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第90話 和牛入りコロッケ

三ツ谷精肉店の店先に漂う、ラードの香ばしい匂い。それはこの街の住人にとって、食事時を知らせるチャイムのようなものだった。


「真翔くん、また来るね。」

希実は結衣の手を引き、ほかほかと湯気を立てる紙袋を大事そうに抱えて店を後にした。


「ママ、いいにおいする!」

「ふふ、おばあちゃんと一緒に食べようね。あと、運が良ければお兄ちゃん……悠真おじちゃんも食べに来るかもよ?」


希実が自宅へ寄って母に紙袋を見せる。

「あら、いい匂いね。三ツ谷さんとこのコロッケ?」

「そう。真翔くんがちょうど揚げたてをくれたの。お兄ちゃんも最近あそこのお肉を仕入れてるみたいだし、なんだか縁があるわよね」


希実はテーブルの上に、三ツ谷のロゴが入った油の染みた紙袋を並べた。その横には、結衣が「おまけ」でもらった唐揚げも誇らしげに添えられている。


一方その頃、悠真はトラックを走らせていた。

午前中にエデンベルクで感じた石畳の振動と、金貨の重み。それが今、ハンドルを握る手の感覚と奇妙に混ざり合っている。


向かったのは、少し離れた場所にある大型のホームセンターと、物流資材専門店だ。

「バルガスさんも言ってたけど、あの『赤いワゴン』はあくまでキャンプ用だ。石畳の溝にハマりやすいのが弱点なんだよな……」

悠真は、資材専門店の奥深くにある運搬器具コーナーで立ち止まった。


そこには、日本の物流現場を支える「英知」がずらりと並んでいた。

「これだ……三輪式の階段昇降カート。これなら段差の多いエデンベルクの路地でも、車輪が交互に回ってスムーズに乗り越えられるはずだ」

悠真は展示品のカートを実際に動かしてみた。カシャカシャと軽快に回る三つの車輪。これなら、あの厳格なバルガスも、あるいは道具にうるさいガルドも、一目で「これだ!」と叫ぶに違いない。

さらに悠真の目を引いたのは、アルミ製の『ハンディキャンパー(折りたたみ式リヤカー)』だった。

「タイヤが太い。ノーパンクタイヤか。これなら、あちらの世界のガルドさんに見せれば、向こうの頑丈な木材や魔法で強化した金属を使って、似たような『新型荷車』が作れるかもしれない」


悠真は夢中でメモを取った。

三輪式カート(段差用)

アルミ製リヤカー(大量搬送用)

ストレッチフィルム(荷崩れ防止・防水用)

耐水メモ帳と筆記用具(冒険者用)


「ストレッチフィルムなんて、ギルドの連中が見たら『透明な拘束魔法』か何かだと思うんじゃないか?」

想像して一人で吹き出してしまう。だが、荷物をぐるぐる巻きにして固定し、さらに雨からも守れるこの透明な膜は、異世界での物流において劇薬となるはずだ。


一通りリサーチを終え、必要なサンプルの発注を済ませた頃には、空は柔らかな茜色に染まっていた。

日本での一日は、平穏に、しかし着実に進んでいる。


夜、実家の玄関を開けると、再びあの「香り」が悠真を迎えた。

「ただいまー」

「お帰り、悠真。いいところに来たわね」

母の声に導かれてリビングへ行くと、そこには希実と結衣が食卓を囲んでいた。

「あ、お兄ちゃん! ほら、三ツ谷さんのコロッケ。真翔くんが、お兄ちゃんも買いに来たって言ってたよ」

希実が皿を差し出した。そこには、キツネ色に揚がった『和牛入りコロッケ』が、堂々と鎮座している。

悠真は箸を手に取り、まずは一口、その衣を割った。

サクッ、という完璧な音。

中から溢れ出すのは、ジャガイモの甘みと、三ツ谷さんが誇る和牛の濃厚な肉汁だ。

「……うまいな。やっぱり、ここのは違う」

悠真は噛み締めながら、午前中にエデンベルクで見た光景を重ねていた。


奏多が作ったカレー。あのルーの中に溶けていたのも、同じ三ツ谷さんの和牛だ。

(三ツ谷さんはここで、奏多さんはあっちで。……僕はただ、その間を繋いでいるだけだけど)

「お兄ちゃん、何ニヤニヤしてるの? 怖いんだけど」

希実が怪訝そうな顔で覗き込んでくる。


「いや、なんでもない。ただ、このコロッケを作った人と、食べた人の顔を両方知ってるっていうのは、結構贅沢なことだなって思ってさ」

「何それ、格好つけて。あ、そうそう、真翔くんが言ってたよ。お兄ちゃんがすごい真剣な顔でお肉を選んでたって。熱心なのに驚いてたわよ」

「そりゃあね……。あちらの……いや、大事なお客さんが、この肉で人生が変わるかもしれないんだ。適当なものは選べないよ」

悠真の言葉に母が黙って頷き

「商売っていうのは、信頼を売る仕事だよ。お前が三ツ谷さんを信頼し、客がお前を信頼する。その鎖を繋ぎ続けるのが、一番難しくて、一番面白いんだ」

悠真は、母親の言葉を噛み締めながら、二つ目のコロッケにソースをかけた。

今、自分の手にあるこの「普通の幸せ」が、次元を隔てた異世界では「希望の光」として輝いている。

それは、お土産屋の店主という地味な仕事の、何よりの醍醐味だった。

「ごちそうさま。美味しかったよ。…これ、結衣に」

悠真はポケットから、アルテミシアへ持っていくためのサンプルの一つ、動物の形をした小さなクッキーを取り出した。

「わあ! どうぶつさん!」

「お兄ちゃん、これうちの店で売ってるやつ?」

「まあ、そんな感じ。……ちょっとした『お土産』だよ」

結衣の笑顔を見ながら、悠真は確信した。


明日、美紀ちゃんが持ってきてくれる新商品も、きっとエデンベルクの子供たちをこれくらい笑顔にするだろう。

深夜、自室のベッドに横になり、悠真は今日見た物流資材のパンフレットを眺めた。

三輪カート。リヤカー。ストレッチフィルム。

「よし。明後日はこれをガルドさんやバルガスさんに見せて、腰を抜かさせてやろう」

目を閉じると、静かな夜の向こうに、三つの月が輝くエデンベルクの喧騒が、幻のように、しかし確かに聴こえた気がした。

悠真は、心地よい疲労感と共に、深い眠りに落ちていった。

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