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第95話 抱きしめる声

 エデンベルクの北壁沿い。石畳の上を歩く子供たちの足取りは、まるで雲の上を跳ねているかのように軽やかだった。


 一番年長のアリアが抱える大きな袋からは、この世界の甘味とは一線を画す、どこか華やかで芳醇な「幸せの予感」が漏れ出している。背後を歩く子供たちは、さっき見た『魔法の鏡』の衝撃が冷めやらない様子で、口々に興奮を分かち合っていた。


 「ねえ、見た!? あのパンのヒーロー、マントで空を飛んでたよ!」

「バイキンをやっつける時のパンチ、すごかったなあ……」

「顔を分けてあげるなんて、あんなに優しい人、エデンベルクにもいるのかな?」

 子供たちの会話は、これまでの「明日の食い扶持」を案じるような切迫したものではなくなっていた。彼らの心には、悠真の店で見たあの真っ赤なヒーローの姿――自己犠牲を厭わず、空腹や寂しさに寄り添う絶対的な「正義」が、鮮烈な色彩として刻まれていた。


 なかでも、一番小さなリナの変貌ぶりは劇的だった。

 いつもは亡き父の形見である『抱きしめる声(ハグ・ボイス)』を不安げに握りしめ、うつむきがちに歩いていた彼女が、今は小さな胸を張り、鼻歌を口ずさんでいる。

 「……そうだ、うれしいんだ、いきる、よろこび。たとえ、むねの、きずがいたんでも……」

 まだ拙い発音だが、それは紛れもなく、悠真の店で流れていたあの主題歌の一節だった。


 アリアはそんな子供たちの背中を見つめながら、袋の中の魔法瓶(マグボトル) ――シスター・マーサへのプレゼントを、もう一度ぎゅっと抱きしめた。

「みんな、いい? シスターへのプレゼントは絶対に当日まで内緒だよ。お菓子は『シスターとみんなで食べる分』として渡すけど、魔法瓶の方は、お部屋の隅に隠しておくこと!」


「「「はーい!」」」


 孤児院『希望の家』の古びた木の扉をくぐると、いつものようにシスター・マーサが温かいスープの匂いと共に迎えてくれた。

「おや、みんなでお出かけして、一体何を抱えてきたの?」

「シスター! これ、ユウマさんのお店でもらったお菓子なの! みんなで食べよう!」

 アリアがそう言って袋から色とりどりのパッケージを取り出すと、シスター・マーサは目を丸くした。


「まあ……! あのお店の? あそこは今、大人たちの間でも噂の場所よ。こんなにたくさん、どうしたの?」

「私たちが集めたお金で……えっと、少しお買い物をして、これはサービスでもらったんです!」

 アリアは、シスターへの真のプレゼントが隠されていることは、おくびにも出さなかった。それからの内職の休憩時間はこれまでにないほど豪華なお茶会となった。日本のクッキーやキャンディーが並び、子供たちは一粒一粒を宝石のように大切に、それでいて最高に美味しそうに頬張った。


 翌日から、孤児院の日常は一変した。

といっても、やるべき作業が変わったわけではない。彼らの仕事は、マダム・レイナの魔導具店『概念工房ワークス』から発注されている、内職用の魔道具『抱きしめる声(ハグ・ボイス)』の製作だ。


 作業場には、マダム・レイナが作成した『縫製の魔羊皮(プロセス・マップ)』が広げられている。そこには正確な型紙と、魔力を効率よく通すための縫い順が記されている。


 しかし、アリアはこの数ヶ月、あることに気づいていた。

抱きしめる声(ハグ・ボイス)」は、実は孤児院「慈愛の灯」で作られた個体の方が、店での評判が圧倒的に高く、すぐに売り切れてしまうのだ。

 その理由は、レイナの店で働いているミミリアが言っていた。

「レイナのマップは完璧だけど、あの子たちが作るものには、マップには書いていない『温かみ』があるの」

 そして今、その「温かみ」に、新たな魂が宿ろうとしていた。


 作業台に向かうリナの横顔は真剣そのものだった。彼女は、父の形見である「ア○パ○マンに似たぬいぐるみを隣に置き、針を動かしている。

「……なにを、して、いきるのか。こたえられない、なんて、いやだ……」

 歌に合わせて、リナの針が魔法の糸を運んでいく。

 以前までのリナは、単にマップに従って、寂しさを紛らわせるために縫っていた。しかし、今の彼女の手元にあるのは、ただの綿を詰めた袋ではない。

「これは、困っている人を助けるヒーローなんだ。寂しい夜に、お父さんみたいに守ってくれるヒーローなの」

 リナが綿を詰める仕草は、まるでもう一つの命を優しく包み込むようだった。彼女が作るぬいぐるみの表情は、型紙通りであるはずなのに、どこか慈愛に満ち、抱きしめた瞬間に「安心感」を物理的に放出するような不思議なオーラを纏い始めていた。

 他の子供たちも同様だった。


 「おみやげのながもり」で見たアニメの自分の顔をちぎってまで誰かを助ける姿。その「自己犠牲」と「献身」の精神が、そのまま魔道具への『祈り』となって変換されているのだ。


 年長のアリアは、その様子を見て深い感銘を受けていた。

「……そうか。私たちは今まで、形を作っていただけだったんだ。でも、ユウマさんの店で『本物』を見たことで、このぬいぐるみが何のためにあるのか、その『心』がわかったんだわ」

 アリアが縫い上げる「抱きしめる声」の胸元には、マップにはない隠し刺繍が施された。それは、あのヒーローのマークを簡略化したような、太陽と愛を象徴する意匠だ。

 「マダム・レイナは『機能』を設計した。でも、ユウマさんは私たちに『物語』をくれた」


 数日後。

 シスター・マーサの誕生日当日、孤児院には小さな奇跡が起きた。

 隠されていた魔法瓶(マグボトル)と、和柄の扇子と手拭いをプレゼントした瞬間、シスターは人目も憚らず涙を流して子供たちを抱きしめた。

「こんな……こんなに素晴らしい『魔法』の品を、私のために……」

魔法瓶(マグボトル)っていうんだよ、シスター! ずっと温かいんだよ!」

 その光景は、まさに悠真が店で見せた、誰かを笑顔にするための「お土産」そのものだった。

 

 孤児院の窓からは、三つの月が穏やかに照らしていた。

 エデンベルクの夜は相変わらず過酷で、城壁の外には魔物が潜んでいる。しかし、この『希望の家』の中だけは、日本の商店街からもたらされた「正義と優しさの物語」が、消えることのない温かな灯火となって、小さな職人たちの指先を動かし続けていた。

 「さあ、仕事頑張ってあのお店にお菓子を買いに行こうね!」

「うん! 続き、また見せてくれるかな?」

 アリアは、リナが抱きしめるぬいぐるみの丸い鼻を指先でなぞった。

 そこには、アルテミシアのどんな強力な魔法よりも強い、「愛と勇気」という名の魔法が、確かに宿り始めていた。

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