……ひっどい顔。最悪)
厚塗りの白粉でも隠しきれない、肌の荒れ。目の下のクマ。
血色の悪さをごまかすために、いつもより濃いめの口紅を引いたのも失敗だった。
これでは、まるで滑稽芝居の舞台役者ではないか。
よっぽど出勤などしたくなかったが、この程度のことで弱音を吐いてはいられない。
もっともっと働いて、いつかはギルドマスターの地位についてみせる。
それが、クレアの夢だからだ。
しかし、それを絶賛妨げているのが、受付嬢たちが言うところのあの方だった。
(管理職になったら、いの一番にあのババアを、このギルドから叩き出してやる。
証拠はたんまり集めてあるんだから楽勝よ)
そう自分を鼓舞し、給湯室を出ようとしたところで、クレアは誰かと鉢合わせしそうになった。
相手は、マチルダだった。
妙に背が小さく見えることだけ気にかかったが、それどころではない。
(あーもう。ぜったいなんか嫌味言われる)
若いのに不注意だのなんだの。
そういうところが職務態度に出ているだのなんだの。
マチルダが口を開くまでのわずかな時間に、さっとそんな言葉が頭をよぎるクレア。
しかし、彼女が発したのは、信じられないセリフだった。
「わ……悪かったわ」
「っ!?」
クレアはぎょっとして立ちすくみ、目を何度もしばたかせた。
(嘘。いまなんて言った? 『悪かったわ』? 冗談でしょ?)
ギルドで働き始めて五年になるが、マチルダが謝意を示したのは、これが初めてだ。
無論、口先だけの謝罪なら、いくらでも耳にしてきた。
だが、今のは違う。
本気でクレアに許しを請うているような、そんな切なる願いがこもっていた。
「わ、私ね、あなたにずっと謝りたいと思ってたの。
ほら、いつも仕事をお願いしたり、そのせいで遅くなったりしてたのに……」
「い、いえ、いいんです。そんな、あらたまったりしなくて……」
これは、いったいどうしたことだろう。
転んで頭でも打ったのではなかろうか。
半ば本気で心配になったクレアは、マチルダに尋ねた。
「あの、昨日、なにかあったんですか?」
すると、マチルダは、まるで幽霊でも見たかのように、肩をビクッと震わせた。
よく見れば、彼女もまた、クレアと同じく、元気ハツラツとはいえない顔をしている。
いつもにも増して化粧が厚く、それでいて、一夜にして十年分老け込んだかのように、目尻や口元のシワは深かった。
特にひどいのが目元だ。
瀕死の病人のごとく、ドス黒い目元。
白目はひどく充血し、まぶたはヒキガエルを思わせる厚ぼったさだった。
(彼氏にでも振られた? いや、でも、結婚前提で付き合ってる人がいたなら、自慢してくるに決まってるし)
そうでなければ、身内に不幸があったとしか思えない。
それほどまでに、マチルダの憔悴ぶりは悲惨だった。
マチルダは、しばらくの間、視線をさまよわせながら、口を半開きにしていたが、やがて唇をピクピクと痙攣させた。
どうやら、愛想笑いをしようとしているらしい。
「な、なんでもないわ。ごめんなさいね、心配かけちゃって。
そんなことより、あなた、この間、保険金の計算を押しつけちゃった日に、酔っ払いに絡まれたそうじゃない? 怪我はなかった?」
「ええ、なにも……」
言いながら、クレアは疑問に思った。
あの日のことは、誰にも話していない。
『どうやって助かったのか?』という話になったら、必ず嘘をつかなければならないからだ。
それは、助けてくれた吸血鬼に対して、不誠実な気がするし、もし本当のことを話せば、大騒ぎになる。
街の外だけでなく、中にも『奴』が出たとなれば、夜間に警備を行う守備隊や冒険者たちの負担は激増するに違いない。
そんなことは不要だ、と主張すれば、頭がおかしくなったと思われるか、最悪の場合、にっくき吸血鬼の眷属だとして、教会に処刑されかねない。
そういうわけで、あの日の出来事は、クレアの中で秘中の秘として胸の内にしっかりとしまわれていた。
もちろん、『自分から誘ったんじゃないの?』などと言ってくるだろうマチルダには決して明かしていない。
(んー……? 変だなあ)
クレアが頭の中に疑問符を浮かべていると、
「ならよかったわ。とにかく、金輪際あなたに負担をかけるようなことはしないから、それで今までの不義理は勘弁してちょうだいね。それじゃ!」
早口でそれだけ言うと、マチルダはそそくさと去っていった。
その後ろ姿をなんとなしに見送ったクレアだったが、あることに気がついた。
(あれ、靴変わってる。ていうか、ヒールじゃない)
いつものマチルダは、『レディの嗜み』とか言って、職場にも関わらず、真っ赤なハイヒールを履いていた。
だが、今日は地味な茶色のパンプス姿なので、普段より身長が一回り小さく見えたのだ。
これは、いよいよもって、謎が深まってきた。
その場に立ち止まったまま、クレアは考えにふける。
(靴が変わったってことは、ヒールが折れた? それ自体は変じゃない。
でも、昨日なにかがあって、あのババアが心変わりしたのは事実。
となると、ヒールが折れたことと関係してる? 誰かに襲われた? 夜中に?)
ここまでつらつらと推理したところで、クレアの中に天啓が訪れた。
(……もしかして、吸血鬼?)
まったく、突飛で非論理的な空想だ。
そうであってほしい、という願望が、多分に含まれていることは否定できない。
だって、まるっきり出来すぎている。
これでは三流のロマンス小説だ。
一度はそう笑い飛ばそうとしたクレアだったが、
(いや、でも、これならマチルダさんが、私が襲われかけたのを知ってたことに説明がつく……)
吸血鬼がマチルダを脅迫し、クレアに謝罪するよう仕向けたとすれば、あながち破綻はしていない。
(あれ? 意外といい線いってるかも)
そのことに気づいた瞬間、クレアの心臓がドクドクとうるさいくらいに高鳴り始めた。
(やだ、ちょっと待って、本当に……!)
両手で胸を抑え、なんとか気を静めようとするクレア。
だが、一度たかぶってしまった感情は、そう簡単に落ち着いてはくれなかった。
もし、吸血鬼が、自分を想ってマチルダをこらしめてくれたのだとしたら。
クレアの中で、ピンク色のもやがかかった妄想が、勝手に展開し始める。
『クレア……』
吸血鬼が仮面を外しながら、あのハスキーな声で自分を呼ぶ。
あらわになったのは、もちろん絶世の美貌だ。
場所は冴え冴えしい月光に照らされた、廃城の中庭にある八角形の屋根をした東屋。
2メートルを超える大男に迫られ、本能的にあとずさるクレア。
しかし、その華奢な身体を、吸血鬼はがっしりとした腕で無理やり包みこんでしまう。
『君は俺のものだ。誰にも渡さない』
『い、いや……』
なんとかそこから抜け出そうともがいてはみるが、力の差は歴然。
吸血鬼の拘束は鉄のように固く、びくともしない。
『さあ。俺と永遠を生きよう。クレア……』
『だめ……』
口では嫌がってみせるものの、すでにクレアは抵抗を諦め、されるがままになっていた。
左手で腰を抱かれたまま、吸血鬼の右手がクレアのうなじに添えられ、思わずゾクッとする。
そのまま、吸血鬼の顔が近づいてきて……。
「クレアさん?」
「ひゃあっ!?」
とつぜん名前を呼ばれ、クレアは驚いて跳び上がった。
「はいっ! なんでしょう、なんでしょう!?」
焦りのあまり、下手くそな操り人形のようにカクカクとした動きで振り返るクレア。
そして、声の主の正体を知って、さらにぶったまげた。
「あ、あああアッシュさん!? どうしたんですか、こんなところで!?」
「いえ、裏口から……今朝はこっちから入ってくれと言われていたもので……」
珍しく、もごもごと気まずそうに言葉尻を濁すアッシュ。
おまけに、いつもは、相手の目を見て話す男なのに、露骨にクレアから目を背けている。
まるで、なにか見てはいけないものを見てしまったかのように。
ザーッと音を立てて、クレアは血の気が引いていくのを感じた。
(嘘、見られた? 見られた? 見られた? 嘘でしょ?)
あんな……思い出したくもないような、小っ恥ずかしい妄想にふけっていたときの顔を?
よりにもよって、アッシュに?
(いや。なにが『よりにもよって』なのかはわからないけど!)
まだだ。
まだ、可能性はある。
もしかしたら、ぜんぜん関係なかったという線も。
一縷の望みをかけ、クレアは恐る恐るアッシュに尋ねた。
「……見まし」
「見てないです」
「見てるじゃないですかあああ――! いやあああ! もおおお――!」
茶色いボブカットの髪をグシャグシャにかきむしりながら、その場にうずくまるクレア。
顔から火が出るなどとはよく言うが、そのまま全身に延焼して燃え尽きてしまいたい気分だった。




