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17話『お局様の憂鬱』

 翌朝。

 いつもより少し早めに出勤したクレアは、コーヒーを淹れながら、考えごとに没頭していた。

 昨夜の出来事が頭から離れず、よく眠れなかったのだ。


(あの吸血鬼(ヴァンパイア)、本当にアッシュさんなのかな……)


 熱々のマグカップを手に、自分の席に戻るクレア。

 芳醇な香りを醸し出すコーヒーをすすり、書類にささっと目を通しながらも、頭の中は例の吸血鬼(ヴァンパイア)のことでいっぱいだった。


 虚弱なアッシュと、筋骨隆々の吸血鬼(ヴァンパイア)

 異なる点は、数え始めれば枚挙にいとまがない。

 体格。運動能力。行動力。

 

(でも、あのお辞儀は、絶対アッシュさんだった)


 間違いない。

 何十、何百回と、この目で見てきたのだから。


吸血鬼(ヴァンパイア)になると、体格や声も変わるのかな?

 だとすれば、ぜんぶ説明がつくんだけど……でも、こんなこと軽々しく聞けないし……)


 自身が吸血鬼(ヴァンパイア)であると露見すること。

 それ即ち、死を意味するといっても過言ではない。


 今まで、教会に捕捉されて、逃げおおせた不死者は一人としていないからだ。

 少なくとも、公式にはそう発表されている。


 多少の誇張はあるとしても、クレアは自らの見聞から、それがあながち嘘ではないことを知っていた。


(教会は不死者を見つけたら、なにがなんでも見逃さない。

 たとえ、誰が何人死んだとしても、必ず追い詰めて、最後には仕留める。

 仮に本当に吸血鬼(ヴァンパイア)だったとしても、アッシュさんを、そんな目に遭わせるわけにはいかない)  


 いつも誠実で、礼儀正しく、できることを一生懸命にこなそうとするアッシュのことを、男性としてどうこうという目で見たことはないけれど、クレアは人として尊敬していた。

 

 (違うなら違うでいいし、もし吸血鬼(ヴァンパイア)なら、正体を隠すお手伝いがしたい。

 でも、なにをどうすればいいんだろう?)


 うーん、とクレアがこめかみを揉み込んでいると、ギルドの扉がやかましく開いた。


「おはよう、クレアちゃん! 今日も可愛いね!」


 ダンだった。

 うるさいのが来たな、と思いつつ、クレアはにこっと営業スマイルを浮かべた。

 

「おはようございます」


「昨日の保険金未払いの件、その後はどう? 俺からガツンと言っといたから、なにもなかったとは思うけどさ!」


「ええ、おかげさまで何事もなくすみました。ありがとうございます」

 

「そりゃよかった! もし、俺にできることがあったら、なんでも言ってくれよな!

 ……で、飲みの件なんだけどさ。今晩、どうかな?」


 くいっとジョッキを傾ける仕草をするダン。

 クレアは頬が引きつらないよう、表情筋を総動員して笑顔をキープした。


(うわ、最初からそういう魂胆か。あれくらいなら、私ひとりでもなんとかなったのに……)


 しかし、実際に世話になってしまった以上、ダンには借りがある形になる。

 早めに清算しておかなかれば、あとあとさらに面倒なことにもなりかねない。


(仕方ない。一杯だけ、付き合ってやるか……)


 心の中でため息をつき、クレアは両手を挙げる代わりにコクリとうなずいた。

 

「じゃあ、ちょっとだけ……」


「あら、ダン。今日飲むの? じゃあ私も誘ってもらおうかしら!」


 と、そこへ鼻息荒く割って入ってきたのはマチルダだった。

 まるでタイミングを見計らっていたかのような登場ぶりに、クレアは敵ながらあっぱれと内心賛辞を送る。


 案の定、ダンは露骨に笑顔を硬くした。


「え? マ、マチルダさんも?」


「いやねえ、ダンったら。私もクレアさんみたいにちゃん付けでいいのよ?

 もしかして、年上だからって気を使ってる?」


「いや、その歳でちゃん(・・・)はちょっとキツ……ごほん」


 小声で本音を漏らしたダンだったが、ごまかすように大きく咳払いをし、わざとらしく大声を出した。

 

「あ、あー! 思い出した! 今日俺、用事あったわ! ごめーんクレアちゃん! とマチルダさん。やっぱまた今後で!」

 

 ぴゅーっと逃げていくダンを名残惜しそうに見送るマチルダ。

 マチルダの存在が、こんなにありがたく感じられる日が、よもや来ようとは。

 数奇なめぐり合わせに感謝しつつ、クレアはマチルダに挨拶した。


「おはようございます、マチルダさん。さっきは助かりました」


「は? なにが? 意味のわからないこと言わないでちょうだい」


(あー、やっぱこのババア嫌い)

 

 ダンとの飲み会がご破算になったのが気に入らないのか、ブスッとしているマチルダに、クレアはさっそく手のひらを返した。


「マチルダさん、昨日の保険金書類、直しておきましたから」


 皮肉をこめてそう報告すると、

 

「あらそう。ご苦労さま。もともとあなたの仕事だけどね」


 マチルダは素っ気なく返すと、さっさと自分の席に向かってしまった。

 

(あんたの仕事でしょうが、クソババア! ぶっ飛ばすぞ!)


 思わず、彼女の後頭部に分厚い事典を投げつけたい衝動に駆られたので、必死に自制するクレア。

 

 と、そこへ。


「あの……」


「はい、なんでしょう? ……あ、アッシュさん!?」


「はい、アッシュですが……」 


 振り返ると、そこにはいつもどおり、くたびれた様子のアッシュが立っていた。

 思わぬ登場に奇声を発するクレアを、アッシュが不思議そうに見やる。


「どうかされましたか……?」


「い、いえ、なんでも! それより、ご用件は?」


「今日の分の、仕事をいただきに参りました」


「ああ、はいはい、お仕事ですね、えーっと……」


 アッシュに振る予定だったタスクを、メモの中から探していると、耳障りなハイヒールの足音が近づいてくるのが聞こえた。


「ちょっと、アッシュ! あなたねえ、もっと身なりを清潔に――」


 そこまで言いかけたところで、マチルダの罵声が止まった。

 アッシュが落ち着き払った様子で言い返す。

 

「なるべく、清潔にしてきたつもりですが、ご不満でしょうか」


 そう、今日のアッシュは、いつもとは違っていた。

 髪には(くし)が通され、シャツの襟もピカピカだ。

 ズボンにも染み一つついていない。

 髭は綺麗にそられ、心なしか肌もつやめいているように感じられる。


(アリアちゃん……かな?)


 少なくとも、彼ひとりの力ではない、とクレアの女としての勘がささやいた。

 兄の容姿を貶されたのが、よほど腹に据えかねたのだろう。

 

『兄さんは、かっこいいから』


 そんなアリアの声まで聞こえてくるような気がして、クレアはくすりと微笑んだ。

 それが気に食わなかったのか、マチルダがキッとクレアをにらんだ。


「ちょっとあなた、なに笑ってるのよ!」


「い、いえ、別に……」


 クレアを萎縮させたことで、憂さ晴らしをしたのか、マチルダはジロジロと改めてアッシュの風体を見回した。


「……まあ、今日のところは及第点ってことにしておいてあげるわ。

 でも、帰りもそれくらい綺麗にしておきなさいよ! でないとギルドの扉はくぐらせませんからね!」


「はい、承知いたしました」


 マチルダの喚き声を意に介さず、アッシュはクレアから仕事の書かれたメモを受け取ると、一礼する。


(……やっぱり、似てる)

 

 そう確信したアリアは、 いつものように足をひきずりながら出ていくアッシュを、とっさに呼び止めた。


「あの!」


 怪訝そうな顔で振り向くアッシュに、クレアは迷った挙げ句、

 

「昨晩、なにをされてましたか?」


 そんな間抜けな質問をしてしまう。


(バカ! こんな聞き方で素直に答えてくれるわけないでしょ!) 


 一秒前の自分を叱り飛ばしてやりたい気分だったが、もう遅い。

 アッシュは眉一つ動かさずに言った。

 

「……家で寝ていましたが、なにか」


「そ、そうですか……」


「では」


 再び、クレアに背を向けたアッシュは、振り返ることなくギルドを辞していった。


「なに、気の迷い? いくら男漁りが好きなあなたでも、あれ(・・)はないんじゃない?」


「ははは……いや、なんとなく……」


「私に言わせると、あんな甲斐性なしの男は論外ね。相手にする価値もないわ」


(ダンからしたらあんたもそうでしょうね)


 よっぽどそう言ってやりたかったが、ぐっとこらえて、


「……そうですかね」


 と、若干の疑念を残すだけにとどめた。


 ◆


「じゃ、クレアさん。あとはよろしく」


「……はい、わかりました」


 いつものように、残務をクレアに押し付けると、マチルダは颯爽とギルドを後にした。

 周囲からは『またか』という呆れた目が向けられていることに、気付きもしない。

 

 無論、彼女自身、連日のように残業をしている同僚に、若干の罪悪感を持たないわけではなかった。

 しかし、


(ふん。言いたいことがあれば、直接言ってくればいいじゃないの)


 そう開き直り、『なにも言ってこないのは、自分を恐れているからだ』と勘違いして、自己肯定感を高めていた。

 実際には、完全に諦められているだけであり、


『クレアさん。わたしもお手伝いします』


『みんなで頑張りましょう! ほんと、最低ですよね、あの人』


『早く結婚して辞めればいいのに』


『できればとっくにしてるでしょ、やめなよ。ふふ』


『ちょっと、あれでも目上なんだから、陰口はそのへんにしておきなさい』


『『はーい』』


 と、受付嬢たちの結束感を高め、同時にクレアが自らの人望を高める道具として使われているだけだった


 しかし、そんなことなどつゆ知らず、今日もマチルダはのんきに夜の街へと繰り出すのだった。


 石畳の大通りの両脇には、色とりどりの看板を掲げた店が立ち並んでいる。

 武器屋、防具屋、雑貨屋、薬屋。

 そして、繁華街には欠かせない酒場。

 仕事を終えた人々が行き交い、商人たちの呼び込みの声が響く。


「お嬢ちゃんたち、一杯どう? 安くしとくよ?」


「おっ、お姉さん可愛いねー! うちの店で働かない? 

 大丈夫、変な店じゃないから!」


 活気に満ちた繁華街は、ただ歩いているだけでも気力が満ち、心が弾んでくるものだ。

 しかし、マチルダはじょじょに不機嫌さをつのらせていた。


(なんで誰もわたしに声をかけてこないのかしら?)


 どの店の呼び込みもスカウトも、マチルダが通りかかると、さっと目をそらし、まるで透明人間であるかのように無視するのだ。

 

 それだけではない。

 女に目がない冒険者たちも、マチルダの接近に気がつくと、ナンパするのをやめ、しらーっとした顔でそっぽを向く。


 理由は単純で、看板娘として雇うにも、一夜の遊び相手に選ぶにも、マチルダが歳を食いすぎているというだけなのだが、彼女には理解できていなかった。


(はあ……もしかして、私って……)


 ひとりで飲み屋街を何往復もするという不毛な行為を繰り返し、けっきょく無駄に終わったマチルダは、諦めて行きつけの酒場に腰を落ち着けることにした。


『銀の杯亭』と書かれた看板の下。

 重厚な木製の扉を開けると、そこには彼女好みの落ち着いた空間が広がっていた。

 

 壁は濃い茶色の木材で覆われ、高級感を演出する肖像画や風景画が飾られている。

 天井には真鍮製のシャンデリア。

 カウンターは磨き上げられたマホガニー材。

 その奥には、ずらりと並んだワイン、ブランデー、ウィスキーの高級銘柄。

 

 客層も、ギルドやそこらの酒場とはわけが違う。

 入口近くのテーブルには、立派な髭をたくわえた商人。

 紺色のビロードの上着に、金の懐中時計。

 日焼けしていない白い指には、宝石のついた指輪がいくつも光っている。


 その向かいには、同じく裕福そうな商人。

 ボトルで注文した高級ワインを、グラスに注ぎ、静かに乾杯して一口。


「うむ、やはりワインはルナージュ産に限りますな」


「まさしく。『シルバームーン』という銘柄でして、満月の晩にだけ月光に当てたブドウからつくったワインは、特別な味わいがするのですよ」


「ほう、実に興味深い。ぜひ詳しく……」


 ほかのテーブルでも、身なりのいい客たちが、上品に酒をたしなみ、微笑をたたえながら知的な会話を交わしている。


 間違っても、下品な馬鹿笑いが聞こえてきたり、怒鳴り合いの末に喧嘩が始まったり、吐瀉物(としゃぶつ)の酸っぱい臭いが漂ってきたりなどしない。

 あの忌まわしいギルドの酒場のように。

 

(そうよ。ここが私のいるべき場所だわ)

 

 自尊心を回復させたマチルダは、定位置であるカウンターの隅に、ゆったりと腰を下ろした。


「マスター、いつもので」

 

「かしこまりました」


 いかにも常連ぶった仕草で注文をすませ、出てきた安酒をあおる。

 喉が焼けるような感触と、ツンと鼻にくる酒気。

 

 だが、訪れたのは高揚感ではなく、心の底に吹き溜まっていたイライラだった。


(なんでこんなにいい女が、ひとりで酒なんて飲まなくちゃいけないの?)


 見れば、酒場にいる女はみな男連れで、一人客はマチルダだけ。

 誰も彼女のことなど気にしていないので、堂々としていればいいのだが、アルコールに脳をやられたマチルダにとっては、耐え難い屈辱のように感じられた。


「ねえ、聞いてよマスター」


「失礼、仕事がありますので」


 いつものようにマスターに絡もうとすると、ダンディなツーピース姿の彼は華麗にかわして裏手へ行ってしまった。

 いつも安酒一杯で何時間も粘る上に、ダル絡みまでしてくるマチルダは、出禁一歩手前の迷惑客として認識されているのだ。


 しかし、生粋の鈍感さでそのことにも気づかず、


(まあ、照れちゃって)


 茹だった脳みそでそう変換し、孤独な自分に酔うのだった。

 一人が嫌なら、別の一人客に声をかけてみるなりすればいいのだが、それはマチルダのチンケなプライドが許さなかった。


(女のほうから男に声をかけるなんて、まるで商売女みたいだわ)

 

 そう自分に言い聞かせていると、


「お一人ですか、レディ」


 マチルダ好みの低いハスキーボイスが耳朶(じだ)を打った。

 はっとしたマチルダが振り向くと、そこには一人の美しい青年が立っていた。


 長いアッシュブロンド(・・・・・・・・)の髪を後ろで一つに束ねた、整った顔立ち。

 深い青色のシャツに、上等な革のベスト。

 いったい、こんな田舎街のどこに、こんな当世風で垢抜けた男がいたのか、とマチルダが不思議に思うくらい、爽やかな見た目をしている。

 

 それでいて、なよっとしたところ――ヒモっぽさはなく、質実剛健な風格の持ち主だ。

 この店の雰囲気に、完璧に馴染んでいる。

 いや、それどころか、ここ『銀の杯亭』で一番の美貌を誇るといっても過言ではない。


 マチルダの目が、一瞬で獲物を見つけた狩人のように輝いた。


「え、ええ、一人よ!」


 慌てて姿勢を正し、髪を手ぐしで整える。

 あとで手洗い場に行って、化粧を直さないと。

 酔いで真っ赤になっていた頬が、さらに赤みを増した。

 

「でしたら、ご一緒しても?」


「ぜひ! ぜひお願いするわ!」


 嬉しさのあまり、店中に響き渡る大声がマチルダの口から飛び出す。

 そのうるささに周囲の客が、ちらりと彼女を見やったが、もちろん察する素振りはない。


(チャンスだわ。ついに私にもチャンスが来たわ……!)


 こっそり拳を握りしめるマチルダを、青年は怜悧な眼差しで見つめていた。


 

 

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