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第97話 異変の前触れ

 大型資材センターの広大な駐車場。悠真は、購入したばかりの「三輪式階段昇降カート」と、ずっしりと重い「ノーパンクタイヤ」の予備ホイール一式をトラックの荷台へ丁寧に積み込んでいた。


 金属同士が触れ合うカチャンという硬質な音が、午後の柔らかな空気の中で反響する。


「よし、これで固定は完璧だな」

 バンジーロープで荷物を締め上げ、悠真は満足げに頷いた。この三輪カートは、三角形の頂点にそれぞれ車輪が配置された特殊な構造をしている。段差にぶつかると、軸が回転して次の車輪が段差の上に着地する。日本の駅の階段や古いビルの搬入路で活躍するこの「知恵」は、凸凹だらけのエデンベルクの石畳において、魔法にも勝る機動力を発揮するはずだ。


 ふと、荷台の隅に置いた特売で山積みされていたのでつい買ってしまった「ゲルクッション」に目が留まる。


 最新の人間工学に基づいて設計された、ハニカム構造の青いシリコン素材。

(あの硬い木の椅子……。これ一つ敷くだけで、腰の痛みは劇的に減るだろうな)


 悠真は、自分が仕入れる「商品」が、単なる贅沢品ではなく、誰かの切実な「痛み」を和らげる道具になりつつあることを実感していた。お土産屋の店主として、ただ珍しいものを売るのではなく、あちら側の生活に寄り添った「ソリューション」を届ける。それが今の悠真の新しい指針になりつつあった。


 運転席に乗り込み、エンジンをかける。

「そういえば……」

 ダッシュボードに置いた手帳をめくり、悠真は思い出した。

「冒険者ギルドのバルガスさんに、納品したブルーシートとLEDヘッドライトの代金などの精算は、ギルドの口座に入れとくから次に来た時に確認に来てくれと言われていたっけ。商業ギルドとの契約も済んだし、次はあっちの『顔』を見に行かないと」


 あの強面の、しかしどこか義理堅いギルドマスター。彼がこの「三輪カート」を見たら、どんな顔をするだろうか。あるいは、ヘッドライトの予備電池を切らして泣きつかれるのが先か。

 そんな呑気な想像をしながら、悠真はトラックを滑らせた。


 だが、その頃。

 悠真が「平和な買い出し」を楽しんでいる裏側で、アルテミシアの、それもエデンベルクの心臓部では、凍りつくような緊張が走っていた。

 エデンベルク冒険者ギルドのギルドマスター室の重厚な黒檀のデスクを叩く音が、静まり返った執務室に響いた。


「……間違いないのか? 報告を繰り返せ」

 ギルドマスター、バルガスの声は地を這うように低い。彼の前で膝をついているのは、斥候スカウトとして名高いベテラン冒険者の男だった。男の装備はボロボロに引き裂かれ、露出した肌にはどす黒い魔力の残り香が漂っている。

「はっ……。北の『深緑の迷宮』、第三階層から第五階層にかけて、魔素マナの濃度が通常の十倍以上に跳ね上がっています。それに、出現する魔物の個体数が異常です。まるで……何かに追い立てられるように、階層を駆け上がってきている」

 バルガスの隣で、副官の女性が地図に赤い印を書き込んだ。

「追い立てられている? 迷宮の『ロード』が変わったというのか?」

「いえ、もっと質が悪い。……『深淵の浸食』です。迷宮の最深部で、この世界のことわりとは異なる、黒い『澱み』が溢れ出しているようです」

 バルガスの眉間に深い皺が刻まれる。

 深淵の浸食。それは数百年に一度、この世界の境界が揺らぐ時に起きると伝承される厄災の予兆だ。迷宮が狂い、本来そこにいるはずのない強力な魔物が、溢れ出す水のように地上へ押し寄せようとしている。


「バルガス様、このままでは数日中に『魔物の氾濫スタンピード』が起きます。北の外壁沿い……あそこは真っ先に飲み込まれる」

「……北の外壁か」

 バルガスの脳裏に、つい先日、妙な道具を持ち込んできたあの「行商人」の顔が浮かんだ。

 そして、そのすぐ近くにある孤児院『希望の家』。

 あの男が持ち込んだ、太陽のように明るい「ヘッドライト」。

 闇を切り裂くあの光が、今ほど必要とされる状況はないだろう。

「非常事態宣言の準備をしろ。街中の冒険者を召集する。商業ギルドのローレンツにも伝えろ。私利私欲は後回しだ、物資を吐き出させろ」

 バルガスは立ち上がり、壁にかけられた巨大な戦斧を手に取った。


「……それと、あの『みやげ屋』の小僧だ。もし奴が店を開いているなら、直ちにギルドへ呼び寄せろ。奴の持っている『未知の資材』……あれが、この街を救う鍵になるかもしれん」

 窓の外では、不気味に赤みを帯びた三つの月が、静かにエデンベルクを照らしていた。


 石畳の路地には、昼間の活気とは違う、湿った風が吹き抜ける。

「……あれ?」

 日本の国道を走る悠真は、ふと首筋に冷たいものを感じた。

 窓からの風ではない。もっと本能的な、何かが騒ぎ立てるような感覚。

「気のせいか……。それとも、またあっちで何かが起きてるのかな」

 悠真はバックミラーで、荷台に積まれた三輪カートを確認した。


 トラックは、夕暮れ時の商店街へと戻っていく。

 シャッターの向こう側で、エデンベルクが悲鳴を上げているとも知らずに。


「よし、戻ったら美紀ちゃんにメールして、あとはギルド用の『非常食』も追加で注文しとこうか。なんか、嫌な予感がするしな」

 悠真の「商人の勘」が、無意識に最悪の事態に備えようとしていた。

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