14話『向き合う』
「おい、こっちを見ろ。上官命令だぞ」
ツンツンとアッシュの二の腕付近をつつくと、彼はますます目を背けた。
面白い。
「いえ、俺は別に、あなたの部下では……」
「なに? この私が上官でなにが悪い? なにが不満だ?
こんな美人に命令されるなど、そうそうあることではないだろう」
それともなにか、とブリジットは冗談めかして言う。
「私が部下のほうがいいか? 別に構わんぞ、酒の席だからな」
「いや、そういうわけでも……」
「じゃあ、どういうわけだ。ん?」
執拗につつき回していると、とうとうアッシュが音を上げたようにブリジットのほうを向き直った。
その色素の薄い頬には、かすかに赤みが差していた。
「上官とか、部下とか、小娘とか、そういうのではなく。
ただ、さっき俺を助けてくれた、ブリジットさんが、一番魅力的かと、思います」
「…………」
思わぬ一撃に面食らうブリジット。
耳まで熱くなっているのを感じ、今度は彼女の方が顔を背けてしまった。
(こ、この男は……どこまで本気で言っているのか、まるでわからん!
告白か? 今のは告白なのか? それとも、本当にただ思ったことを口にしただけなのか?
ええい、思わせぶりなことを言うな! 困るだろう! 馬鹿者!)
自分のことを棚に上げ、心の中で罵倒するブリジット。
少しの間、お互いに沈黙が続く。
やがて、耐えられなくなったのか、アッシュのほうから口火を切った。
「すみません。飲みすぎました……忘れてください」
「お前な……あ、あまり真面目に答えるな。もっと、適当に返せばいいのだ。ああいうのは」
知ったようなことを言ってみたが、まだ顔から熱が取れていない自覚はあった。
「とにかく、私は……明日から、どうすればいいんだろうな」
ブリジットは、ジョッキを両手で包み込むようにして持った。
「このままじゃ、なにも変わらない。
だが、力ずくで従わせるような真似はしたくない。
どうすれば、私は父のようになれるんだろうな」
彼女の弱音に、アッシュはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「ブリジットさん。今日、十周で折れたこと、あれは……間違っていなかったと思います」
「……本当に、そう思うか?」
ブリジットは陰気な声を出した。
「ただ、舐められただけではないか」
「今はそうかもしれません」
アッシュは穏やかな調子で続けた。
「しかし、ブリジットさんは暴力に訴えなかった。
見せしめに誰かを半殺しにすることだってできたのに、そうしなかった。
それは、あなたが本当に目指している道を、見失わなかったからです」
「だが……」
「時間はかかります。すぐには変わらないかもしれません」
アッシュは少しさびしそうに微笑んだ。
「でも、周囲の人間は見ています。あなたが本気で守備隊の改善に取り組んでいるということを。
ならば、いつか必ず、それは報われると思います」
「……本当に、そう思うか?」
「現に、俺があなたに今日、救われましたから」
そう言って、アッシュはつまみのキャベツを一口頬張った。
「俺は、ずっと周りから『穀潰し』とバカにされながら生きています。
冒険者としても、人間としても、価値がないと」
「アッシュ……」
「でも、時たま、あなたのような人に親切にしてもらえるだけで、頑張ろうと思えます。
だから、俺は信じることにしてるんです。努力は必ず報われる、と。
だって、そのほうが救いがある」
ブリジットは、じっとアッシュの顔を見つめた。
酔っているせいか、目元が少しうるんでいるようだ。
だが、その瞳には、確かな信念が宿っていた。
「ブリジットさんのお父上も、きっと、あなたと同じ思いでおられたと思います。
命令違反をした兵をかばって、自分が罰を受けようとする将など、常識外れもいいところ。
そこに至るまで、何度も辛酸をなめてきたはずです。
ですが、だからこそ、誰からも慕われる上官になれたのではないでしょうか」
「……そうだろうな」
ブリジットは、自らの浅はかさを痛感した。
そうだ。父とて、最初から尊敬されていたわけではない。
むしろ、団長就任の際には、反感すら買っていたはずだ。
やれ、家柄が悪いだの、年齢が若すぎるだの、本人にはどうしようもないことで散々叩かれていたと聞く。
それでも、父は歯を食いしばって任務に向き合い続けた。
夕飯時に家にいた試しがないくらい多忙を極め、上からの圧力と、下からの突き上げに耐えながら、何年も苦労を重ねたのだ。
それに比べて、自分はなんだ?
赴任一日目に部下が言うことを聞かなかったくらいで、ヘソを曲げて酒場で見知らぬ男を捕まえて愚痴をこぼしている。
呆れた話だ。
そんな調子で、父のようになりたいなどとは、まさに噴飯ものである。
「明日から、また大変だと思います。
兵士たちは、きっと今日と同じように、ブリジットさんを試してくるでしょう。
ですが、諦めないでください。
あなたの本気は、いつか彼らにも伝わります」
「……ありがとう、アッシュ」
ブリジットは憑き物が落ちたように、小さく微笑んだ。
「頑張ろう、互いにな」
「ええ」
どちらからともなく、再び二人は乾杯し、ジョッキを空けた。
◆
翌朝。
ブリジットは、昨日より30分早く駐屯地に到着した。
昨夜の酒はとっくに抜けている。
多少の頭痛はあるが、その程度でへこたれるような身体ではない。
執務室に入ると、すでにドーガンが待っていた。
「おはようございます、隊長どの」
「うむ、おはよう。ドーガン」
ブリジットは深く息を吸った。
(私は、彼らのことをもっと知る必要がある)
昨晩、帰ったあとに出した結論がこれだった。
父がなぜ、部下から尊敬されていたか?
ただ、失敗を肩代わりしてやったからとか、命令違反を叱らなかったからとか、そんな表面的なことばかり見ていても仕方ない。
もっと、本質に迫らなければ。
ブリジットはドーガンの服装をじっくりと観察した。
相変わらずの無精髭に、しわくちゃの軍服。
しかし、よく見れば、ズボンの裏側に、不器用な当て布が施されている。
昨日は、大穴の空いていたところだ。
そこに、最低限の体裁は取り繕おうという気概が覗き見えた気がした。
上から下まで眺め回されたドーガンが、居心地悪そうに身じろぎする。
「な、なんですかい、隊長どの」
「……そこ、お前が自分で補修したのか?」
「え? ええ、そうですが、なにか」
「いや、立派な心がけだと思ってな。ほかの連中にも見習わせたい」
「はあ……」
てっきり、不格好だからやり直せ、とでも命じられると思っていたのかだろう。
ドーガンの返事は煮えきらないものだったが、少しだけ眉間のシワが緩んだのをブリジットは見て取った。
(少しずつだ。少しずつ、積み重ねていこう)
一朝一夕に結果を求めるから苦しくなるのだ。
そう簡単に、人の心をつかめれば、誰も苦労はしない。
「今日から、練兵場の整備を行う。
まずは草刈りと石拾いからだ。一日で終わらせるぞ」
「へえ。それはまあ、いいんですが……」
ドーガンは困ったように頭を掻いた。
「あいつら、そういう地味な作業は嫌がると思いますがね」
「構わん。やってもらう」
「まあ、言うだけ言ってはみますが……」
案の定、兵士たちからは不平たらたらだった。
「草刈りぃ? 別にいいじゃねえか、草なんかいくら生えてたって。なあ?」
「草がぼうぼうで、石ころがゴロゴロしてんのが戦場ってもんだ。
わざとこうしてあるんだよ。わかんねえかなー、お嬢様には」
聞こえよがしに陰口を叩く兵士のひとりを、ブリジットは目ざとく見咎めた。
「よし、そこのお前。ベクターといったな。私に戦場というものを教えてくれ」
「え? な、なんで俺の名前を……」
「なにがおかしい? 部下の名前も言えぬ上官がどこにいる」
「いやあ、まあそうですが……いきなり組手ってのは、ちょいと具合が悪いというか……」
困ったように顎ひげをいじるベクターに、ブリジットはなおも詰問した。
「なにが悪い? 言ってみろ」
「怪我させちまうかもしれねえ」
はっきりと言いきったベクターに、どっと笑いが起こる。
「いいぞー、ベクター! お嬢さんに思い知らせろ!」
「俺はベクターに賭ける! さあ、乗った乗った!」
「お、おい! バカども! すいません、隊長どの。賭けは軍規で禁止、ですよね?」
「通常なら、そうだ。しかし」
ブリジットは、バサッと仕立てのいいジャケットを脱ぎ捨てた。
「ここにはここのルールがある。そうだろう?」
兵士たちの盛り上がりが、最高潮に達する。
「いよっ、さすが隊長! 話がわかる!」
「俺はあんたに賭けたぜ! 勝ってくれよ!」
「自分から勝負を仕掛けておいて、負けるバカがいるものか」
「おっしゃるとおり!」
盛大な隊長コールが巻き起こり、ベクターもたじたじとなる。
ブリジットが、声援に応えるように腕まくりをしてみせたことで、さらに兵士たちは熱狂した。
その様子を見て、ドーガンが不可解そうに眉をひそめた。
「……隊長どの。いったい、どうされたんで?」
「なに。ちょっとした心変わりというやつだ」
「心変わり?」
「ああ」
ブリジットは、ゴキリと肩を鳴らすと、すでに及び腰になっているベクターのほうを向き、構えをとった。
真っ青な空のもと、晴れ渡るような笑顔を浮かべながら。
「私なりに、お前たちと向き合ってみようと思ったのさ」
勝負は、ブリジットの大勝利に終わった。




