12話『掃除人と女騎士』
掃除人の男は、上背こそあるが、手足は細く、胸板は薄い。
軽く押されただけで、骨が折れてしまいそうなほどだ。
また、よく見れば、右足を引きずっており、なんらかの障がいを持っていることは明らかだった。
だというのに、飲んだくれたちは、まるでネズミをいたぶるネコのように、男を取り囲んで小突いたり、蹴りを入れたりしていた。
「まだ濡れてんだろうが、床がよ! 滑って転んじまったら責任取ってくれんのか!?」
「……申し訳ありません。すぐに」
それでも、男は顔色ひとつ変えることなく、粛々と業務を遂行していた。
まるで、こんなことには慣れきっているかのように。
気づけば、ブリジットの拳が固く握られていた。
「おい、貴様ら。なにをしている」
「ああ? なんだよ、嬢ちゃん。俺たちに用か?」
振り返った冒険者のひとりが、ブリジットの顔を見て口笛を吹き、他の者たちと顔を見合わせながら、ニヤニヤし始めた。
その下卑た顔つきに、昼間の怒りがぶり返してきたブリジットだったが、努めて冷静に告げた。
「私は守備隊隊長のブリジット・フォン・アルトハイムという。わかりやすく言うぞ。その男に謝れ」
しかし、冒険者たちはまともに取り合わず、仲間たちと肩を小突きあった。
「おい、『謝れ』だってよ。おっかねえな」
「せっかく綺麗な顔してんのに、こんなんじゃ、嫁の貰い手もいねえだろうな」
「わかってねえな。こういうお高くとまったのによ、『もう許して』って言わせるのが、最高にそそるんだ」
「違いねえ!」
ギャハハハハ! と下品な爆笑を響かせる男たちに、ブリジットはふつふつと怒りのボルテージが上がっていくのを感じた。
「……もう一度だけ言ってやる。その男に謝れ。三度目は言わせてくれるな」
ブリジットの剣呑な気配を察知したのか、男たちは口元に笑みを貼りつけたまま、今度は彼女を取り囲んだ。
「へえ。言わせたら、どうなるってんだい。お貴族様よ」
「あんたのこと、もっと教えてくれよ。仲良くしようぜ、なあ――」
男のひとりが、ブリジットの胸に手を伸ばそうとした、そのときだった。
ズダンッッ!!
ブリジットの手が、逆に男の手首を取ったかと思うと、男は空中で半回転して、背中から固い地面に叩きつけられた。
「なっ……!」
「てめえ!」
白目をむき、完全にのびている冒険者。
仲間たちはいきり立ち、剣を取ったが、直後に凍りついた。
「かかってこい。ちょうど、鬱憤晴らしがしたかったところだ」
す、と腰を落としたブリジットの構えが、あまりに堂に入っていて、まったく攻め入る隙が見当たらなかったのだ。
どこからどう攻めても、必ず返される。
しかも、一撃で意識を刈り取られるだろう。
酒で萎縮した彼らの脳みそでも、その程度のことはわかった。
「どうした? 教えてほしいんじゃなかったのか? 私のことを」
「く、くそっ……!」
「さあこい、存分にその腐った骨身に叩き込んでやる……!」
目をギラつかせてうなるブリジットの鬼気に気圧されたのか。
冒険者たちはすっかり青ざめ、どちらからともなく後ずさると、
「ひいっ……!」
「勘弁してくれ……!」
尻尾を巻いて逃げようとしたが、
「おい」
「は、はい!」
呼び止めた彼らに、ブリジットは足元でひっくり返っている冒険者のほうを顎でしゃくってみせた。
「忘れ物だ」
「す、すいませんでした……!」
「私の目が黒い限り、二度とあんな真似は許さん。肝に銘じておけ」
ぐったりとした仲間を二人がかりで担ぐと、今度こそ冒険者たちは足に羽が生えたような勢いで姿を消した。
「まったく……大丈夫か?」
「ええ。ありがとうございます」
打って変わって、優しい声音で声をかけるブリジットに、男はぺこりと頭を下げた。
(……む、近くで見ると、思っていたより大きいな)
女性にしては長身のブリジットが、男からとはいえ完全に見下されるのは、久しぶりの体験だった。
「大変だろう、その身体で掃除をするのは」
「お気遣いなく。慣れていますから。それに……」
「それに?」
「こういう仕事しか、できませんから。俺には」
そのすっかり諦めきったような素っ気ない語り口に、ブリジットは感じ入るものがあった。
自由の利かない身体を酷使し、人のためになる仕事をしているのに。
住民からはあざけられ、怒鳴りつけられ、人間扱いすらされない。
こんなことが、あっていいのだろうか?
「……お前も、頑張ってるのにな」
ぽつり、とブリジットはつぶやいた。
「……まあ」
「こんなに一生懸命なのにな」
「……はあ」
「なんで、なんで、誰も……」
気がつけば、ブリジットの目からは、再び大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていた。
「お前の努力を……見てやれないんだろうな……!」
完全に堰が切れてしまったのか。
とめどなく流れ出す涙を拭くこともせず、ブリジットは幼児のように泣きじゃくり始めた。
「こ、こ、こんなに……がんばっ、頑張ってるのに……うわあああん……!」
とつぜん目の前で号泣し始めた美女を前に、男はしばし唖然としていたが、おずおずと懐からハンカチを取り出し、ブリジットに差し出した。
「あの、よかったら、これを……」
「ぐすっ……ありがとう……いい奴だな、お前は……」
花がらの刺繍が施されたハンカチで目元をぬぐうと、柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。
(意外と、小物にも気を使うんだな)
よく見ると、表情こそくたびれきってはいるが、衣類は清潔でひげもきちんとそられている。
平民(便所掃除をする貴族などいない)なのに、普段からここまで身だしなみを整えている男は、はっきり言って希少種だ。
興味をひかれたブリジットは、しばらく男の顔を見つめてから尋ねた。
「お前、名前は?」
「アッシュといいます」
「灰色か。いい名だな。もう仕事は終わったのか?」
「はい、おかげさまで……」
「そうか。私も明日は休みだから、今夜はとことん飲むつもりだ」
「はあ……」
いまいち反応がにぶい男ことアッシュに、ブリジットは頬を染めながら口を尖らせた。
「……なにか、言うことはないのか?」
「言うこと?」
アッシュは大真面目に考え込んでいたが、やがておずおずと告げた。
「……楽しんでください」
「違う! こういうことを言うのもなんだが……こう、あるだろう!
こういう状況で、男から言うべきことが!」
「男から……言うべきこと?」
皆目検討もつかない、といった様子で、脂汗をにじませて苦しんでいたアッシュは、ようやく言葉をひねり出した。
「……あまり、飲みすぎないように」
「違う! あー、もういい! すまん! 忘れてくれ!」
らしくないことをしてしまった、と、今さらになって気恥ずかしさを覚えるブリジット。
しかし、きびすを返そうとした彼女に、アッシュは真摯な眼差しで問いかけた。
「よければ、教えてください。ああいった場面では……男はなんと言うべきなのでしょう」
「そ、それはだな……」
改めて問われると、なんとも口にしづらいものがある。
からかわれているのかと思ったが、アッシュの顔は真剣そのものだ。
(こ、こいつ、素でやっているのか? もし演技なら表彰ものだぞ)
照れくささで真っ赤になりながら、ブリジットは今しがた彼女が仕掛けていた『前フリ』について解説し始めた。
「ほら、夜の酒場で、いい年をした男と女が、こうして意気投合したじゃないか」
「はい」
「で、私のほうから、お前の名前と、『もう仕事は終わったのか』と。聞いたじゃないか。それで、お前は『終わりました』と」
「はい」
「そ、それで、私はこれから飲むつもりですと。あー、明日は休みだから、多少遅くなっても構いませんと。その、伝えたじゃないか」
(は、はしたない! なんとはしたない女なのだ、私は!)
思い返しただけで、羞恥のあまり、耳から煙が出そうなくらい顔が熱くなる。
なにが恥ずかしいって、これらはすべて聞きかじりの知識でしかないことだ。
しかも、ロマンスものの舞台や小説で……!
(もう二度としない、こんなこと)
そう固く心に誓ったところで、アッシュはようやく気づいたようにはっと目を丸くした。
「もしかして、俺のことを誘っていたと」
「~~~っ!」
少しの間、ブリジットは身悶えしながら両手で顔を覆っていたが、開き直ってアッシュを攻め立て始めた。
「……言い方が! 言い方があるだろう、もう少し! 事実だが!」
「ああ、すいません、すいません、『酒に』です。『酒に』
大丈夫です、伝わってます……!」
「わざとか? わざと私を辱めようと言っているのか?」
「そんな、滅相もない」
「本当か? 怪しいな」
疑惑の目を向けるブリジット。
アッシュは困ったように頭をポリポリとかいていたが、
「でしたら……」
やがて、すっと右手を差し出し、エスコートの姿勢をとる。
「こちらから、改めて誘わせてください。
酒を酌み交わしてこそ……わかり合えることもあるでしょうから」
「む……」
その自然な切り出し方に、ブリジットはある匂いを嗅ぎ取った。
こいつ、慣れてる、と。
少なくとも、自分よりも圧倒的に経験が上なのは間違いない。
誰かを酒の席に誘うことに関しては。
(遊ぶタイプには見えないし、男女の機微にも疎い。うーむ……)
さっきまで、アッシュの目の前から消えたくて仕方なかったブリジットだったが、
「……い、いいだろう」
好奇心には抗えず、とうとう、首を縦に振ったのだった。




