第11話『新人女騎士ブリジット』
クラウンヘイム守備隊駐屯地。
街を囲う外壁の一角にある、石造りの質素な建物が並ぶこの場所に、新たな風が吹きこもうとしていた。
「失礼する」
凛とした声とともに、執務室の扉が開いた。
部屋に入ってきたのは、群青色の軍服に身を包んだ、美しい女性だった。
金糸で縁取られた襟元。
肩には銀の肩章が輝き、胸元には騎士学校の卒業者に与えられる徽章がある。
パリッとした硬質な生地の仕立ては最上級のもので、ボタンには国鳥であるワシのあしらいが施されていた。
腰には騎士用の長剣がはかれ、使い込まれていながらも、手入れが行き届いていることがうかがえる。
「本日よりここクラウンヘイム守備隊隊長として着任した、ブリジット・フォン・アルトハイムだ。よろしく頼む」
「どうも、隊長どの。自分はドーガンといいます。ここの守備隊のまとめ役をやっております」
部屋の片隅で待っていた、髭面の中年男ドーガンのいい加減な敬礼に、さっそくブリジットは指導を入れる。
「なんだ、その敬礼は。それが上官に対する態度か!」
「……失礼いたしやした、隊長どの」
しぶしぶといった様子で、かかとを揃え、数十年ぶりにまともな敬礼をするドーガン。
(なんだ、この男は。まともに敬礼もできないのか? まったく、先が思いやられるな……)
とはいえ、こんな辺境の兵士たちに、王都のようなガチガチの規律を求めるのは酷というものだ。
『あまり、赴任先の古参兵たちを刺激するなよ。あとあと面倒だからな』
騎士学校の教官が言っていたことを思い出し、ブリジットは喉元まで込み上げてきた怒声を、ぐっとこらえる。
(我慢だ、ブリジット。私はこれから、彼らと上手くやっていかなければならんのだ。
このくらいのことで目くじらを立ててはいけない)
しかし、たかが敬礼すらまともにできない兵士に、いったいなにができるというのか。
もし、ここが騎士学校だったら、ドーガンはむち打ちの上に、日が暮れるまで走らされているところだ。
「さっそくだが、兵たちに挨拶がしたい。練兵場に案内してもらえるか?」
「へい。……あー、これから集めてきますので、少々お待ちを」
「集めてくる? 今は訓練時間のはずだが」
「すいやせん、ここではまだ自由時間ってことになってるんです。
昨日は休みでしたから……」
「……は?」
ブリジットは懐中時計の蓋を開き、ドーガンに突きつけた。
「いま何時だ?」
「……朝の九時です」
「訓練開始は、何時だ?」
ドーガンは気まずそうに答えた。
「十時からってことになってます」
「違う! 軍規では何時からだと聞いているんだ!」
部屋中に響き渡る大声で怒鳴りつけるブリジットに、ドーガンはブスッとした様子で、虚空に視線をさまよわせた。
「……確か、八時半からです」
「八時からだ馬鹿者! それにさっき、昨日は休みだからとかなんとか言っていたな? あれはどういう意味だ?」
ドーガンは言いづらそうに口をもごもごさせていたが、ブリジットの眉が釣り上がるのを見て、とうとう開き直ったように早口で言った。
「休みの日は、つまり酒を飲みますから、次の日はみな寝坊するんです。
なんで、訓練開始の時間も、それに合わせて遅くしたって寸法でさ」
「…………ふ」
ブリジットはプルプルと震えていたが、やがて、
「ふざけるな――――!!」
窓の外にまで聞こえるような大音声を炸裂させた。
◆
「……えー、こちらでさ」
しばらくして。
さんざん叱り飛ばされ、鬱憤がたまりきった様子のドーガンが、ブリジットを練兵場に案内した。
目の前に広がる光景を見て、ブリジットはあぜんとした。
練兵場は、文字通り兵を鍛えるために、駐屯地の中庭につくられた広場だ。
しかし、今はその役割を果たしているとは、とうてい言えなかった。
かつては整備されていたであろう地面は、いまや雑草が生い茂り、あちこちにこぶし大の石ころが転がっている。
打ち込み用の人形を立てる台にはなにも乗っておらず、代わりに畑用のカカシが、無残な状態で立てかけられていた。
武器庫の扉は半開きで、中には錆びた剣や、ヒビの入った盾が、無造作に積まれており、手入れされた形跡は微塵もない。
あまりの惨状に、ブリジットは再びこめかみに青筋を浮かべた。
「ここはどこだ? 廃墟か? それとも開墾前の未開拓地の間違いか?
私は屯田兵の指揮をするためにはるばるここまでやって来たのか?」
「いやあ、すんません。この間の嵐で、ちょいと荒れてまして……」
「それに、とっくに集合時間は過ぎているが、ひとりも来ていないな。
どうなっている? まだ寝ぼけているのか?」
「どうやら、そのようで。じきに来ますから、もう少々お待ちを……」
ブリジットは大きく深呼吸をし、血走った目でドーガンをにらみつけた。
「そうか。では、もう一度呼びに行ってこう伝えろ。
これから五分遅れるごとに、練兵場を百周走らせる。終わるまで水はいいが食事はやらん。
もちろん、貴様も一緒にだ。ドーガン。
もし兵たちがやらんと言ったら、貴様がその分を走れ。一生かけてもな……!」
「……へい」
ため息をつきながら兵舎へ向かったドーガンを待つこと、およそ五分。
タラタラと歩きながらやってきた兵たちを前に、ブリジットは指揮台の階段を踏み抜くような勢いで登ると、低い声で言い渡した。
「……十分遅れだ。今すぐ練兵場を二百周。駆け足」
ところが、兵士たちは顔を見合わせてニヤニヤするばかりで、一向に動き出そうとしない。
グツグツと煮えたぎる激情を鎮めようと努力しながら、ブリジットは繰り返した。
「聞こえなかったか? もう一度だけ言う。練兵場を二百周。駆け足。
三度目を言わせたら倍の四百周だ」
すると、ようやく兵士たちは口を開いた。
「あっしら、そんなに走らされたら死んじまいますよ、指揮官どの」
「もう歳ですんでね、お嬢さんみたいな若いのとは違うんですよ」
へっへっへっと痰の絡んだ笑い声を上げる兵士たち。
まるっきり舐め腐った態度の彼らを見下ろしながら、ブリジットは殺意に近い感情を抱いていた。
(見せしめか? 見せしめに、一人くらい半殺しにしたほうがいいのか?)
自分のような若造、それも女が相手では、最初から素直に命令に従ってくれるとは思っていなかったが、まさかここまでとは。
騎士学校に入りたての頃、叩き上げの教官を挑発した同期の貴族が、組手で腕の骨をへし折られていたのを思い出す。
同じことはもちろんできるが、ブリジットは鋼の自制心でそれを我慢した。
(いや、ダメだ。恐怖で縛りつけるやり方では、真の尊敬を勝ち得ることはできない。
そんなことをしても、私は父上に認めてもらえない)
葛藤しているブリジットに、ドーガンがおずおずと申し出た。
「あー、指揮官どの。どうでしょう、ここはひとつ、十周で勘弁してもらうってことで」
ブリジットは目を剥いた。
「十周だと!? そんなものは準備運動で走る量だ!」
「まあまあ、指揮官どの。お気持ちはわかりますが、今日はまだ初日ですから……ね? それで今日は終わりにして、明日からぼちぼちやっていきましょうや」
(なにが初日だからだ。初日だからなんだというのだ)
ギリギリと奥歯を噛み締めていたブリジットだったが、やがてしゅんとしてうなずいた。
もう、怒る気力も失せていた。
「……それでいい」
ドーガンは満足げにポンと手を打った。
「わかったな、お前ら! 十周走ったら、今日は終わってよし! ほら、行け行け! また指揮官どのが怒り出すぞ!」
「おー、怖い怖い」
「めんどくせえなあ……」
ほとんど、歩いているのと変わらないペースで、トロトロ走り出した兵士たちを横目に、ブリジットは無力感に打ちひしがれながら執務室へ戻っていった。
『ったく、これだから学校出のお貴族様は嫌なんだ。現場のことなんか、なんにもわかっちゃいないくせに、はりきっちまって』
『あんな手前のガキみてえな歳の小娘に威張り散らかされてたまるかってんだよ。なあ?』
『なーに。今日でうちのやり方はよくわかっただろ。明日からは大人しくしてるさ。今までの連中みたいにな』
そんな兵たちのあざ笑う声を聞きながら。
◆
その日の夜。
私服のシャツと、清楚なロングスカートに着替えたブリジットは、冒険者ギルドの大扉の前にたたずんでいた。
官舎で、ひとりヤケ酒を決め込んでも、余計に惨めになるだけだし、それならまだ人がいるところで飲みたかったからだ。
ギルドに入ると、一瞬周囲が静まり返り、それから彼女を見ながら、ひそひそとささやき声を交わし始めた。
「おい、誰だよあの子! このへんじゃ見ないよな?」
「すっげえ美人……ありゃ貴族だな」
「どっかのお姫様じゃねえか?」
(姫がこんなところに一人で来るか)
月並みな褒め言葉など言われ慣れているブリジットは、それらをスルーして、テーブルにつく。
すぐさまやってきたウェイトレスにワインと夕食を注文し、突き出しの発酵キャベツをもそもそと口に運ぶ。
(……意外とうまいな)
シャキシャキした食感に、酸味と塩味の絶妙なアンサンブルが、疲れ果てた心と身体にわずかなうるおいを与えてくれた。
続けて、給仕された白ワイン入りのジョッキをぐいっとあおり、またキャベツを一口。
(……うまい!)
辛口の白ワインが、酸っぱいキャベツと実によく合う。
無心で酒とつまみをぱくついていると、メインディッシュのローストポークとバゲットが届いた。
鉄板の上で、ジュウジュウと食欲をそそる音を奏でている豚肉を切り分け、スライスされたバゲットの上に乗せて、口の中に放り込む。
(うますぎる……!)
ガツンとくる脂身の旨味と、これでもかというくらいふられた塩コショウの風味が、舌と脳髄を震わせる。
堅パンも、いい小麦を使っているのか、舌触りがとてもよい。
実家で出る料理と遜色ないほどの出来栄えだ。
ブリジットの脳裏に、幼い頃から世話をしてもらっていた乳母のマルタの顔が浮かぶ。
彼女が焼くパンも、こんな風に温かくて、ふかふかだった。
父親に叱られ、泣いていた日も。
軍学校での日々が辛くて落ち込んでいた日も。
彼女は、いつだって焼き立てのパンと紅茶を用意して、何時間も泣き言に付き合ってくれた。
「……マルタ」
気がつくと、視界がうるみ、頬を熱いものが伝っていた。
慌てて目元を拭ったが、酔いも手伝ってか、あとからあとから溢れてきて止まらない。
(泣くな! 部下が見ていたらどうする。示しがつかんだろう!)
自分を叱り飛ばし、ブリジットは顔を洗うために、席を立った。
◆
酒場の奥まったところにある廊下を抜けて、屋外にあるトイレへ向かうブリジット。
すると、彼女の目に、トイレの前でちょっとしたいざこざが起きているのが映った。
「さっさと終わらせろよ、『穀潰し』が!
いつまでちんたら掃除してんだ、ああ!?」
「……申し訳ありません。いま終わりましたので、どうぞ」
バケツとモップを手にした男が、酔っぱらい冒険者たちに絡まれている構図だった。




