13話『日陰者たちの酒宴』
「まずは、乾杯」
「う、うむ」
コン、と木製のジョッキを打ち合わせ、ブリジットは中身を少しだけ飲んだ。
頼んだのはビール。アッシュにすすめられたものだ。
てっきり、冒険者御用達の安酒かとたかをくくっていたのだが、
「……美味いな」
「それはよかった」
アッシュは嬉しそうに微笑んだ。
「ここのビールは、評判がいいんです。
クレアさん……受付嬢のひとりがビールにはうるさくて、特別いいやつを仕入れているとか。
酒のことは詳しくないですが、苦みと甘みのバランスがいいかと」
「確かに」
深く同意して、もう一口。
苦い。だが、嫌な苦さではない。
麦の香ばしさと、ほのかな甘み。
さらに、喉を通ったあとに広がる、爽やかな余韻。
(うまい……)
ワインのような華やかさはない。
だが、この素朴で庶民的な味わいは、ブリジットの荒んだ心によくしみた。
それに、飲みやすい。
アルコールの度数が低いのだろう。
これなら、ゆっくりと話ができる。
すでに、かなり酒が入っている自分に、そこまで配慮しての選択なら、なかなかのセンスだ。
軽く談笑し、程よく舌がほぐれたところで、アッシュが本題に触れてくれた。
「それで、俺に聞いてほしい愚痴というのは」
「うむ。私はここの守備隊の隊長として赴任してきたわけだが、その話がまだだったな。……なに? もうした?
そう、そこの守備隊がひどかった。まあ、とんでもない連中の集まりでな……」
そこで、ブリジットは今日あった出来事を包み隠さず話し始めた。
守備隊の顔役ドーガンの敬礼があまりにもひどかったこと。
兵士が時間になっても訓練をしていないどころか、兵舎で寝ぼけていたこと。
「なあ! 許せんよなあこんなこと!」
「まさしく、許しがたいことです」
「だろう! 奴ら、私が年端もいかぬ小娘だからと侮りおって……!」
早くも二杯目のジョッキを空け、叩きつけるようにテーブルに置くブリジット。
「もっとひどいのは練兵場だ。雑草だらけで、武器は錆びついていて、打ち込み用の的にカカシがかけてあった! カカシだぞ!? 畑じゃあるまいし!」
「それは、由々しき事態ですね」
「全く持ってそうだ! あれのどこが軍隊だ!
開墾前の荒れ地で、農民が血税をすすって飲んだくれているだけではないか!」
ブリジットは三杯目を注文し、それが来るのも待たずに話を続けた。
「それでな、罰として兵士たちに練兵場を二百周走るように命じた。
当然だろう?」
「当然です」
「ところが! あいつらときたら! なんて言ったと思う!?
『そんなに走ったら死んじまいます』『あっしらはもう歳なんでね』
……歳だと!? そんなこと関係あるか! だいたい、兵士ならこれくらい走れて当然だ!
日頃から! 真面目に! 訓練をしていればなあ!」
「お気持ちはよくわかります」
「だよなあ。お前ならわかってくれると思っていたよ……うう……」
ぶんぶんと拳を振り回しながら気炎を上げていたと思ったら、シクシクと泣き始めるブリジット。
アッシュからは『だいぶ酒が入っているな』と冷静な視線を向けられていたのだが、そのことに気づく素振りもない。
しばらくしてやってきた三杯目のジョッキを、半分くらい飲み干し、再びブリジットは怒りのエネルギーをチャージし直した。
「それで、挙句の果てにドーガンの奴がなんて言ったと思う?」
「……なんと?」
「『十周で勘弁してやってください』だと! 十周! たかが十周だぞ!?
こんなの、ただの準備運動ではないか! なんの罰にもならん!」
「おっしゃる通りです」
「しかも、しかもだ! 私が『二百周だ』と言い張ったら、ドーガンの奴!
『初日ですから』『ぼちぼちやっていきましょう』……ってな!
ふざけるな! 軍隊に初日もぼちぼちもあるか!
……と、言ってやりたかったのだが」
そこで、ブリジットはしゅんと肩を落として小さくなってしまった。
「……嫌になってしまって。私は折れてしまった。十周でいいと……」
「……それは」
ブリジットはうつむきながら、物憂げにつぶやく。
「情けない。完全に舐められてしまった。
これでは、奴らの言っていた通りだ。私なんて、所詮は現場を知らないお嬢様でしかないんだ……」
残ったビールを、少しだけ飲む。
先ほどまではちょうどよかった苦味が、ひときわ舌を突き刺すような感じがした。
「騎士学校では、こんなことはありえなかった。
上官の命令には絶対服従が当たり前だったからな。
上官が『走れ』と言えば、倒れるまで走る。
『取っ組み合え』と言えば、どちらかが失神するまでひたすら取っ組み合う」
「厳しいんですね」
「ああ。だが、それが軍隊というものだ。でなければ、規律が保てない」
コトリ、と空になったジョッキをコースターに置くブリジット。
「なのに、ここは……まるで子どもの遊び場だ。
規律もなにもない。酒を飲んで、寝坊して、訓練もろくにしない。上官の言うことも聞かない」
「……なるほど」
「もう、どうすればいいのかわからん。
力ずくで従わせることも、あるいはできるかもしれんが、それではダメだ」
「なぜでしょう」
「父が王立騎士団の団長をしていてな。誰に対しても厳しく、恐れられてはいたが、同時に尊敬もされていた。
恐怖ではなく、信頼で人を動かしていた」
それから、ブリジットは語り始めた。
◆
何年も前。まだ、ブリジットが幼かったころ。
父の執務室に、一人の兵士が呼び出された。
聞けば、任務中に命令違反を犯したのだという。
(きっと、怒られるんだ)
ブリジットは、こっそりと扉の隙間から中を覗いていた。
命令違反は、軍隊ではもっとも重い罪だ。
むち打ちか、降格か。最悪の場合は投獄もありうる。
だが、
『すまなかった』
父は怒るどころか、開口一番に謝罪したのだ。
『え……?』
どんな罰でも甘んじて受けるつもりだったであろう兵士が、きょとんとした様子で顔を上げる。
ブリジットも、同じく口をぽかんと開けていた。
『私の命令が間違っていた。処罰を受けるべきなのは私のほうだ。
そう上にも報告したはずなのだが……これから、もう一度正式に抗議しよう』
『違います! 私が団長殿のご命令を曲解し、規律を乱しました! すべての責任は私にあります!』
『だが、お前のおかげで、結果的に団の損害は抑えられた。
であれば、正されるべきは、誤った規律を敷いた私のほうだ』
『団長殿……』
『話は終わりだ。もう帰っていい』
『はっ……! 失礼します!』
深く頭を下げ、兵士は部屋を出ていった。
彼の目尻には、涙が光っていた。
あとで聞いた話だが、彼には妻と、生まれたばかりの子どもがいたのだという。
いったい、どれほどの葛藤があったことだろう。
彼は家族を路頭に迷わせるかもしれないと知った上で、仲間を守るために命令を破ったのだ。
そして、父はきっと、そこまで理解した上で、泥をかぶったのだ。
◆
「だから、私もそうなりたい。父のように、心から慕われる上官にな」
そうブリジットは締めくくった。
「力で従わせるのは簡単かもしれない。だが、それでは父に認めてもらえんだろう」
「立派なことです」
「立派なものか。ただの理想論だ」
ブリジットは自嘲するように笑った。
「学校に入ってから、ずっと周りにバカにされっぱなしだった。
『誰が女の上官なんかの下につきたいと思う?』
『女は家を守っていればいい。戦場に立つのは男の仕事だ』
『お前みたいなのは貰い手がいない』」
「……そんなことを、言われたのですか」
「まあ、最終的には、首席で卒業して、ぜんいん結果で黙らせてやったから、もういい。
だが、学校を出てからも同じことを言われるとはな……わかっていたつもりではいたが、少々堪える」
ブリジットは赤くなった顔で頬杖をつき、ぼーっと虚空を見つめた。
「だから、少し戻りたくなったのかもな。
守備隊隊長のブリジット・フォン・アルトハイムではなく、一人の小娘に……」
言ってから、ちょっと際どいセリフだったと反省し、ちらっとアッシュのほうをうかがう。
すると、
「……そう、ですか」
あまり顔に出ないタイプなのか、自分と同じくらい飲んでいるはずなのに、アッシュの顔色はまったく変わっていなかった。
しかし、視線を合わせようとしても、さりげなく明後日のほうを向かれてしまう。
さっきまで、ずっとこちらの目を見て話を聞いてくれていたのに。
ブリジットの中の悪戯心がむくむくと鎌首をもたげてくる。




