第18話『お局様の後悔』
青年はマチルダの隣に腰掛け、手慣れた様子で『シルバームーン』を頼んだ。
「レディ、なににいたしますか? おごらせてください」
どれを選べば、センスのいい女だと思われるか。
必死に思案した結果、何も思いつかなかったマチルダは、
「じ、じゃあ、私も同じので……」
「さすが、お目が高い。1215年ものは特に当たり年なんですよ」
にっこりと微笑む青年に、思わずくらりとくるマチルダ。
心臓の高鳴りが止まらない。
酒に酔っているから?
違う。この胸のときめき、忘れて久しい感覚だ。
「失礼、私はエフェルといいます。お名前、お伺いしても?」
「わ、私はマチルダ。あなた、このへんでは見ないお顔だけれど、どちらで働かれているの?」
「しがない宝石商ですよ。あなたは? マチルダ」
(まっ。いきなり呼び捨てだなんて……でも、この人ならいいわ)
人一倍プライドの高いマチルダだったが、青年ことエフェルに呼ばれる分には、むしろ相手から距離を詰めてくれているようで、悪い気はしなかった。
それよりも、マチルダには気になる部分があった。
「宝石商? いいお仕事に就かれているのね。私、宝石には少しうるさいのよ」
「やはりそうでしたか。お召しになっているネックレス、とても素敵です」
「そ、そうでしょう? アメジストなんだけど……どこ産のものか、わかるかしら?」
「ふむ、失礼……」
エフェルはマチルダの胸元のネックレスを手に取り、顔を近づけて思案し始めた。
(なんて肌が綺麗なの……! それに、すごくいい香り……どこの香水なのかしら)
思わぬ急接近に、ドキドキが最高潮に達するマチルダ。
しかし、エフェルがすぐに離れてしまい、夢のような時間は一瞬で終わった。
名残惜しさを感じるマチルダに、エフェルはさらりと告げた。
「ヴェルディア公国のものかと。10年前に買われましたか?」
マチルダは呆気にとられ、口を半開きにした。
産地どころか、購入時期まで大正解だったからだ。
「すごいわ。なんでわかったの?」
「カットの入れ方が特徴的ですから」
こともなげにそう言って、エフェルはワインに口をつけた。
そして、いたずらっぽく唇を弧にする。
「いちおう、本職なので」
(ダメだわ。私、もう完全にダメだわ)
自身が恋に落ちたことを自覚し、マチルダは高揚感に酔いしれた。
厳密には、ヴェルディア公国産を謳ったアメジストの偽物が、10年ほど前に流行っており、マチルダもまたその被害者であると見抜かれただけだった。
しかし、そのことには触れず、エフェルは彼女をよいしょし続ける。
「アメジストは知性と高貴さの象徴。あなたにはぴったりの品です」
「い、いやだわ、そんなこと言って……」
そこで、エフェルが信じがたいといった様子で形のいい眉をひそめ、首をかしげた。
「なぜ、あなたのような美しい女性が、お一人で?
周りの男たちは、いったいなにをしているのでしょうね」
すると、マチルダの虚栄心がむくむくと鎌首をもたげた。
「そうなのよ、聞いてちょうだい。私、冒険者ギルドに勤めているのだけど――」
そこから、せきを切ったようにマチルダの愚痴が噴出した。
やれ、職場の後輩が無能なくせに生意気で困る。
やれ、職場の後輩が仕事中に男漁りをしている。
やれ、上司が若いだけで可愛くもない後輩ばかり可愛がっていて腹が立つ。
聞くに堪えない醜い嫉妬と、聞く人が聞けば、『そりゃあんたのことだろ』と突っ込まれてもおかしくないような八つ当たりの雨あられ。
おまけに酔っ払っているので、同じ話を二度三度と繰り返す有り様。
金をもらっても聞きたくないような長広舌だったが、エフェルは嫌な顔ひとつせず、真摯に聞き入っていた。
「――もう、本当に最悪。私の人生、こんなことばっかりなのよ」
何杯もグラスを空け、ぐでんぐでんになったマチルダを介抱しながら、エフェルが優しく語りかける。
「そろそろ、出ませんか。マチルダ。飲み過ぎですよ」
「大丈夫よ、わらし、お酒は強いんらから」
呂律の回らない口調で、泥酔者特有の根拠のない強がりを発するマチルダの耳に、エフェルがそっとささやいた。
「……私の家で、飲み直しませんか? いいお酒があるんです」
その言葉で、マチルダは一瞬でシャキッと目が覚めた。
(嘘。これって、そういうことよね?)
見るからに金持ちそうな美男子とのワンナイト。
これは、ひょっとすると、ひょっとするのでは?
昏睡しかけていた脳みそが、再びギアを跳ね上げる。
「ええ、ぜひ!!!」
「……わ、わかりました。では、マスター。お会計を……」
あまりの食いつきように、エフェルはじゃっかん引いた様子でマスターに目配せをした。
◆
酒場を出ると、すでに街は寝静まっており、火照った体に心地よい夜風が吹きつけてくる。
マチルダはふらついた振りをしてエフェルにしがみつくと、彼は微笑とともに彼女の身体を受け止めた。
「行きましょうか」
「ええ……」
すっかり夢見心地のマチルダを連れて、エフェルは石畳で舗装された表通りから、薄暗い裏路地へと歩を進めていく。
「エフェル、怖いわ。私、こんなところ歩くの……」
「ご安心ください。私がついていますから」
カマトトぶる(ウブなフリをする)マチルダに、エフェルは彼女が期待した通りの反応を返してくる。
(今晩で絶対に決めるわ。私、こんな田舎臭い街の冒険者ギルドなんかとはおさらばして、彼のお嫁さんになるのよ)
バラ色の未来を空想しながら、マチルダはメラメラと決意の炎を燃やす。
大陸を股にかける宝石商の妻ともなれば、玉の輿確定だ。
毎日湯水のように金を使って遊び歩き、好きなだけジュエリーをつけ比べることだってできるはず。
(お先にね、クレアさん。あなたにはダンみたいな粗野な男がお似合いよ、なんてね)
にっくきクレアに、どんな勝利宣言をしてやろうか、などと算段しながら、マチルダはエフェルに蠱惑的――と本人は思い込んでいる――な流し目を送る。
「でも、それでも不安だわ。男はオオカミって言うじゃない?
こんな路地裏に連れ込んだりして、本当はなにかする気じゃないの?」
(そういうのも私、嫌いじゃないわ。彼にされるなら……)
鼻息を荒らげるマチルダに、エフェルは打って変わって冷たい声を投げかけた。
「お前に? 冗談だろ?」
「……え?」
意外な返答に、マチルダはエフェルの顔を見上げる。
月を背にした彼の顔は、逆光でうかがい知れなかった。
「エフェル?」
「こういうことは初めてやるが……こんなに簡単に引っかかるとは。
噂通りのバカさ加減だな、マチルダ」
「あなた……誰?」
にわかに恐怖に駆られ、後ずさりしたマチルダのかかとが、カツンと民家の壁に当たる。
エフェルはゆっくりと振り返り、鋭い犬歯をむき出しにして笑った。
その凶暴な面貌には、先ほどまでの爽やかな面影など微塵も残っていない。
「昨日、保険金の計算をクレアに押しつけて帰ったそうだな?」
マチルダの心臓が、嫌な感じに跳ね上がった。
同時に、どっと冷や汗が吹き出し、背筋が冷たくなる。
震える喉から、マチルダは必死に言葉を絞り出した。
「な、なんでそのことを……」
「そのせいで、彼女は帰りが遅くなり、危うく暴漢に襲われるところだった。
ほかにもいろいろと……悪行を重ねているようだな。
噂は聞いていたが、本人の口から、はっきりと教えてもらえてよかった」
「誰!? 誰なのあなた!?」
ほとんど悲鳴のようにマチルダは問いかける。
それに対し、エフェルは――エフェルと名乗っていた男は、にこりともせずに言った。
「俺の正体など、誰も知る必要はない。俺はただ、この街の人々を守れればそれでいい。
お前のような輩からな」
「ひっ!」
メキメキメキ、とエフェルの体躯が膨れ上がり、タイトなシャツのボタンが弾け飛ぶ。
カラスの羽のように黒い外套と、白骨を思わせる真っ白な仮面を身に着け、エフェル――吸血鬼は大股に一歩踏み出した。
ズシン!
地面が揺れるほどの地響きが鳴り、マチルダは腰を抜かしてしまった。
石畳に尻を打ちつけたマチルダのハイヒールが、ポキリと音を立てて折れる。
へたりこんだマチルダの顔のすぐ横へ、吸血鬼はおもむろに手をついた。
「お前の人生は嘘だらけだ。
後輩に仕事を押しつけながら、『自分のほうが働いている』と見栄を張る。
無能なのは自分なのに、『後輩は無能だ』と愚痴を垂れる。
おまけに……」
吸血鬼はおもむろに、マチルダのネックレスを手に取った。
「このネックレス、ヴェルディア公国産などといったが、あれは嘘だ。
それはただ着色しただけのガラス玉。なんの価値もない偽物だ。
審美眼もないくせに宝石通を気取る傲慢さ……本当に滑稽だったよ」
ひとつひとつ、丹念にマチルダの虚栄心が打ち砕かれていく。
マチルダは、まるで足元の地面が、ガラガラと崩壊していくような絶望感を味わった。
「俺はいつでもお前を見ている。その気になれば、お前が寝ている間に、家に忍び込むことだってできる」
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……許して、許して……!」
泣きじゃくり、涙と鼻水で化粧がドロドロになったマチルダの無様な顔を見て、吸血鬼はくつくつと笑った。
「安心しろ。そんなことはしない。今はまだ、な。
それより、謝る相手が違うだろう。わかるな?」
ブンブンと髪を振り乱す勢いで何度も首を縦に振るマチルダ。
それを見て、吸血鬼は満足したように彼女から離れた。
「よし。なら、今回は勘弁してやろう。
だが、態度の改善が見られないようであれば……また、俺はお前の前に現れる。
お前の気付かないうちにな」
そう言い残すと、吸血鬼は霧のようにその場から姿を消した。
それからしばらくして、マチルダはよろよろと立ち上がった。
騙されたことへの恥辱。怒り。悲哀。
様々な感情がるつぼのように彼女の中で渦巻いていたが、もっとも大きかったのは、吸血鬼への恐怖だった。
「うう……」
マチルダは泣き腫らした目で、折れたハイヒールを脱ぎ捨てると、ふらふらと家路についた。
ほんの数分前まで夢見ていた輝かしい日々が、すべて幻と消えたことを悟りながら。
◆
その頃。
レンガ造りの屋根の上に、二つの人影があった。
「兄さん、終わった?」
「……ああ」
人間の姿に戻ったアッシュは、捨てられた犬のようにトボトボ歩いているマチルダの背中を、気の毒そうに見下ろした。
「さすがに、やりすぎだと思うんだが……」
「いいよ、別に。あいつのクレアさんへのいじめ、ひどかったし。
しかも、私の目を盗んで、兄さんにも舐めた口利いてたんでしょ?
あれくらいで済ませてもらって、感謝してほしいくらい」
兄であるアッシュでさえ、肝が冷えるような目をしているアリアに、
(やはり、俺が手を下して正解だった。妹も悪く言われたから、個人的に思い知らせてやりたかったというのもあるが……)
と、アッシュは自分を納得させようとした。
もしアリアにやらせていたら、今ごろマチルダは自分の足で歩いていなかっただろう。
言うまでもなく、今回のハニートラップは、アリアによって計画されたものだった。
諸々の必要な情報を、すべてアリアが受付嬢たち経由で入手し、それらをもとにねった計画を、アッシュが代理で実行した形となる。
当初、アッシュが立案したのは、吸血鬼の姿でマチルダを脅すだけというシンプルなものだったのだが、
『そんなんじゃダメ。もっと痛い思いさせてやらないと』
こうして、むやみに手の込んだ『マチルダ懲らしめ作戦』が完了したわけだが、アリアには気になる点があった。
「兄さんさ、ハニトラなんてやるの、初めてでしょ?」
「当たり前だ。こんな悪趣味な真似、もう二度としたくない」
「その割には、なんか手慣れてなかった? そこまで指示した覚えないんだけど」
「……適当にやっただけだ」
「ふーん……」
疑わしげな目つきで、アリアは目をそらすアッシュを下から覗き込む。
「実は、結構遊んでたりして?」
「まさか。俺なんかを相手にする女など、いるはずがない」
「そんなこと、ないと思うけどね。クレアさんとか、いつも妙に兄さんに優しいし」
なにやら含みのある言い方をするアリアを、アッシュは鼻で笑った。
「バカなこと言うな。仕事だ、仕事」
「でも、ほかの受付嬢は兄さんに冷たいじゃん」
「クレアさんはいい人なんだよ。職務に忠実で、誰に対しても平等で、真面目なんだ。
マチルダに仕事を押しつけられても、いつも嫌な顔ひとつせず引き受けて、どんなに遅くなってもやり遂げていた。まさに仕事人の鑑だ」
いつになく饒舌なアッシュを、アリアがジトッとした目で見る。
「へーえ。そういうところが好きなんだ」
「……あんまりくだらないこと言うと、怒るぞ」
「あ、図星だ。やーい、図星図星ー」
むっと口をへの字に曲げるアッシュをからかっていたアリアだったが、夜風の冷たさにきゅっと身を縮めた。
すると、アッシュは無言で羽織っていた外套を彼女に着せてやる。
「寒いだろう。帰るぞ」
「うん」
アリアはアッシュに向かって手を伸ばした。
「だっこ」
「……甘えるな。いい年をして」
「まだ16だよ? 子どもだよ? こんな夜道を一人で歩いて帰らせる気?」
「まったく……」
不承不承といった面持ちで、アリアを抱きかかえると、彼女はアッシュの首元に手を回した。
「ありがとう、兄さん。私のために怒ってくれて」
「……当然のことだ」
アッシュはひといきに飛び上がり、あっという間に夜の街を駆け抜けていった。




