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第99話 三輪式階段昇降カート

 悠真は、鏡の中の不穏な景色をこれ以上ただ眺めていることはできなかった。


「……よし。行くぞ」

 自分に言い聞かせるように呟くと、トラックの荷台から下ろしたばかりの「三輪式階段昇降カート」を広げた。その上に、和央さんの店で仕入れたばかりのシルバーシート、予備のLEDヘッドライト、そして「象が暴れても切れない」という高強度ナイロンロープを積み上げる。さらに、ガルドへの土産にと考えたノーパンクタイヤの予備ホイールも、バンジーコードでがっちりと固定した。


 重さは数十キロに達しているはずだが、三輪カートの剛性は頼もしい。悠真は店の自動ドアを抜け、鏡の向こう側――エデンベルクの北壁沿いへと、一歩を踏み出した。


「……っ、空気が重い」

 肌を刺すような冷気と、鉄が錆びたような嫌な匂いが鼻をつく。

 日本側ではお昼過ぎの穏やかな時間だったが、エデンベルクは今、不気味な紫色の夕闇に包まれていた。上空に浮かぶ三つの月は、どれも血を吸ったように赤黒く淀んでいる。


「ゴロゴロ……カチ、カチ」

 石畳の上を、三輪カートが小気味よい音を立てて進む。

 いつもなら四輪のワゴンが「ガッ!」と溝にハマって立ち往生するような深い亀裂も、このカートは三つの車輪が交互に回転し、何事もなかったかのように滑らかに乗り越えていく。


 だが、路地の様子は異常だった。

 いつもなら、声をかけてくるはずの露天商たちは、皆一様に血の気の引いた顔で、急いで商品を荷馬車に積み込んでいた。その目は怯え、北の空を何度も振り返っている。


「おい、あんた! 行商人か!?」

 呼び止められたのは、城壁沿いに配置されていた衛兵だった。

「店を閉めてさっさと避難しろ! 『深淵の浸食』が始まってる。北の街道は封鎖だ!」

「衛兵さん、何が起きてるんですか? バルガスさんは!?」

 悠真が食い下がると、衛兵は忌々しそうに、巨大な石造りのギルドビルを指差した。

「ギルドマスターなら、前線に立つ冒険者たちに装備を配るのに躍起になってる。だが、灯りも包帯も足りねえ……。おい、聞いてんのか!? 逃げろって言ってんだ!」

 悠真は衛兵の警告を背に、逆にギルドビルへとカートを走らせた。


 三輪カートの機動力のおかげで、混乱する人混みを縫うように進むことができる。

 冒険者ギルドの前には、百人あまりの冒険者が詰めかけていた。

 しかし、その空気は重苦しい。


「魔導具の『灯火の石』が反応しねえ……。あの紫の霧に魔力を吸われてやがるんだ!」

「これじゃ迷宮には入れねえぞ。盲目状態で戦えっていうのか!?」

 冒険者たちが口々に不満と不安をぶつける中、ビルの中央階段に仁王立ちする巨躯があった。


 ギルドマスターのバルガスだ。

「ガタガタ抜かすな! 灯りがねえなら、松明を三倍用意しろ! 血が止まらねえなら、酒をぶっかけて布を巻け! エデンベルクが飲み込まれれば、お前たちの家族も、酒場も全部消えるんだぞ!」

 バルガスの怒声が響くが、現場の絶望感は拭えない。


 松明では、あの不気味な魔霧を透過させることはできない。魔力を動力源とするこの世界の魔導具が封じられた今、彼らは原始的な武器だけで、「深淵」から来る未知の怪物と戦わねばならないのだ。

 そこへ、石畳を叩く「カチ、カチ」という独特の金属音が近づいてきた。

「バルガスさん! 清算に来ました!」

 場違いなほど真っ直ぐな声に、バルガスが目を見開いた。

 人混みを割り、重い資材を山積みにした奇妙な三輪車を引いて現れたのは、悠真だった。


「ユウマ! 貴様、この状況で……!」

「清算は後でいいです。それよりこれ、予備も含めて全部持ってきました!」

 悠真はカートをバルガスの足元に突き出すと、最上段に積んでいた「シルバーシート」を一枚、バサリと広げた。

「これは反射率の高い特殊なシートです。夜間、松明の光をこれに反射させれば、一箇所の明かりで周囲を数倍明るく照らせます。それに、遮熱性が高い。負傷者の体温維持に最適です!」

 さらに、悠真は自分の頭につけていたLEDヘッドライトを最大光量で点灯させた。

「キィィィィン!」という高周波の音を立てる魔導具とは違い、乾電池という独立したエネルギーで光る日本のLED。

 その鋭い白光が、あたりを覆っていた不気味な紫の霧を真っ向から貫いた。


「なっ……魔力を吸われない灯りだと!?」

「これなら、霧の中でも視界が確保できます。バルガスさん、注文の追加分と、僕が『必要だ』と思った資材、すべてここにあります!」

 バルガスの顔に、猛々しい笑みが戻った。

「……ははっ。カッカッカ! 笑わせてくれる。役立つ物資をたった一人の商人が運び込んでくるとはな!」


 バルガスは悠真の肩を強く叩いた。

「いいか、野郎ども! 運命はまだ我らを見捨てていない! この『みやげ屋』が持ってきた光があれば、深淵の化け物どもに引導を渡してやれる。ユウマ、これらすべて、冒険者ギルドが言い値で買い上げよう。ただし、今すぐにだ!」

「買い上げは当然です。でも、僕にも一つ条件があります」

 悠真は、バルガスの瞳をじっと見据えて言った。

「条件? 金ならいくらでも出すと言ったはずだが」

「いえ、お金じゃない。……北の壁沿いの『希望の家』、あそこの子供たちの安全を保証してください。それから、今回の物資の分配。僕も現場で立ち会わせてください。どの道具がどう使われるか、僕が見極めないと、本当の性能は出せません」

 バルガスは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように頷いた。

「商売人にしておくには惜しい度胸だ。いいだろう、貴様を特例の『戦略支援官』として扱う。ゼノス! フィアネス! この小僧と資材を守れ! 我らはこれから北門へ向かう!」

「了解!」

 背後から、聞き慣れた声がした。

 見れば、フル装備のゼノスとフィアネス、そしてガルドが、すでに戦闘態勢で控えていた。

 ガルドは悠真が持ってきた三輪カートの予備タイヤを見て、目を輝かせている。

「へへっ、ユウマ。こいつは面白そうな部品だな。あとでじっくり見せてもらうぜ!」


「……さて、商売の時間だ」

 悠真は三輪カートのハンドルを握り直した。

 日本の商店街の誇り、和央さんの信頼、美紀ちゃんの期待。


 そのすべてを、このエデンベルクを救うための武器に変える。

「行きましょう。僕の持ってきた『おみやげ』が、どれほど役立つか証明して見せます」

 紫の霧が濃くなる中、悠真と冒険者たちは、街の命運を賭けて北門へと駆け出した。

 石畳を鳴らす三輪カートの音は、絶望に沈んでいた街に響く、反撃のドラムロールのようだった。

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